第22話
「はぁ……私って音痴だったのかぁ……」
二人っきりになると浅野さんがそう言って床にしゃがみ込む。慰めた方が良さそうなので隣に座り込む。
「いやまぁ……酷すぎるってわけじゃないぞ。リズムは合ってたし。ちょっと音域的に人間が歌える感じじゃなかったかもな」
「ばかばかぁ! ボカロとかvTuberばっか見てるからだよぉ! もっと生身の人間も見てくれよぉ!」
ポカポカと俺の肩を優しく叩いてくる。
菊乃は自信満々だったが、一時間で覚えて歌いきるなんて出来るのかと作った俺ですら半信半疑だったりする。
だが、今は菊乃よりも目の前の音痴をどうにかしなければいけない。
「ボイトレとか受けてないのか? 喉で歌ってる感じがしたんだ」
「うーん……とりあえずやれてるからいいかなって感じだったんだよね。カラオケで騒いでも喉は枯れないし」
「それ……大丈夫なのか? 連続で配信してたら声枯れそうだけど……」
「悩みではあるかなぁ。何々? 広臣君、誰か紹介してくれるの?」
「いや……うーん……そうだな……」
ある一人の顔が浮かぶ。俺の母親、豊田彰子だ。
プロの声楽家として活動する一方で、有名ミュージシャンのボイストレーナーも務めている。
だが、母さんにクラスメイトの女子を紹介するなんて後で何を言われるのか分かったものじゃない。
「本当に!? すっごい助かるなぁ」
目をキラキラと輝かせてそう言うので「やっぱり無し」とは言いづらくなってきた。
「いやまぁ……いるんだけど……母親がトレーナーもやってるんだ」
「おっ、お義母さん!? い、いきなりご両親への挨拶はちょっと気が早いかなぁ……」
モジモジとしている浅野さんは何か勘違いをしているみたいだ。
「なんの挨拶をするんだよ……」
「あれ? 違うの?」
「ボイトレだけだぞ」
「な……なんだぁ。焦っちゃったよ」
「ま、話してみるよ。とりあえず今日は基礎だけやってみるか? 俺も母さんに教わってるからちょっとは教えられるぞ」
「うん! お願いします!」
母さんにどういう紹介の仕方をすればいいのだろう。馬鹿正直にクラスメイトがvTuberで音痴で、だなんて話をしても通じなさそうだと思いながら、母親の受売りの腹式呼吸を浅野さんに教えるのだった。
◆
もう少しで約束の一時間が経過する。当然、浅野さんの音痴が一時間でどうにかなるものではなかったので、最低限のルーチンワークを教えて終わった。
このまま歌えば歌詞も飛んでいるだろうし、負けが濃厚な状況だ。当の本人はやる気に満ちているようで、サビのフレーズを繰り返し練習している。
そんな浅野さんがいたたまれずに嘘をつくことにした。
「浅野さん……あのさ、この曲って結構適当に作ったんだわ。時間もなかったし。こんな早くできるなんておかしいだろ? だからこの曲は菊乃さんにあげちゃおうぜ。次はアイリス用にもっと力を入れて書くよ」
浅野さんが歌うのをピタリとやめてこちらを向く。その顔は穏やかだ。
「広臣君がそんな手を抜いたりするわけないよ。うん。そうだよ。嘘はつかないしね。だから、この曲は私も歌いたいんだ」
とことん前向きな浅野さんを見ていると、申し訳無さや恥ずかしさがこみ上げてくる。フッと笑って浅野さんはまた歌詞カードに向き直る。
「でも……優しい嘘は好きだよ。昼間より成長したね」
昼間、浅野さんに学校で音源を聞かせたときは本当に喜んでいた。あれに嘘も偽りもなかったのだろう。本人がやる気なのにあまり水を指すのも違う気がして、隣で見守る。
そのまま待っているときっかり一時間で菊乃が戻ってきた。
「おう。どうだ?」
「うーん……ま、やってみないことにはね。私から歌うよ。菊乃の後じゃやりづらいし」
浅野さんは苦笑いをしながら俺と菊乃を機材のある部屋へ押し戻す。
俺が機材を操作して音源を流すと、ヘッドホンを頭に押し当てるように押さえながら浅野さんが歌う。
「おぉ……おお!? まぁ……ちょっと良くなったか?」
菊乃の反応は妥当なものだと思った。可もなく不可もなくで、さっきよりは良くなったがまだ心許ないところもある。
歌い終わると、一度目よりは自信なさげに浅野さんが戻ってきた。
「ど……どう?」
俺と菊乃を交互に見る。
「彩芽ぇ、やるじゃねえか。広臣に密室で何仕込まれたんだよ」
ニヤニヤしながら菊乃が尋ねると、パッと浅野さんの顔が赤くなった。
「なっ、そんな変なことはしてないよぉ!」
顔を真っ赤にして否定すると逆に怪しく見えてしまう。本当にボイトレをしていただけなのに。
「そういうのはいいんで。菊乃さん、早く次入ってください」
俺が嗜めると菊乃は「へいへい」と気怠い返事をして浅野さんと入れ替わるように入っていく。
ガラスの向こうでは細見の美女が、首をぐるぐる回したり、伸びをしたりと好き放題にストレッチをしている。
マイクの位置を調整してヘッドホンをつけると、こちらを向いてきた。
俺を見ているのか浅野さんを見ているのか分からないが、ニィっと満面の笑みを浮かべる。
元アイドルだけあってその笑顔は百点満点。普段の生活では見慣れないタイプの顔なので、照れからつい目線を逸らすために機材に目を落とす。
浅野さんが音源を再生したようで、こちら側のスピーカーからも音が流れ始めた。
歌い始めると、普段のおっさんのような菊乃は別人に変貌する。
「やばっ……うますぎない!?」
隣で浅野さんがはしゃぐのも頷けるレベルだった。人間が歌えるような曲じゃないと言ったのは冗談半分。つまり、半分は本気。
だが、ガラスの向こうにいる菊乃は軽々とそれを歌いこなし、アレンジまで加えて更に難易度を上げている。歌詞までこの短時間で完璧にインプットして抑揚も悪くない。
最後まで息切れせずに歌いきった菊乃は、ヘッドホンを外して頭を左右に振って髪を靡かせると、颯爽と機材のある部屋に戻ってきた。
「広臣、どうだった?」
「あ……良かった……です」
菊乃は「だよなぁ!」と言って満足そうに笑う。
「じゃ、判定な。広臣、どっちの曲にするんだ?」
「いっ……ほ、本当に決めないといけないんですか?」
「そりゃそうだろ。歌を録って、MVやらなんやら外注すんだからよ。決めてくれないと動けないんだわ」
浅野さんと菊乃を交互に見る。
本来はアイリス用として書いてきた曲だった。だからここで菊乃に振るとなると、浅野さんは少なからずショックを受けるはず。
だけど、そんな気遣いで人も金も動くプロジェクトを台無しに出来ない。
「あっ……き、菊乃さんで。浅野さん、すぐに新しい曲を書くよ」
浅野さんは微塵もショックを見せずに、深く頷く。
「ま、仕方ないよね。広臣君に任せるよ! 私でも歌えて、キャッチーで、みんなに聞いてもらえて、バズる曲を書いてね」
「は……ハードルが上がったな」
「自分が背伸びすればハードルなんて簡単に超えられるよ。ね! 菊乃!」
「ま、そうだな。それか、縮こまって下をくぐるかだな。私はデカいから無理だけどさ」
そう言って菊乃は部屋から出ていく。
菊乃らしさ、というものは知り合って日が浅いのでわからないが、安直な自虐をする人にも思えないので少なからず罪悪感はあるのかもしれない。
ただ、二人共遊びでやっているわけじゃないというのは痛いほどに感じた。
浅野さんはドアが閉まると同時に「ふぅ」とため息を漏らす。
「あ……やっぱりショックだったよな。ごめん」
「え!? いやいや! 違うんだよ! 曲のことはもう割り切ってるからさ」
「じゃあなんだ?」
「いやぁ……なんだろうねぇ……こう、選ばれないって寂しいものなんだなと、そう思ったんだよね。うん」
「選ばれない?」
「広臣君に『じゃ、彩芽』って選んでもらえたら嬉しいんだろうなぁって。そう思っただけだよ」
寂しさや将来への希望が混じった笑みは俺にも罪悪感を感じさせる。
「なんか……ごめんな」
「じゃあさ、嘘でもいいから選んでよ」
「え、選ぶ?」
「うん。今ここには、三人の女の子がいます。私とぉ……ま、誰か二人ね。で、誰とデートするか選ぶの。どうする?」
浅野さんは一人でテキパキとジェスチャーを織り交ぜ、仮想のありえない状況を作り出す。
目の前に浅野さん含む三人の女子がいて、誰とデートをするのか選べということらしい。流れ的には浅野さんを選ぶしかないのだが。
「じゃあ……浅野さん」
浅野さんは唇を尖らせ、首を横に振る。
「じゃあ……隣の、A子さん」
また首を横に振る。
「反対隣のB子さん」
首を横に振る。
「三人共ダメじゃねえか……」
逃げようのない浅野さんの一人コントに巻き込まれたと頭を抱えていると、浅野さんは口をパクパクと動かし始めた。
ずっと三文字でループしていて、「あ」「あ」「え」の口の形だ。
「あ……彩芽?」
浅野さんは笑顔でうなずく。
「うん! いいよ! 今週末は暇……ってかいつもだけど、配信がないタイミングでデートしよっか!」
「お……おう」
「んーと……じゃ今週の土曜日かな? 開けといてね、それじゃ!」
浅野さんはそう言い残すと部屋からダッシュで走り去ったのだった。
「今の……冗談だよな?」
デートというのは選ばれる体験をするためのジョークだったはず。
まさか本当にするとは思っていなかったのだが、その後すぐに五条アイリスのアカウントから集合場所と時間がDMで送られてきたのだった。
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