第40話
浅野さんは目をとろんとさせて、俺を見つめてくる。
「ちょ……ちょ……いや、ま、待ってくれよ」
俺が制止すると浅野さんは少し戸惑った顔を見せる。
「ひ……広臣君は嫌なの?」
「嫌というか……付き合ってもないし……だろ?」
浅野さんはフフッと笑う。
「そのセリフ、どっちが女の子かわかんないね。じゃ、付き合う?」
「ちょ……どうしたんだよ……やっぱり今日変だぞ」
浅野さんはそこで唇を噛み、黙ると大粒の涙を流す。長いまつげを伝って垂れてきた涙は更に俺の頬を伝ってシーツに吸い込まれていく。
「わかんない……わかんないんだよね……どうしたらいいんだろ……」
「一回落ち着こう、な? や、焼きそば食べるか? 花火、ほら! 花火上がってるぞー。後ろ見てみろよ、綺麗だぞ」
明らかにいつもと違う雰囲気なので戸惑ってしまい、口々に色んな事を言ってみる。
浅野さんは一瞬だけ目を合わせてくれたが、ニヤッとすると俺に覆いかぶさってきた。
「うっ……」
「あ……ごめんね。腕の力が限界で……少しだけこのままでいいかな?」
浅野さんが耳元で囁く。
いいか悪いかで言えば良くはない。
だが、浅野さんの様子からして要求はなるべく聞いたほうが良さそうなのでかくかくと首を立てに動かす。
息は努めて浅くする。でないと浅野さんの匂いを一気に吸い込んでしまい、身体のあらゆる部分が反応してしまいそうになるからだ。
嵐が去るまでは数分だった。花火は何発も打ち上がったのだが、どんな色、形だったのかは天井に映った影から推測するしかなかった。
そんなことをしているうち、ごろんと横に寝転ぶ形で浅野さんが俺の上から離れていく。
右腕は枕のようにして使われているし、手の平は浅野さんのおもちゃのようにふにふにと弄ばれているが、覆いかぶさられるよりはマシだ。
「ふぅ……落ち着いたよ。ごめんね、広臣君」
俺に背中を向けて浅野さんが呟く。相変わらず右手は浅野さんのおもちゃだ。
「なんか……疲れてるのか?」
「あはは……どうかな……」
浅野さんは乾いた笑いしか出来ないようだ。
「ま、そりゃそうかもな。俺みたいな陰キャと違って友達もいるし、皆アクティブだもんなぁ。夏休みがほぼ配信で終わるのは悲しいよな」
「いやぁ……陽キャは辛いですなぁ」
「陽キャの自覚はあるんだな……」
「ま、それなりにね」
会話が止まると浅野さんはまた「はぁ」とため息をつく。
「休み、もらったらどうだ? アイリスの配信頻度はわかんないけど、一週間くらいなら穴を開けても大丈夫なんじゃないか?」
「どうかな……皆が頑張ってる時に一人だけ遊んでるなんて出来ないよ。それにもうすぐチャンネル登録者も百万人なんだ。記念配信の企画もしないといけないし、休んでる暇無いんだよね。ま、私が頑張ったところで撫子のアイディアに勝てないから考えたところで意味無いんだけどね。そのくせ『なんでこの企画を考えたんですか? 見込み視聴者は? ターゲット層は?』ってすっごく詰められるしさ」
浅野さんは早口でブツブツと愚痴り始める。こんな姿は初めて見たので驚きつつも話を聞くことにした。
「それは……大変だな」
「大変なんだ。友達と泊まりの旅行もいけないし、皆と放課後遊べるのもたまにだし……」
浅野さんは日頃の鬱憤を吐き出しているとまた感情が昂ぶってきたようで鼻をすすり始める。
「ごっ、ごめんね……折角花火一緒に見てくれるのに。こんな変な話ばかりだし、花火見てないし……」
「気にすんなよ。ちなみに今日はやりたいことはできたのか?」
「出来たよ。浴衣デートにかき氷に出店の食べ歩き……は歩いてないけど。でも、もっとたっぷり時間が欲しいな。最近、何でもかんでも効率重視で考えちゃうんだよね。家で花火見たかったのは広臣君が人混み嫌いなのもあるけど、このまま花火が終わって広臣君を見送ったらすぐに配信出来るからだしさ」
「頑張ってるな」
空いていた左手を使って浅野さんの頭を後ろから撫でる。浅野さんは身体をビクっと震わせて固まる。
「あ……ごめん……」
「び、びっくりしただけだから。今のはとても良かったね、うん。危うく飛ぶところだったよ」
俺が謝ると浅野さんは怪しげな例えで返してくる。
それから、浅野さんは器用に頭を見ずにまとめていた髪の毛をするすると解く。ずっと硬められていた髪の毛はまだその時の形状を記憶してうねっているが、相変わらず綺麗な髪の毛だ。
「ど……どうぞ! お願いします! ついでに『えらい』も言ってください!」
浅野さんは俺の右手をぺしぺしと叩きながらそんなオーダーをしてくる。
普段なら断る案件だが、今日の弱り方からして断らないことにした。
「え……えらいえらい」
俺の左手が頭を往復する度に浅野さんは猫のように喉を鳴らして超音波のような声を出す。
俺に背中を向けたまま浅野さんは徐々に俺との距離を詰めてくる。
ベッドはセミダブルくらいの広さしかないため、近づかれた分だけ後ずさって距離を保てたのは一瞬ですぐに壁に背中が張り付く。
浅野さんはそのまま俺の体にすっぽりと収まるように背中を預けてきた。保健室で浅野さんが侵入してきたときと逆の形だ。
ほぼ無理やり抱きしめる形になるように両手も持っていかれてしまった。
「これは……とても元気になるね。うん、間違いないよ」
「そ……それは良かったな」
「いやぁ、悪いねぇ。久々にヘラっちゃったよ」
声もいつも通りなので、精神状態もかなり回復してきたようだ。
「ま、そういうときもあるよな」
「あはは……それよか腕、痛くない?」
「まだ大丈夫だぞ」
「じゃ、もう少しこのままかな」
「はいよ」
俺の許可を得たからか、浅野さんは腕を甘噛してきたり体を擦り付けてきたりとやりたい放題だ。
人が必死に腰を引いて当たらないようにして気まずくならないようにしていることにはまるで気づかないらしい。
「それにしても広臣君ってすごいよね」
「何がだ?」
「ここまでお膳立てされても絶対に私に手出さないじゃん。このままおっぱいくらいなら触っても怒んないよ?」
「いや……だめだろ……」
口ではそう言いつつも筋肉を動かす電気信号が一瞬だけ走った。すぐに理性で腕を止めたが。
頭の中心にいるのはサクラちゃんだ。浅野さんはサクラちゃんの友人だし、その浅野さんと変な関係になったらサクラちゃんにまで嫌われてしまうかもしれない。
いくら浅野さんが可愛かろうとそこだけは譲れない一線だ。
「だよねぇ。ま、広臣君は優しいからね。だから私も安心してこういう風にくっつける訳だけど……さっ!」
浅野さんは気合いのこもった掛け声とともに、ベッドからゴロゴロと転がり落ちていく。
「何してるんだよ……」
浅野さんはベッド下から顔だけを覗かせてニィと笑う。
「そういえば花火を見る日だったね。続き、見よっか」
元通りになったようなので、目を合わせて笑い、ベッドから降りて背もたれにする。
浅野さんもハイハイで隣にやってきた。元々帯を緩めていたのと、布団で這いずり回ってしまったので浴衣はかなり乱れている。それに加えて髪の毛も下ろしているので傍から見れば完全に事後のそれだ。
浅野さんの両親が最後まで見るタイプであってくれと祈りながら花火を眺める。
「なぁ……浅野さんの両親って映画のエンドロールまで見るタイプか?」
「何その質問。答えはイエスだね」
完全に偏見だが、映画のエンドロールを見る人なら花火は最後まで見るだろう。
それまでにお暇するか、浅野さんに着替えてもらえば良い。
「浅野さん、そろそろそれ、脱がないのか?」
「ひょえ!? ひ……広臣君、急にスイッチ入っちゃった!?」
浅野さんが顔を真っ赤にして浴衣の前を勢いよく閉じる。
「ばっ……ちげぇよ! パッと見なんか……あれだろ……その……したあとみたいだから、見られる前に着替えといた方がいいだろって」
浅野さんは合点がいったようで、ニヤリと笑う。
「あーはーん。事後ってやつだね。いっそドッキリで驚かせてみる?」
「やめてくれよ……そんなとこ見られたら出禁だろ……」
「そんな固い親じゃないから大丈夫だよ。ま、これ意外と疲れるんだよね。ちょっくら着替えてくるよ」
浅野さんはおじさんのように「うーい」と掛け声を出して立ち上がる。
ものの二、三分で浅野さんはTシャツに短パン、髪も後ろで一つ結びという出で立ちで戻ってきた。
はだけた浴衣よりもこういう部屋着の方がリアルでなぜかエロく感じてしまう。
「なーんか、さっきより目線が真剣だね。広臣君ってこういうナチュラル系が好きなの?」
「そっ、そんなんじゃねぇよ!」
「ほれほれぇ。手出してみなよぉ」
浅野さんは駆け足で俺の横に来て座ると、俺の手を持って自分の頭にのせる。
「またかよ……」
「まだ期末テストのご褒美が残ってるんだよ」
補習を回避したら点数分だけ頭を撫でる。そんな約束もしていたが履行は有耶無耶になっていた。
仕方ないので花火を見ながら作業のように頭を撫で回す。
花火もクライマックスに近づいてきたようで、ひっきりなしに大輪の花を咲かせるようになってきた。
「広臣君、今日はありがとね。なんか最近溜まってたガスが一気に抜けた気分だよ」
浅野さんもクライマックスであることを察したのか、今日の締めにかかる。
「そりゃ良かったな」
「だからね――」
だから、明日からまた配信を頑張る。そう言われたら、俺も作曲を続ける。また忙しい夏休みになるな、なんて返すつもりだった。
「だからね、旅行、行こっか! 配信はお休み! 撫子にラインしよっと!」
陽キャスイッチの入った浅野さんは携帯で素早く何かを打ち込む。
にっこりと笑いながら、撫子へ「一週間休みをください!」というメッセージと土下座のスタンプを送った画面を見せてきたのだった。
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