第3話
豊田広臣。俺の本名で学生証にも戸籍謄本にも書かれている名前だ。
実は、他にもいろいろな名前や顔を使い分けながら生活している。
アイドルや歌手に楽曲を提供する時はAtoYot(あとよっと)。
ボーカロイドでネットに楽曲を公開する際はトヨトミP。
そんな感じで名前を使い分けながら活動をしている。
名前を分けている理由はただひとつ。他の活動によって順当な評価を得られないことを避けたいからだ。それは良い方向も悪い方向も。
だから、当然他の人に俺が作曲業やボカロPをしていることなんて教えてないし、浅野さんが知りようもない。
浅野さんが五条アイリスの中の人かもしれないことにも驚いたが、それよりも自分の保身に頭のリソースが割かれていく。
「さ……作曲ってなんのことかな? 俺は素人だからそんなことできないよ」
「ふぅん……しらばっくれるんだ。豊田広臣。AtoYot。トヨトミP。どれが本当の君の顔かな?」
「な……なんで知ってるんだよ!?」
浅野さんはさっきまでのただの陽キャではなく、冷徹で狡猾な策略家のような冷めた笑い方をする。
「名字をローマ字にして逆さ読み。本名を使ったアナグラム。何より、二人の曲ってすごく似てるんだよね。ジャンルは違うし、多分本当にやりたいのはボカロPでやってるみたいなごちゃまぜの電波曲なんだろうけど、一般受けを気にされちゃうアイドルの曲は無難なJ-Popにまとめてる。だけど間奏だけは、こっそり自分らしさを仕込んでる」
「なっ……なんなんだよ……」
俺が作曲をしているどうこうのレベルではない。もっと深層の部分を見透かされた気分だ。
一番見られたくない記憶が頭をよぎる。そこまでは浅野さんも見ていないはず。
駅前でギターを弾き語るも、誰も見向きもしない。誰もが俺の事を認識せずに素通りしていくあの光景。
俺の声が悪いのか、歌い方が悪いのか。あるいはその両方が原因なのかもしれないが、しばしば駅前で弾き語りをしても誰も足を止めてくれないのだ。
少なくとも曲は良いはずだ。駅前で弾き語る名もなきシンガーソングライター以外の名義であれば、一定の評価は得られているのだから。
それなのに、無名の歌うたいの歌は、駅前を行く人の誰にも刺さらない。
「だっ……大丈夫? 曲はまずは私。その後は……サクラの歌もお願いしたいんだ」
暗い記憶からアイリスの声で浅野さんが引っ張り上げてくる。
暗い駅前の光景はどこかへ吹き飛び、さんさんと日の注ぐ屋上に戻ってきた。
「ごめん。大丈夫。でもほっ、本当に、さっ……サクラちゃんの歌を作らせてくれるのか!?」
戻って来るや否や簡単な撒き餌に食いついてしまった。分かってはいるのだが、食いつかずにはいられない。
サクラちゃんが歌枠で俺がボカロPとして作った曲を歌ってくれることは何度かあった。
だが、これはそういう次元ではない。俺がサクラちゃんのためだけに書く曲なのだから。
「そう。もちろんお金は払うよ。広臣君の言い値で良いから」
「お金と言うか……そうだ! 最初からサクラちゃんの曲を作るのはダメなのか?」
「うーん……私もお願いしたいんだよね。あくまで私の知り合いって事で紹介したいし。それに、金銭報酬よりも、もっと広臣君にとっていい話もあるよ。サクラと話してみたくない? 会ってみたくない? サクラの曲を書く前に、ね」
浅野さんの、もとい、五条アイリスの曲を作ったら引き換えにサクラちゃんに会わせてくれるという事らしい。
「なっ……別に中の人に興味がある訳じゃないよ。俺はサクラちゃんが好きなんだ」
本当の事を言えば中の人にも興味が無い訳ではない。むしろ興味がある。
「私はサクラに会わせるって言ったんだよ。中の人には会えないからね」
「わっ……分かってるよ、そんなこと!」
俺の心を見透かされた気分になり、少し声が上ずってしまう。
浅野さんはそんな俺を見ても、ニコニコとした表情を崩さない。
サクラちゃんと話が出来る。個体認識をしてもらった上で、だ。
普段は数万人いる配信を見ているひとりの俺が、桜の木から数多散っていく一枚の花びらだった俺が、一輪の花としてサクラちゃんに認識してもらえる。
ファンとしてこれ以上ない喜びだと思った。
だから、浅野さんの提案を断る理由が無い。
大きく頷き、浅野さんに返事をする。
「分かった。やるよ。アイリスの方はどんな曲にするんだ?」
浅野さんは満足気に笑う。
「ありがと、広臣君。今日って暇? 放課後に細かい話をしたいんだ」
「暇だよ」
「わーい! ありがと!」
浅野さんは今日で一番の笑顔を見せる。
そして、話に夢中になって一口しかついていなかった自分の手にある七割の大福パンを見る。
チラリと俺の方を見ると、ニィと笑って俺の口に押し込んできた。
「ぐむむ……なっ……」
「それにしても……本当にサクラの事が好きなんだね。ちょっと嫉妬しちゃうなぁ。広臣君、アイリスの事も忘れないでね」
そう言うと、食べきれずに口からはみ出しているパンの反対側を浅野さんが一口かじる。
すぐ近くまで顔が来て、また離れていく。うっすらとパンやあんことは違った甘くて良い匂いがした。
浅野さんは咀嚼しながら緑茶でパンを流し込む。
「ぷはぁ! やっぱりお茶と合うよねえ……ん? どうしたの?」
浅野さんは一人で好き放題に暴れると、首を傾げてすっとぼけている。
パン越しとはいえ、いきなり顔がキスするかと思うくらいに近づいたので心臓がバクバクなっているのだが、浅野さんはそんな事を気にせずに俺のおにぎりを袋から取り出した。
「ねぇ、これも一口貰っていい?」
口にパンが詰まっているので話せず、渋々頷く。
浅野さんがビリビリとおにぎりの包装を開けている間に俺もパンを緑茶で流し込む。
「お腹空いてるならもう一回買いに行くか?」
おにぎりを綺麗に開けた浅野さんは首を横に振る。
「うぅん。一口で良いんだ。そんなにお腹空いてないし」
そう言うと、三角形の一つの角をかじり取る。
じゃあなんでコンビニに行ったんだと言いたくなるが、それは口に押し込まれたおにぎりで阻止される。パンと同じように浅野さんが押し込んできたのだ。
「ふっふりはへはへほほ!(ゆっくり食べさせろよ!)」
「アッヒャッハ! 何言ってるか分かんないよ!」
浅野さんはアイリスとして配信している時と全く同じ少し癖のある笑い方で大きな笑い声をあげる。
浅野さんが俺について異常に詳しい事に恐怖を覚えたものの、五条アイリスの中の人かもしれないという事実を思い出すと徐々にそんな事も忘れて二人での会話を楽しんでしまっていたのだった。
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