第13話
菊乃に連れてこられたのは本当にスタジオだった。二日連続での訪問となった。
人気がないのは昨日と同じ。浅野さんは今頃カラオケだろうし、撫子もいないみたいだ。
「今日は誰もいないんですか?」
シンとした廊下を歩きながら菊乃に尋ねる。
「ん? そうだな。撫子はそのうち帰ってくるんじゃないか?」
つまり、サクラちゃんはここには基本的にはいないし、来ることもない、ということなのだろう。実は仲が悪いのではとか、色々と邪推してしまう。
リビングの方に向かうものだとばかり思っていたのだが、途中のスタジオ部屋の前で菊乃が立ち止まる。
重たい防音仕様のドアを菊乃がグッと押し込むと、空気の押し込まれる音とともに開いた。
「ここは……菊乃さんの配信部屋ですか?」
「そうだぞ」
十畳くらいはありそうな部屋にケーブル類が張られ、部屋の一角にグリーン背景とパソコン、照明器具なんかが置かれていた。
「こんな感じでやってるんですね……」
「おう。社会見学だな」
菊乃はそう言うといきなり服を脱ぎ始める。Tシャツを頭の上から脱ぎ捨てるのと一緒に髪の毛が上がったり下がったりして最終的にいつもの位置へ戻った。
「なっ……なな、なんで脱いでるんですか!?」
「いつもこうやってるんだよ」
「いっ、いつも!?」
誰もいない防音室で男女が二人っきり。何も起こらないはずがなく、なんて冗談を言っている場合ではない。
眼の前ではハァハァと息を荒くした菊乃が下着姿で迫ってきている。
後ずさりながらスタジオ部屋の扉に手をかけたが、バックハンドで簡単に開ける代物ではないのでそこで止まってしまう。
「に、逃げるなよ!」
菊乃が一気に迫ってくる。
「い、いやいや! これはさすがにまずいですって! 昨日あったばかりなのにそういうのは……」
年下好きの変態お姉さんに襲われる。人によってはアリなシチュエーションなのかもしれないが、もっと愛を育んだ上で童貞を卒業したかった。
目を瞑り、これから何をされても心を殺して耐えようと構えるも、菊乃は手を出してこない。
恐る恐る目を開けて菊乃を見ると、ぽかんとした顔をしていた。
「あっ……お、襲わないんですか?」
菊乃は首を傾げ、俺を奇妙な目で見てくる。
「お、襲うわけねぇだろ! 単に配信の時はこのスタイルなんだよ。練習に付き合ってほしいんだ。配信の」
「れ……練習?」
「そ。え……ASMRって知ってるか?」
「あー……あれですよね。左右から囁いたりするやつ」
「そうそう! 最近機材を揃えたんだけどよぉ、ちょっと照れくさいんだわ。配信でやる前に一回くらいは練習しておきたくてさ」
「はぁ……そんなの浅野さんか撫子さんとか……サクラちゃんに頼んだらいいじゃないですか」
「サクラは来ないからなぁ。撫子も普段から話しててギャップで笑っちまうし、彩芽とやってたらなんかこう……ヤバいだろ。おばさんと女子高生が乳繰り合ってんだぞ」
「おばさんっていうほど菊乃さんも歳いってないですよね」
目の前で下着姿になっているのでジロジロとは見れないが、シュッと引き締まった綺麗な身体をしている。おばさんと言われるともっとダルンダルンの人をイメージしてしまう。
「ヒッヒッヒ! 嬉しいこと言ってくれるじゃねえか! ほら、やるぞ!」
菊乃は気を良くしたのか、俺と肩を組み椅子まで誘導してくる。
俺も高校生でなんなら異性なので浅野さんよりハードルは高そうなのだけど、菊乃の判断基準はよくわからない。
長時間座っても疲れなさそうなゲーミングチェアに座らされ、ヘッドホンをつけられる。
「練習って……どうするんですか?」
菊乃はダミーヘッドマイクの頭を丸めた紙でポンポンと叩く。
「これが台本。で、こいつの周りをウロチョロしながら私が話すから、目隠ししてヘッドホンして聞いててくれ」
「はぁ……分かりました」
ASMR配信は見たことがないのでどんな感じなのだろうとワクワクしながらアイマスクとヘッドホンをつける。
菊乃が準備のためにマイクの周りをウロウロしている様子が聴覚だけで立体的に分かる。ヘッドホンなのかマイクなのか、性能の良さが光っている。
左耳の方で立ち止まった菊乃の呼吸音で口が耳元に近づいて来るのがわかる。
「それじゃ始めますわよ」
耳元で囁いたいたのは菊乃ではなく七尺セントレアのような穏やかでか弱い声。
金髪を後頭部で束ねて丸めたシニョン風の髪型に純白のドレス。なんとか辺境伯の貴族令嬢という設定だったことを思い出す。
お嬢様キャラなので基本的には言葉遣いも優しいし態度も穏やか。不意に出るガサツな一面がギャップを生むのでコアな人気を誇っていたのだが、どうも不意に出る一面が本性で普段は猫を被っていただけだったらしい。
セントレアは反対側に回り込み、優しく周囲の空気を取り込み、耳へ吹きかける。実際に息はあたっていないにも関わらず背筋がゾクゾクとしてくる。
「ふぅ……ブッ! ヒッヒッヒ!」
いきなり耳元で大笑いを始めたので驚いてアイマスクとヘッドホンを外す。
「ちょ! み、耳! びっくりしたじゃないですか!」
「おぉ、悪ぃな。なーんか笑えて来ちゃうんだわ。下着姿でマネキンに話しかけてる自分を客観視しちまうとさ」
「じゃあまずは服を着てくださいよ」
「んー……訂正だな。マネキンに話しかけてる自分を客観視すると笑っちまうんだ。服装は関係ねぇわ」
「はいはい。これって後何をするんですか? 台本があるんですよね?」
「そうだな。耳に息を吹きかける、ウィスパーボイスで愛を囁く、耳舐め、心音、嚥下音……要はごっくんする時の音だな」
「ご……ごっくん……」
思わずつばを飲み込むと意図せず嚥下音が自分の喉からした。部屋の仕様上反響することもなく、ただ音が消えていく。
「ちっ、ちなみにこの台本は撫子が書いたんだからな! 私はたっ、ただ……言われた通りにやってるだけだぞ!」
「いや別にどういう経緯とかは興味ないですよ……」
そう反論すると菊乃は俺の頭に腕を巻き付けて拳でこめかみをグリグリと痛めつけてきた。
「ガキが生意気なこと言ってんじゃねえよ。ほら! 練習続けるぞ! やっぱマネキンじゃダメだわ。このまま人間の頭を使ってやってみるか」
「お……俺の頭をマイクにするんですか?」
「そんなわけ無いだろ。このまま続けるぞ」
そう言って菊乃は俺にアイマスクをつけると真横にやってきた。
男として見られていないが故にこんな風にマイク代わりに出来るのだろうけど、色々と反応してきてそろそろマズそうだが、逃げ場もなく菊乃のASMR実験が始まる。
「さっ、最初は何をするんですか?」
「まずは……耳をふぅふぅしますわね」
一瞬でセントレアを憑依させた菊乃は右耳側から息を吹きかけてきた。
当然と言えば当然なのだけど、冷たい吐息が臨場感を更に高める。
「ちょ……くすぐったいですって」
「我慢ですのよ。まだ始まったばかりですから」
ニチャアと耳元で粘度の高い笑みを浮かべ、セントレアはまた左側に回り込んできた。
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