楽園症候群―Elysium Syndrome―

宮原 桃那

<1.発端>

 山奥のとある研究所には、一人の少年が居る。まだ十七であり、色素の薄い外見をしている。

 作業着代わりの白衣の下は、シンプルにシャツとズボンだけ。細身の体は今にも折れそうだ。

 そんな彼の傍らには、一人の女性が立っている。こちらは明らかに成人しており、美人ではあるが、にこりともしそうにない雰囲気を纏っていた。

ぜん。レポートは出来上がりましたか?」

時雨しぐれ、それは昨日も訊いた。僕はそれに、あと三日と答えたはずだけど」

 パソコンの前から目を離さずに、全、と呼ばれた少年が、時雨、と呼んだ女性に返す。

「それは別の研究の話です。今回は例の病気、いえ、症候群について、ですよ」

「ああ、そっちか……悪いけど、それはこの間渡した以降、進展がない。こうして疑似的に病気である事を体に意識させようとしても、あまり効果が出ていないんだ」

 そう言いながら、空のカプセルを瓶から一錠取り出した全は、それをブラックコーヒーで流し込む。

「無駄であると分かったのであれば、そろそろその人体実験じみた真似は、止めた方がいいのでは?」

「ルーティンを突然変えるのは、逆に仮説の立証をしにくくなる。だから、まだこのまま続ける」

「……あなたといい、所長といい、私は未だに理解出来ません。あの症候群は局所的かつ偶発的に起きたものであり、起因が不明なまま終息を迎えました。それを研究し続けても、この先に得られるものは果たして存在するのでしょうか?」

 彼女の否定的な発言は、その裏を返せば「これ以上の研究を続けていたら、信用が損なわれかねないのではないか」という心配も含まれている。

 時雨は元々、優秀な研究員だ。だがこの山奥の研究所に来る者と同じく、普通の研究員としてやっていけなかった者でもある。

 ここは、研究者としての最後の砦に近い。この研究所でもやっていけなければ、もはや諦めろ、と界隈では囁かれている程に。

 しかし、そう言われるが故に、メインである治療薬の開発などには多額の予算を国からも貰っているレベルだ。そして、治験などの臨床実験を含めた様々な事をこの研究所では行っている。責任もその分、重い。

 所長の一人息子である全にとって、将来この研究所を背負うのは、何とも曖昧なビジョンだ。

 何しろ、父親の一人息子でありながら、彼にはいくつかの「欠陥」があるのだから。

「それから、今夜は定例の親子会議ですよ。私も同席は致しますが」

「……僕としては、栄養剤だけで十分なんだけどね」

「駄目です。人として、人らしい食事を摂る習慣を身に着けるのと、所長の数少ない息抜きのお時間ですから」

 別に父親を嫌ったりはしていないが、全にとって食事は正直、苦痛に近い。

 わざわざ道具を使って、手間暇かけた料理を口にする。人としての本能であり喜びでもあると彼らは言うが、全のような人間に対してそれを理解しろというのは、無理にも程があった。

 しかし、だからと言ってそれを蔑ろにするのも、感情的に収まりが良くない。全とて人並みに親への情くらいはある。

「もうじき、お時間です。向かいますよ」

「……はあ、分かったよ」

 パソコンに書いているレポートを保存して画面をパスワード状態に戻すと、全は椅子から立ち上がった。背は時雨を追い越しつつあるが、時雨よりも弱そうに見られがちだ。実際、彼女のように精力的に動いていないのは事実なので、腕相撲でもしたら即、負けるだろう。

 だが、全はこの研究所で、父親よりも優秀な頭脳を持っている。それは幼少期から父親に何度も言われてきた。

 母親が誰かを知らないままに育った全としては、経緯を聞く限り「当然だろうな」くらいにしか思っていない。

 そんな風に考え事をしながら時雨に連れて行かれた部屋では、既に夕食の支度が整えられていた。

「お待たせいたしました、所長」

「いや、構わないよ。さあ二人共、座ってくれ」

 全とは似ても似つかない柔和さを持つ父は、二つの空席を手で示す。

 いつも通り、全は父親の前に、時雨は父の隣に座った。

「では、今日も始めようか」

 いただきます、を合図に、全は箸を持つ。今日は和食だ。

 白いご飯、味噌汁、焼き魚、小鉢に入ったいくつかの品。必要な栄養素の大半はこれで摂取できる。

 だが、いい匂いのするそれを、全は特に嬉しそうでもなく口にする。

 ある程度咀嚼し、飲み込むのを繰り返す合間に、父との会話コミュニケーションを取るのが、どちらかと言うと目的だ。

「それで、今日の学会でも散々に言われたと」

「ああ……。科学が発達したこの時代、可能性は確実にあると思うんだがね」

「決め手に欠けているままでは、納得しませんからね。特定の人物の声だけで相手を狂わせるなんて」

「声も元をただせば音、そして周波数だ。そのチューニングが合えば、電子的に作られた音などよりよほど強い効果が生まれる、と仮定してはいるんだが……」

「肝心のケースが、現時点では全員、故人になっているんですよね。しかも、とっくの昔に」

 時雨が冷静に指摘する。そう、父と自分の研究は、数十年前にとある国の一施設だけで起きた怪事件でもあった。

 当時は今よりも科学は遅れている上、その施設は別の分野で扱われていたという。そんな場所から得た資料だけでは、確かな証拠などあるわけもない。

「そこなんだ……。そして現在に至るまで、そういった症例が公表されてないどころか、皆無と言われている。だが、それこそが疑問の余地を残している」

「報告が無いだけで、発症例はあったかもしれない。そう言ってますが、実際各国の事件をいくら探しても、見付からなかったですよね」

「恋人との心中事件なんて、掃いて捨てる程ありますから、紛れている可能性は否定出来ませんが……かと言って、しらみつぶしに探す程、我々も暇ではありませんよ?」

 時雨の言う通りだ、と全も頷く。可能性を一つずつ潰すにしたって、もう少し効率を考えなければ、一生かかっても真実に辿り着けないだろう。

「楽園症候群……。死んだ恋人たちが、絶対に幸福な死に顔をしており、それを見た者に恐怖や混乱、羨望、嫉妬さえ引き起こさせるというもののようですが」

「ああ。しかし、死人の事を尋ねて回るわけにもいかない。我々はどちらかといえば、生きている人間の為に薬を開発している。故人が仮に知られている病などにかかっていたら話は違うんだが」

 全は食事を終えて「ごちそうさま」と手を合わせると、いつの間にか置かれていた熱い緑茶に手を伸ばした。


 ――楽園症候群。それが、全と父の人生を賭けた研究テーマだ。


 何故か、と問われたら、理由はいくつか挙げられる。

 まず第一に、全は普通の人間ではない事。そして、件の症候群が起きた施設には、全とは少し違うが、普通ではないとされた人間が集められていたという事実。

 そして何より、その中でだけ起きてしまった事件は、一時的にとはいえ、普通ではないとされる人間に対する風当たりを強くしてしまったのである。

 生まれ持った「異端」の象徴を排斥しようとしていたらしいその施設では、色んな実験が施されていたという。

 もっとも、この研究所も一種の異端の集まりみたいなものだ。偶発的に起きる可能性は捨てきれない。

 しかし日夜、様々な薬を開発しようとする彼らに、そのような兆候は起きていないようだ。

 恐らくだが、ただ「異端」なだけでは、起き得ないものなのだろう、という推測までは到達している。

 その先が行き詰まっているから、全は自分を実験台に、異端としての行動を増やしたのである。その最たるものが、さっきの空カプセル実験だ。

 あれによって脳に「己は病気である」と錯覚させるつもりだが、一ヶ月経っても効果はあまり見られない。むしろ、無意味ささえ抱かせる。

 あと一ヶ月ほど続けても駄目なら、潔く諦めた方がいいだろうし、これはこれでプラシーボ効果についてのレポートになるだろう。

 ちなみに、この実験には他の研究員も協力してくれている。ケースは多ければそれだけ結果も得られるのだ。

「ところで、一つ報告がある」

 食事を終えた父が、同じく出された緑茶を飲みながら切り出した。


「明日より、この研究所に被検体兼患者として、一人の少女が入る事になった」


 全はもちろん、時雨も初耳だったようで、同じく緑茶を飲んでいた手を止めた。

「所長、急ではありませんか? 受け入れは十分なのですか? それに、被検体というのは」

「落ち着きなさい、時雨。その少女だが、少し前から変調をきたしている。しかし、普通の医者ではどうにもならず、最先端の医療を志すここへと送る事になったそうだ。データを見る限りでは心療内科の領分に思えたが、その専門家が『これはもっと根深いものだ』と判断し、我々に託すと言ったんだよ」

 なるほど、専門家が匙を投げるレベルで問題のある病気の少女が送られてくるという事か。だが、よくこの山奥に送り出すのを、親が許可したものだ。

「ご両親の了解は得ているのですか?」

「ああ、彼女は母子家庭らしくてね。そして、全。……彼女は君と同じだ」

 まっすぐに真剣な目で見る父の言葉に、わずかに体が強張る。

 自分と同じ。それはつまり――異端の中の異端である、ということ。

「そして何より、母親がどうしても娘を治してくれ、と泣いて縋ってきたんだ。病を抱える子を持つ親の気持ちは、痛い程分かる。……全、お前も研究で忙しいとは思うが、彼女をお前に任せたいと思っている」

「所長! 本気ですか!?」

 時雨が信じられないといった目で、父を見る。確かに全はレポートと調査だらけの日々を送っている為、まともに面倒を見れる自信は皆無だった。

 しかし、だからこそだと父は言う。

「全が彼女に時間を割き、原因に気付く手助けをしてくれるだけでもいいんだ。肝心なのは、被検体の少女の精神なのだから」

「精神? ああ、心療内科が匙を投げるということは、カウンセリングなどではどうしようもなく、投薬すら不可能な状態、ということか」

 先刻の話を聞く限り、相当に重症なようだが、全が相手で悪化しないという保証はない。ただし、寛解かんかい程度までは復活する可能性もある、という事だ。

「では、そういう事だから、明日から頼もう」

「分かった。ただ、仕事の邪魔になるようなら別室に待機させる事になるよ」

「暴れたりはしないらしい。時雨、悪いがサポートを頼む」

「分かりました。彼の研究の妨げになるようであれば、容赦なく別室へと押し込みますので」

 時雨は人間嫌いだ。自分と父を除いた他の人間には、誰であろうとももっときつく当たる。ここへ来る所以でもあった。

 とにかく彼女は「邪魔される」事を嫌がる。その為、他の研究員も、よほどの用事が無い限り、気を遣って仕事だけの話を振っていると聞いた。

 その静寂が壊されるかもしれないと思えば、彼女の苛立ちも理解出来なくはない。

 ただ、この施設はあくまでも「多くの人間を助ける為の施設」だ。彼女はここに来て日が浅いせいか、その自覚は薄いらしく、治験などの協力も消極的だ。

 だからこそ、全のサポートに配属されたのだろうが。

 会食を終えて部屋へ戻り、全は再びパソコンを起動してレポートを進める。

 このレポート自体はそう難しくはない。それこそ三日後に出せるだろう。

 ただ、予定外の人員が入って来るとなれば、話は別だ。

「……出来る限り、今日中にまとめたいな」

 しかし規則的な生活をするように昔から躾けられている為、じきに風呂、そして就寝の時間となるだろう。

 そうしなければ、体の病が何によるものか分からなくなる。それは困るのだ。

 コーヒーも今日は終わりだ。カフェイン中毒にならない程度に摂取しているが、それで眠れなくなっては元も子もない。

 とはいえ、全はカフェインを摂取したところで睡眠に支障はないのだが。


 結局、予定の三分の一程度までしか進められず、ルーティンに従って全はパソコンの電源を落とす事になった。

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