36.再会を果たす
「ランサム伯爵様。ご無沙汰しております」
背後からかけられた声にフレッドは固まった。
つい最近も聞いた覚えのある穏やかな声。その持ち主が誰かなんて明らかだ。
振り返れば、想像通りの人物が声に違わぬ穏やかさで微笑んでいた。
「…………っ!」
しかしその瞳の奥には、挑戦的な色が見え隠れしていることにフレッドは気づいてしまった。
もちろん入場したときから彼の存在は認識していた。その上で痛いほどの視線を感じながらも、常に離れた位置を確保していたというのに!何という失態か。
(チェルシーの様子に気を取られて、うっかりしていた……!)
心の中で盛大に舌打ちをする。
さっさと会話を切り上げて今すぐここを出て屋敷に帰りたいが、一緒に来た母はフレッドがもういつ帰ると言っても大丈夫だと確信したのだろう。残り時間を惜しむように、祝辞が終わると友人と歓談に行ってしまった。どこか場所を移してしまったのだろうか、こっそりとホールを見渡してみても母の姿を見つけることができなかった。
いっそ会場にいる使用人に伝言を頼もうか……?それとも……。
「伯爵夫人もご一緒なのですね。コリンズ伯爵家のラルフです。はじめまして……ではなくお久しぶりですね」
フレッドがこれからすべきことに思いめぐらせていると、今、最も接触したくなかった男、ラルフはチェルシーににこやかに挨拶をした。フレッドが咄嗟に背後に隠した存在を覗き込むように。
挨拶をされてしまえば、フレッドの背後から慌てて出たチェルシーを押しとどめることなどできなかった。
「ご無沙汰しております。ラルフ卿」
チェルシーはというと、彼と会ったことは記憶に新しい。見知った顔にホッとしてしまうのは、やはり社交自体が不慣れすぎるからだと思い知った。こんなことでは百戦錬磨のご婦人にフレッドを奪われてしまいかねない。もっと余裕を持たないと……と、挨拶を返しながらも内心反省していた。
しかしそんなチェルシーの胸中とは比べものにならないほど、フレッドは荒れ狂っていた。
動揺に加え、嫉妬と焦燥に嫌悪。あとは劣等感。ありとあらゆる負の感情が押し寄せてくる。フレッドの腕に触れているチェルシーの温もりだけが、なんとか彼を押し留めていた。でなければチェルシーを抱き上げて咄嗟にホールから出ていただろう。当主としてありえない行動であったとしても。
「ところであの道は便利だったでしょう?馬車が通れないのが難点ですが……」
「その節はお世話になりました。無事に目的のものを購入できましたわ」
にっこりと笑顔で微笑むチェルシーの表情は柔らかく、そして可愛らしい。フレッドに挑戦的だったラルフも、少年のようにキラキラと嬉しそうにチェルシーを見つめている。ふわふわと穏やかな空気が、フレッドを除け者にして取り囲んでいた。
「…………」
チェルシーが母と演劇を見に行った日。ラルフと会ったのかどうか、彼女の脳裏にも浮かべさせたくなくて確認しなかったのは事実。しかし会っていたのはその後のラルフの態度で確信していた。
けれど改めて己のあずかり知らない会話がなされるのを目の前で聞いていると、フレッドの心は一瞬にして暗黒に塗りつぶされた。雷鳴轟くなか誕生したドラゴンが、灼熱のブレスを吐いて暴れ狂い始める。
今までは全て先回りして未然に防いていたから、現実にチェルシーと彼女に懸想する男が直接関わるところを、目の当たりにしたことがなかったのだ。なんという衝撃。
あの日もフレッドが知らぬところで二人は、こうして和やかに会話をしていたのだろうか。チェルシーはフレッドと違い、人当りの良いこの男をどう思っただろうか。いや、そんなことは明白だ……。
長年、チェルシーに対して拗らせた結果、結婚してからもどう接していいのか考えあぐねて、何もできないフレッドとは大違いなのだから。
彼らは一回会っただけだというのに。それとももしかして他にも会っていたというのか?
フレッドの負の感情の象徴たるドラゴンは、地団太を踏んでやるせなさに咆哮をあげている。嫌な想像をしてしまうばかりで頭がちっとも働いてくれない。
ついにチェルシーがラルフに抱き付いてしまう想像を一瞬だけしてしまった。あの、フレッドを嬉しそうに見上げる、キラキラとした笑顔で。相手がラルフでなくとも思わず強く抱きしめてしまうだろう。もう二度と離さないように、と。
(だめだ、だめだ!)
妄想を速攻で打ち消したものの泣きそうになる。ついでにそれが自然に思えてしまって、壮絶なダメージを食らった。
ここ最近のチェルシーとの楽しかった思い出がフラッシュバックしていく。
――無表情で立ち竦んでいるフレッドの脳内が、大変なことになっているなんて知る由もないラルフは浮かれていた。
着飾ったチェルシーの美しいこと!遠目で見てもすぐに彼女だと分かったし、時折フレッドが邪魔で見えなかったがドレスがよく似合っていると思っていた。やっと間近で見た彼女はまるで妖精のようで、エスコートする立場でないことが歯痒くて仕方がない。
以前の印象や街で会った時には可愛らしいと思っていたが、それだけではなかった。しっとりとした色気を孕んでいて、鎖骨や胸元に思わず視線を這わせてしまい、慌てて引き剥がした。それでいて清楚な雰囲気も持ち合わせているのだから、ラルフは自身の邪な想いを棚に上げ、彼女をこれ以上他の男の目線があるこの場に留めておきたくないな、と考えていた。
ラルフがフレッドの立場であったらば早々に帰っていただろう。そして屋敷で美しいチェルシーを堪能するのだ。
そこまで考えて、一言も発することがない目の前の男を改めて羨んでしまう。堂々と彼女を連れ帰って、ドレスを脱がせることができる立場にあるのだから。しかし潔癖そうなフレッドが必要以上に、妻とはいえ他人と身体を触れ合わせるようにも思えない。ラルフのその想像は間違ってはいない。チェルシー以外に関しては、だが。
(なんて勿体ない……。が、誰の色にも染まっていないと考えれば重畳だ)
こんなに可愛らしい女性を妻にしておきながら、女の悦びを与えられないなんて。やはりここは積極的にチェルシーと関わっていき、少しでも心を預けてもらえたら。そしてあわよくば今夜……、と思わなくもないが、焦らずにまずはラルフ自身をよく知ってもらいたい。
フレッドは置物のようにずっと無言でいるから、つい存在を忘れてしまいそうになるが、正式な夫の目の前で口説くのはさすがによくないだろう。家同士の問題に発展するのは避けたい。だからフレッドには先にお帰り願わなければ。パーティーの後半にパートナーが変わっているなんて珍しいことではない。
まずは二人きりになることだ。そう決心したラルフは少し腰を折ってから手を差し出した。年甲斐もなく、緊張してしまっていることに差し出してから気付く。みっともなく手が震えてしまわぬように、腕に力を込めた。
「よろしければダンスをご一緒していただけませんか?」
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