第33話
部屋で二人っきりの時の続き。それは絶対に勉強の事を指している訳ではない事は分かる。
浅野さんは何度か咳払いをすると、伏し目がちに俺にリクエストをする。
「目、瞑ってくれないかな?」
咳払いは喉のチューニングだったようで、アイリスの声で誘惑してきた。
「なっ……何でだ?」
「いやぁ……それはほら、恥ずかしいし言えないよぉ。ちょっとだけだからさ。ね?」
このまま素直に目を瞑ると何をされるのか分かったものではないが、なるようになれの精神で目を瞑る。キスをされたらされた時だ。
「素直でよろしい。じゃ……心の準備があるからそのままだよ。待っててね」
手を離して浅野さんはどこかへ立ち去る。
さすがに口はないだろうけど、頬でもかなりの衝撃だ。
学校のアイドル的存在の浅野さんが何で俺なんかの頬にキスをする必要があるのかと思考を巡らせるが全く心当たりがない。
そうこうしているうちに目を瞑ってしばらく経った。物音はほとんどしないが、一向に身体に触れる感覚はない。
「あ……浅野さん?」
「もっ、もう少し待ってて! そのまま! そのままだよ!」
いつの間にか地声に戻り、やけに慌てた浅野さんの声がする。明らかにキスをするような雰囲気ではない。
目を開けると、机の上に座り何かに必死に体重をかけている浅野さんが見えた。
「なっ……何をしてるんだ?」
「あっ……見てしまったか……」
浅野さんは机から飛び降り、尻に敷いていた何かを顔の前に持ってきて、顔を隠す。
その「何か」とは、名前に「豊田広臣」と書かれていることと、表紙の角がダイナミックに折れ曲がっている事以外は店で売っているものと変わりないノート。その二点が何より重要だったりするわけだが。
「だから言ったろ。鞄の中どうなってんだよ……」
「おっ、女の子のカバンの中身は宇宙なんだよぉ!」
「じゃ、宇宙から帰還したノートか。大気圏で燃え尽きずに折れただけなんて奇跡だな」
「そっ……そうなの! うん、今私達は奇跡を目の当たりにしてるんだよ!」
可愛らしく誤魔化そうとするので怒る気も失せてしまう。たかがノートだし、最悪折れても勉強に支障はないのだから。
だが、俺の純情な心を弄んだ訳だし、この状況を使って浅野さんを少しからかってみることにした。
「なんだよ。じゃあノートが折れたのを誤魔化したかっただけかよ……キスじゃなくて残念だったなぁ……」
「ひょぇ!? ひっ、広臣君、キス……しても……良かったの?」
浅野さんがノートを放り投げかねない勢いで腕を振り、俺を見上げてくる。勿論そんなことを期待していた訳ではない。前髪の分け目に向かって軽くデコピンを御見舞する。
「あだっ……」
「友達に嘘はナシだろ? 折れたくらいじゃ怒んないから最初から素直に言えよな」
「あはは……これを見てもそんなことが言えるかな?」
浅野さんはやけに自信満々な態度でノートを開く。全ページの隅の方に、ボールペンのインクが漏れてべっとりとついていた。ページによっては文字が潰れてしまっている。
「おまっ……これ大事な部分が潰れてるじゃねぇか……」
「大事な部分は隠すのが定番って決まってるって菊乃が言ってたよ」
「それ、他の人には言わない方がいいぞ……多分変な意味だから……」
多分、浅野さんは意味もわからず引用しているのだろうけど、菊乃のことだからモザイクのことを指しているのだろう。どんな面子であれ、浅野さんが言うと空気が凍りつくのが目に見える。
「ほっ、ほらほら! 大事なところが隠れてるから『もう一回解き直せるドン!』って太鼓も言ってるよ!」
やけにクオリティの高い太鼓のキャラクターの声真似を披露してくるが、それどころではなく、この事態に頭を抱えるしかない。
「これ、ノートもだけど他の物も汚れてるんじゃないのか? そっちの心配が先だろ」
「ひっ、広臣君、優しいんだねぇ。自分のノートより私の鞄の中身だなんて」
「そりゃそうだろ。むしろ良く鞄の中がインクまみれになってるかもしれないのにそんな平然としてられるよな」
「あはは……宇宙は広いですからな」
浅野さんは鞄をひた隠しにしたいのか、俺が鞄に近寄ろうとするのを頑なに拒否する。仕方ないので本人に任せるしかないだろう。
「まぁ……ノートは徹夜すれば何とかなるか」
「徹夜!? 私も付き合うよ。一緒に頑張ろうね」
「当たり前だろ。誰のせいだと思ってんだよ」
何で俺だけが徹夜する羽目になるのかと非難めいた目をすると浅野さんは「あはは……」と乾いた笑いをしながら頭を掻く。
「あ! そういえば皆、お互いにノートの写真撮り合ってたよね? あれ送ってもらおっか!」
「それがいいな。やり直しも早くなるし……ん? じゃあ最初から俺がノートを貸す必要もなかったんじゃないか? その場でノートの写真を撮れば良かっただろ?」
貸せと言われたので思考停止で貸していたが、そもそも写真を撮って皆で共有すればこんな面倒なことをする必要もなかったのだ。ノートが折れることも汚れてやり直しになることもなかった。
「あ……あははは……そこに気づくとはやはり天才だね」
浅野さんは元々気づいていたのか誤魔化しのための下手くそな笑い方をしている。
「凡人でも気づいたぞ。最初に言ってくれれば良かったのにな」
「いやぁ……ほ、ほらほら! やっぱり手書きの温かみっていうのかなぁ? そういうのがあるじゃんか。決してノートを借りるついでにスタジオで二人っきりで勉強したいだなんて思ってないよぉ。うん、そうそう。そうだよ」
最後の方に本音が見え隠れしていたのに気づく。
「ついでのついでで、古文書みたいな文字を読み解くついでにスタジオに連れ込んで解き方も教えてもらおうって算段だったわけか」
「さすが広臣君。そこまで分かってくれたら話は早いね。こういうの何て言うんだっけ? ツーツー? ツーカー?」
「それ死語だろ……」
「いやぁ……私は嬉しいよ。もはや相棒だよねぇ。広臣君とこんなに仲良くなれるなんてね。じゃ、ノートの作り直しから頑張ろうか」
浅野さんは背伸びをして肩を組んで俺を机に誘導する。
横を見ると、にこやかに「ん?」と声を出して首を傾げている。顔がカーっとなるくらいには照れさせる力を持った仕草だ。しかし、それと同じくらいに浅野さんの残念な部分が見えてきたこの頃。
天秤がグラグラと揺れるくらいには浅野さんの可愛さを打ち消す力を持っている。元々サクラちゃん一筋なこともあるのだろうけど。
「まぁ……仕方ないか」
どこまで行っても浅野さんのペース。これに慣れつつあるので不本意ながらも相棒になりつつあることを自覚してしまった。
結局、浅野さんの友人たちにノートの写真を送ってもらい、そこから二人で徹夜で修復作業に取り掛かるのだった。
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