39.彼らのその後

 残されたラルフは小さくなっていく背中を呆然と眺めていた。頬に手を伸ばして抓ってみたが、普通に痛い。これはまごう事なき現実だと、ヒリヒリと熱を持った頬が教えてくれる。


 不仲で寂しい思いをしているであろうチェルシーに、救いの手を差し伸べたはずだったのに。その誘いに即答するでもなく戸惑った挙句に断られたのが、まず一つ目の驚きであった。


 それからフレッドだ。年齢も近く同じ伯爵家の嫡男として、父の手伝いをしている程度のラルフに比べ、フレッドは若くして騎士団幹部になり、今は立派に伯爵様だ。そして妻はチェルシーで……。

 ほんの少しの尊敬と、大きな羨望や嫉妬心を抱きながらも、悔しいことにフレッドという男は完璧な人間だという認識であった。だというのに目の前で妻がダンスに誘われただけで、この世の終わりのように血の気の失せた顔をするなんて、ラルフでなくとも彼を知る誰もが驚きを隠せなかっただろう。


 ランサム伯爵夫妻が仲睦まじいとは噂ですら聞いたことがなかったし、初恋のチェルシーに再会して、彼女を不幸から救う英雄を気取っていたのだ。多分、いや、かなりラルフは浮かれていた。

 しかし二人が一緒にいる場に直面して痛感してしまった。彼らは普通に仲の良い夫婦にしか見えないばかりか、あまつさえ纏う空気がやたらと甘すぎる。一緒に暮らすうちに愛情が芽生えるなんて、充分にありえる話だ。あの他人に興味のなさそうなフレッドとはいえ、彼らだって例外ではないだろう。


 けれどもそれを覆す二つ目の驚きは……。


「え?え?泣い……?え?」


 対峙していたラルフしか気付かなかったのかもしれないが、あれは間違いない。

 フレッドの今までのイメージが、ガラガラと音を立てて崩れていく。しかし元々が良い感情ではなかったために、逆に好感度が上がってしまう結果となったのが、人の心の複雑なところ。ラルフ自身も信じられないがフレッドも人間だったのだな、と思えて、そして少し嬉しかった。不本意ではあるが。


 ダンスの輪に到着した二人は抱き合うようにして、それでも優雅にステップを踏んでいる。背の高いフレッドは身をかがめて、小柄なチェルシーに愛を囁いているようでラルフは鼻白んだ。しかし時折フレッドが頭をよしよしと撫でられているのを目撃し、以降は懐く大型犬と可愛がる飼い主の女性にしか見えなかった。


 そんなチェルシーの表情は、ラルフに見せる笑顔とは比にならないくらいに愛おしさに満ちていた。

 リベンジを決めた初恋。その相手であるチェルシーの幸せそうな表情は、彼を諦めさせるには充分だった。


 二人の世界に入っているが、フレッドは先ほどの悲壮感なんてなかったかのように、時折ラルフのほうを見ては冷ややかな視線で牽制しつつ、チェルシーを見つめるときはその瞳を和らげる。お前今まで泣いていただろうと、叫んでやりたかったが人の目を気にするラルフは飲み込んだ。いつか絶対に揶揄ってやると心に決めて……。


 ただただ信じられないけれど、同時に合点もいった。


 あの日、チェルシーと別れた帰り際に、フレッドに会ったのは偶然なんかではなかったのだ。それ以前に婚約すら取りつけられなかった理由にも、なんとなく気付いてしまった。ダンスのように腕で彼女を優しく抱き寄せながら、しかし強い執着でもって囲い込んでいたのだ。ラルフがチェルシーを知るよりも前から、ずっと。


 フレッドより早く出会えていたら……。それでも未来は変わらないような気がするのが悔しいところ。


 ――結局初恋は実らなかったラルフであったが、やはり日を置いて冷静になると、パーティーで起こったことが現実ではなく、夢に思えてならなかった。


 以降それなりに社交の場に出席するようになったランサム伯爵夫妻を追っかけては確認のために、話かけては絡むようになるのだが。

 その度に牽制されて、見せつけられて。次第にフレッドの不器用さがクセになり、やたら彼を構い出すことになるのはそれほど遠いことではない。


 * * *


 馬車で帰路につきながら、チェルシーは緊張から解き放たれた開放感に溜息を一つ落とした。フレッドの肩に凭れてどこを見るでもなく、車輪がガタゴトと鳴るのを心地よく聞いていた。


「疲れただろう。屋敷に帰ったらゆっくり休むといい」


 フレッドの優しい声が身体を通して、耳へとダイレクトに聞こえてくる。それだけで胸がキュンと鳴ってしまい、もっととねだるように更に擦り寄った。気付いたフレッドは、腰を抱いていた手を上に移動させて頭を撫でてくれるものだから、さらに胸は甘く締め付けられた。


「確かに緊張しすぎて疲れてしまいましたが、でも、とても楽しかったです。フレッド様とダンスも踊れたのも嬉しかったですわ」

「……あー、情けないところを見せてしまった」

 表情は見えないけれど、声でしょんぼりとしている様子が目に浮かぶ。確かに慌てたが、それはフレッドをあれ以上傷つけたくなかっただけで、情けないだなんて思いもしなかった。

「そんなことはありません。昔に少しだけ一緒に過ごした存在を、ちょっぴり思い出したりしましたけど」

「ああ、そのことだが……」

 やはりチェルシーが思わず口にしてしまった『ペス』という言葉を疑問に思っていたのだろう。思わずリンクしてしまったとはいえ、さすがに子犬に似ているなんて失礼だったと反省した。


「フレッド様、あの、怒らないで聞いて下さいね?」

「私がチェルシーを怒るなどあり得ない」

 キッパリと言い切るフレッドに小さく笑みが零れる。先ほど落ち込んでいた声色とは大違いだ。そういう所も含めて愛おしい。

「ふふ、ありがとうございます。それでですね、昔、小さな子犬が屋敷の前に捨てられていたんです――」


 ペスとの日々をフレッドに説明しながら、フレッドからも小さい頃の思い出話を聞かせてもらいたいと思った。そうしてもっと彼のことを知っていきたい。幼い頃には同じ時間を共有したことがあるのだから、チェルシーが忘れてしまった思い出だってあるはずだ。


「――飼えなかったのは残念でしたけれど、貰われていったと聞いて安心したのを覚えています。生きているなら十歳くらいかしら?まだ元気に過ごしていてくれたら嬉しいけれど」

「ふむ。気にすることはないペスは幸せに過ごしている。しかし犬が相手とはいえ、雄犬のことをそれほどまでに気に掛けるなんて妬けるな」


「えっ!」


 目の前にいないばかりか犬相手に嫉妬するフレッドが、ちっともブレないことに驚いたわけではない。見上げればフレッドは少し困った顔をしていた。


「仕方がないだろう。私にとっては雌ですら敵になり得る」

 しかしフレッドは誤解をしたようで、これまたスパッと言い切る。

「そうじゃなくてですね。……フレッド様はペスをご存じなのですか?」

 チェルシーの疑問を理解したらしいフレッドは、ひとつ大きく頷いた。


「ああ、その時のメイドはハリスの奥方だ。ペスは彼女にあまりにも懐いたから、今はハリスの自宅で飼われている」


「まぁ!あの時のメイドがですか?どうりで途中から見かけなくなったと思ってました。彼女にも会えるのですね!」


 実際は元々ブラウン男爵家のメイドではなく、チェルシーの日常を報告させるためにフレッドが送り込んだランサム家のメイドだった。

 ペスがチェルシーの祖母に見つかり、慌ててランサム家に連れてきたところ、諸々のやり取りの末にハリスと結婚することになったらしい、というところまではフレッドも知っていた。

 チェルシーが見つけ、名付けたペスを飼いたかったフレッド少年であったが、メイドにあまりにも懐く姿に、ペスもチェルシーと引き離されて悲しいだろうと諦めたのだった。あとはチェルシーに可愛がられていたようで、少しだけ嫉妬したのもある。


「彼女は子供が生まれてからは、屋敷内で働いていないから気付かなかったのかもしれないな。チェルシーも知っているだろうが、ハリスの家は屋敷の敷地内にあるから、すぐにでも会わせてあげよう」


 静かな、優しい声。

 ああ、本当に好きだわ、とチェルシーは思った。そんな気持ちのままフレッドに抱き着く。グッ、とフレッドの喉が鳴ったあと、心を落ち着かせるかのように、そっとこめかみに口づけられた。


「やはりチェルシーのこんなにも可愛らしい姿は誰にも見せたくないな」

 絞り出すような声に、チェルシーは慌てて言葉を返す。

「でも私はフレッド様とお揃いの衣装で、妻として皆様に挨拶をして、それから一緒にダンスをしたこと、本当に楽しくて……」

「うう……。ぜ、善処するが、あの男にだけは近付かないでほしい。貴女への好意があからさますぎる。いや、あの男だけではないのだが。特に、だ。それでもどうしても話したい、というなら……私も同伴しよう。くっ……、ああ、でも」

 葛藤しているフレッドを宥めようと、チェルシーは少しだけ伏せていた顔を上げれば、思いのほか二人の顔は近くにあった。


 高鳴る胸にも慌てることなく自然と唇が重なり合う。夜の馬車の中は静かな時間が流れていた。

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