第38話

 浅野さんの自宅であるタワマンのエントランスに入ると、夕方のジメジメした空気から一転して涼しい空気に包まれる。


「ふぅ……涼しいな……」


 浅野さんに一階についたことを連絡すると、すぐに返事が来る。


『待っててね! すぐいく!』


 時間的には既に開場していて場所取りも覚束なさそうだ。二人なら詰めれば座れる場所もあるのかもしれないが。


 五分位待ってやっと浅野さんが降りてきた。


 予告通りの浴衣に予告外でまとめられた髪が映える。学校では巻くかストレートか結ぶか、くらいのパターンだったので後頭部でまとめているスタイルは新鮮な感じがする。


「どう? 可愛いかな? 可愛くないかな?」


 浅野さんは実質一択の質問をしながら、目の前でくるんと一回転をする。正直めちゃくちゃ可愛い。何なら配信中はアイリスのコスプレをしているくらいにはコスプレに抵抗はないのだから、ピンク色のウィッグを被ってサクラちゃんに寄せてくれたらもっと良いのだけど、そんなことを言うと怒られそうなので我慢する。


「いっ……いいんじゃないか?」


 浅野さんは少し唇を尖らせながら俺に近づいてくる。


「可愛い、可愛くないの二択だよ。今日の広臣君の語彙力はそれだけになっちゃうんだ」


「かっ……か、可愛いんじゃないか?」


「可愛い? 可愛くない?」


 もう一押だと言わんばかりに浅野さんが距離を詰めてくる。唇もリップでテカテカとしていて妙に艶めかしい。


「か、かわいい……」


 さすがに直視して言えるタイプではないので、顔を逸しながらそう答える。


「うん! そうだよね! ありがと! じゃ、いこっか!」


 わざわざ俺が顔を逸した方向へ回り込んでとびきりの笑顔を見せてくる。


 普段から可愛い可愛いと言い合っている友達がいないから褒めに飢えているに違いない。俺が言ったから喜んでいるわけではないはずだ。うん、そうに違いない。


 心の中で浅野さんのように独り言を呟く。


「ほらほら! 早くいかないと始まっちゃうよ!」


「そうだな。場所取りもあるし」


「場所取りね、実はもうしてあるんだ」


 ニィと浅野さんはそう言って笑う。


「どういうことだ?」


 浅野さんは「秘密だよ」とだけ言うと振り返ってマンションの出口に向かう。


 一人で先に行こうとするので、何重にも重なっている色とりどりの帯の結び目を見せつけているようだ。


 慌てて追いかけて、あと一歩で横に並べるというところで少しいたずらをしてみることにした。


「可愛いな」


 浅野さんが物凄い勢いで振り返ってくる。その目の輝きたるや目の前に大好物の餌を出された犬のようだ。


「かっ……かわいいよね!? 私!?」


 驚きながらも自分を指差す浅野さんはたしかに可愛いのだが、素直にうんと言ってしまうといたずらでなくなってしまうので腰のあたりを指差す。


「あぁ。可愛いぞ。帯がな」


 浅野さんは俺の回答が自分の期待と違っていたからか、一瞬だけ「え?」という顔をするがすぐに笑顔に戻ると、背中の結び目を見せるように振り向きながら俺の方を見てきた。


「そうなの! これね、アイリス結びっていうんだってさ。私にぴったりだよね」


「なんだよそれ。蝶結びとかなら分かるけど……」


 やや鼻で笑いながら言うと、浅野さんはムキになって俺の隣にやってくる。


「あー! ないと思ってるんだ! ほれほれ、ググってみなよ。あったら私の勝ちだからね」


 なんの勝ち負けだと思いながらもその場でスマホを取り出し検索をする。


 すると、本当に浅野さんの言った結び方が出てきた。自分で結んだからか再現度はそれなりだが、ニュアンスは十分表現できている。


「ほ、本当にあるんだな……」


 隣にいる浅野さんはニヤニヤと勝ち誇った表情を浮かべている。


「じゃ私の勝ちだね。写真撮ってよ。そこでさ」


 浅野さんはそう言うとマンションから出てすぐの壁を背景に一人でポーズを決めて立つ。


 携帯は渡されなかったので俺の携帯で撮って送れば良いのだろう。


「撮るぞー」


 少し離れたところから全身が入るように何枚か写真を撮る。


 シャッター音が止まると浅野さんはすぐに駆け寄ってきて出来栄えを確認しだした。だが、彼女の唇の突き出し方からして不満そうなのはすぐに分かった。


「うーん……盛れてないなぁ……もう一回!」


 浅野さんはまた壁の方へ戻り、決めポーズで静止する。


 もう一度何枚か写真を撮るとまた駆け足で戻ってきた。暑い中でも忙しなく動き回るので尊敬すらしてしまいそうだ。


「これはぁ……どうだろう……」


 また浅野さんの満足の行く仕上がりではなかったようだ。


「急がないと始まるぞ……」


「そうだけどさぁ……あ! ちょっとスマホ貸してよ! カメラ立ち上げてさ」


 俺の携帯を渡すと、浅野さんはインカメに切り替えると俺と腕を組んできた。


 そして、自分だけしっかりと顎を引いてキメ顔で腕を伸ばし二人が入るように写真を撮る。


「どうかなぁ……アッヒャッハ! これ……これ最高だね。うん、いいよ。これにしよう」


 浅野さんは俺の携帯とにらめっこしながらひとしきり笑うと、何が操作をして返してきた。


 ホーム画面を開き直すと、背景が今撮ったばかりの自撮りになっていた。元々はサクラちゃんの画像を設定していたのだが、そこが浅野さんで上書きされてしまった形だ。


 浅野さんはしっかりと顎を引いてキメ顔なのだが、俺は気を抜いていたようで半目の写真になっている。


「よりによってこれかよ……」


「いいじゃんかぁ。アイリス結びの件はこれで水に流すからさぁ」


「まぁ……このくらいなら……別に誰に見られるわけでもないしな」


「私は……私はね、広臣君が見てくれればそれでいいんだ。もちろん見せびらかしてくれてもいいけどね」


 浅野さんはいつもの冗談めかした言い方ではなく、俺の目を見て、優しく微笑みながらそう言う。


「お……おう。いや……まあ、これなら嫌でも毎日目に入るしな」


 やけに真面目な雰囲気なので照れ隠しに適当に返事を濁すと浅野さんも照れた様子で俯く。


「あ……行くか? 会場」


「う……うん! そうだね! いこいこ!」


 浅野さんはそう言うといつものように先行くのではなく、妙に目線を逸しながらピッタリと俺の横について服の裾を握ってくる。


「サクラに勝てるかわかんないけど、私も頑張るね」


 顔を見せないように明後日の方向を向きながらそんなことを言うので浅野さんがどういう意図で言ったのかは分からない。


「そもそも勝ち負けとかじゃない気がするけどな。サクラちゃんはサクラちゃんだし、浅野さんは浅野さんだろ」


「ま……そういう考え方もありますな。だけど一個だけ訂正。浅野さんは、彩芽だよ」


 名前で呼べということなのだろうけど、呼び方を変えるタイミングを逸してしまった感は否めない。


「まぁ……浅野さんは浅野さんだよな」


「くぅ……アイリス結びの報酬は名前呼びにすればよかったよぉ……サクラのことは『九十九さん』って呼ばないじゃんか。前向きに捉えれば私も彩芽ちゃんって呼ばれる可能性を秘めているんだよね……」


「彩芽ちゃん……なんかイメージと合わないな」


 浅野さんはビクッと身体を震わせて俺を見上げてくる。


「も……もう一回!」


「えぇ……恥ずかしいしな。やっぱり浅野さんは浅野さんだよな」


「あはは……ま、そうだよね」


 外ではしゃいだからか、はたまた別の要因か、浅野さんの頬がかなり赤みを帯びている。


 浴衣、髪型、熱気、色気。いろいろな要素がいつもの浅野さんと違っている。それでも、俺が名前で呼んだからこんな風になったのではない、と自分に言い聞かせる。


 なんとなくいつもと違ってきた雰囲気にドキドキなのか、ドギマギなのか、俺も違和感を覚えつつ会場に向かった。

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