40.チェルシーの決意
「疲れてはいないか?」
背後からそう問いかけるフレッドの声は、分かりにくくも期待が籠められていることがよく分かる。けれど彼は本気で案じてもいるのだろう。その証拠にフレッドの手はチェルシーの腕を優しく撫でているだけだった。
馬車でどちらともなく交わした口付けは、それ以上に官能的なものにはならず、目元や頬などにも優しく落とされただけだった。それから再び頭を撫でられてしまえば、疲れも相まってウトウトと瞼が重くなる。
浮遊感に目を覚ませばフレッドに抱きかかえられながら馬車を下りるところだったのである。思いのほかよく眠っていたようで、フレッドが心配するほど疲れてはいなかった。
屋敷の玄関ホールで出迎えたメイドたちと、支度をした部屋に向かおうとしたチェルシーだったが、フレッドが手を離してくれなくて不思議に思っていると、
「君たちの介添えはいらない。そのまま入浴して就寝するからその用意だけ頼む」
と言われ寝室に連れていかれたのだった。
器用に髪も解いてアクセサリーを外し、ドレスを脱がすフレッド。今までもこのようなことはあったので特に抵抗はしないが、正直に言うと恥ずかしい。しかし世話をやくフレッドはとても楽しそうで、拒否もできずにされるがままだ。
普段はここまで着飾ってはいないから、あっという間に入浴できる状態になるが、今日はさすがに時間が掛かっている。手持ち無沙汰のチェルシーは、代わりにと彼のクラバットを外し、シャツのボタンに手を掛けた。そうすれば更にフレッドは嬉しそうにして、少しだけ微笑んだ。チェルシーにしか分からない程度ではあるけれど。
そして共に浴室に入って身体を洗われて、洗ってあげて今に至る。その間も「足は痛まないか」など心配そうにするだけで、手付きにいやらしさは感じなかった。……ちょっとだけしか。
「いいえ、フレッド様のおかげで元気ですわ。それよりもフレッド様のほうがお疲れでは?私がずっと凭れてしまっていたでしょう?」
「いや、君の寝息があまりにも心地よくて、私も馬車で少しだけ寝てしまっていたらしい」
だから私もちっとも疲れてはいない、そう耳元で囁く彼は確信犯なのか。ずっと視界の端で彼のソレが、腰に巻かれた布越しにでもやる気を見せていたことに気付いてはいた。チェルシーとしてもフレッドが疲れているだろうと気遣って、敢えて言葉でも手でも触れなかったのだけれども。しかしフレッドに背を預けるようにして膝の上に乗せられている今、互いに薄い布を身体に巻いているにもかかわらず、熱がダイレクトに伝わってくる。
先ほどまでの気遣いから一転。チェルシーがさほど疲れていないと確信が持てたのだろう。腕をただ撫でているだけだった彼の手の動きが、徐々に艶かしくなってきた。それを喜ぶチェルシーもまた、フレッドからの行動を期待していたのだ。
小さな水音をチャプンと立てながら、互いの指と指を絡ませ合う。細身でも騎士であったフレッドの指は大きく節ばっていて、手の甲から腕にかけては血管が浮きとても男らしい。それをツツッと指でなぞれば、応えるようにチェルシーのこめかみにキスを落とされる。
「今日ほどチェルシーがこの腕の中にいる幸せに感謝した日はない」
洗い髪を頭頂で纏めたために、露わになっている項にも唇が寄せられる。そのまま食むように話されて、擽ったさとともに快感の火種が作られた気がして、チェルシーは微かに肩を震わせた。
「フレッド様ったら。大袈裟ですよ」
しかしまだ羞恥が勝ってしまっていて、平常心を心掛けて返事をする。
「大袈裟なものか。いいかい、チェルシー。君は私の全てなんだ。チェルシーがしたいことはなんだってさせてあげたいし、協力は惜しまない」
実の両親よりもフレッドの愛はさらに深い気がする。それは盲目的で、少し危険だ。それでもそんな愛が嬉しく思えるなんて、チェルシーこそ相当フレッドに溺れている証拠だったりする。
「もし私が悪い人間だったなら、大変なことになる気がします……」
「なるほど。それは考えたことがなかったな。協力は惜しまないとは言ったが、チェルシーの健康を損ねたり、捕らえられたり、はたまた離れ離れになるような事態ならば、私の全力で以って阻止しよう」
「フレッド様の全力……」
もしかしたら今までも彼の全力で、阻止された何かがあったのかもしれない。彼の全力というものがどこか不穏すぎて、温かな湯に浸かっているというのに身体が冷えた気がした。それでも今まで知らずに生きてきて問題がなかったのならば、それでいいのだろう。フレッドが繊細なことも知っているから、敢えて掘り返しすことなどしたくない。
――フレッドの盲目さは、チェルシーの楽観的な部分によってかなり救われていた。そういう所が、幼少期から小難しかったフレッド少年が依存してしまう結果となったのだが。
「コリンズ家のあの男には近付かないで欲しいとは言ったが、それでも君が逢瀬を望んだとしても、ここで私の妻としていてくれるならば……、それくらいは、いやそれくらいなんてレベルではないが……それは全力で阻止はしない……たぶん」
首筋に顔を埋めて、呻くように呟くフレッドの言葉にチェルシーは目を丸くする。
「フレッド様は私が他の男性を想ったり、その方とお会いすることも我慢できるのですか?」
まさかそこまでとは思わなかった。チェルシーの考える深い愛と、フレッドの愛はそもそもの堆積が違うのだ。
「チェルシーがそれを望むなら。それによって君が幸せじゃないと判断したならば断腸の想いで……」
チェルシーは楽天家だし、おっとりとしている。それでもさすがにフレッドの言葉には、ムッとしてしまった。そんなのあんまりだ。彼は彼自身を蔑ろにしすぎている。
「そんなの、フレッド様の気持ちはどうなるのですか?私の気持ちを優先させて、貴方は秘かに悲しい思いをするというのですか?」
くるりと向きを変えて、チェルシーは膝立ちになった。そうすれば身長差があるフレッドとも目線が同じになる。そしてポカンとするフレッドの頬を両手で挟んで、額をそっと合わせた。
「チェルシー……?」
「私だったら絶対に嫌です!先ほどのパーティーでフレッド様を見つめる令嬢たちの視線ですら我慢できませんでした。それなのにフレッド様が他の女性を想って、その方と会うなんて……もしそうなったら私だったら全力で阻止をして、それでも無理なら離れます」
「待ってくれ!ちょっと順番に!順番に咀嚼させてほしい」
肩を持って引き離される。頭が動いた衝撃で、ほろりとチェルシーの瞳から涙が零れ落ちた。フレッドの切れ長の瞳が見開かれ、あからさまに動揺が走る。
「あああ、チェルシー!なんてことだ。……ええと。まず、そう、令嬢たちの視線。そんなものは気にしなくていい。私にとっては世の女性はチェルシーかそれ以外だからだ。それからそれを気にしてくれていたのは……、嫌な思いをした君には申し訳ないが、すごく嬉しい……」
チェルシーは泣いてしまったことに気付かず、自分のことながら驚いていた。しかしフレッドの言葉が悲しくて、悔しくて。そしてチェルシーの愛が否定されたようで切なくなったのである。その証拠に胸は苦しいし、頬を流れる雫が止まらない。
「それでさっきも言ったように、私にとっては今までもこれからもチェルシーしか愛さないし、そもそも欲情もしないので安心して欲しい。ただ私が言いたいのは、私自身が特殊なことを充分に承知しているから、普通の感性の君を同じ括りにしなかっただけだ。だから阻止をしてくれると言ってくれるのは正直嬉しい。それならば離れる君を次は私が阻止しよう」
フレッドの言い方は難しく理解できないけれど、必死に言い募る彼とよく分からないこの状況がおかしくて笑みが漏れた。
「フレッド様……。フレッド様のお話は難しくて私には分からないですぅ……ふふ」
息をするだけで詰まってしまった鼻がズビッと鳴って恥ずかしい。けれどそんなことでフレッドの愛は揺るがないだろうとも思う。
「ほら、目を擦るのは肌によくない」
その証拠にすぐさまチェルシーの視界は温かなもので塞がれた。いつの間にか湯に浸して絞った布を当ててくれたようだ。どんなときでもフレッドは優しい。けれどそうじゃない。
チェルシーは与えられたら与えたいし、それを一緒に共有したい。片方の幸せを望むのではなく、一緒に幸せになりたいのだ。
「難しくて全然分からないですけど、でもフレッド様は私を許すばかりじゃなくて、嫌なことがあれば嫌だとおっしゃってください。……もっと我儘になってもいいんですよ」
「でも……」
「もう私だってフレッド様を嫌いになることなんてないんです!こんなにも好きになっちゃったんですから。私もフレッド様しかいらないんです」
ザバッと音を立て、勢いよく湯から上がったチェルシーをフレッドは驚いた顔で見上げる。
「チェルシー?」
「いいですか?今から私の気持ちをじっくりお伝えしたいのでお先に失礼しますね!百数えるまでは出てきては駄目ですよ!」
目の前の布が張り付いた身体と、そこから伸びる、水滴を弾くむっちりとした内太腿に思考が奪われて反応が遅れてしまった。
「逆上せないようにすぐにお湯からは上がって下さいね!」
チェルシーを拭きあげるのはフレッドの好きな行為だったのに、反応をしてしまった下腹部のせいで浴槽から出ることを躊躇した隙に、彼女はさっさと浴室から出て行った。
もちろんチェルシーからのお願いなので、きっちり百を数えたフレッドである。若干早巻きだったことは否めないが。
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