37.小さなあの子

 ラルフの言葉にフレッドが身動ぐ。チェルシーを護ることに必死で、ダンスを踊ることを失念していた。チェルシーをスマートに誘う予定だったし、会場に来るまでは覚えていたというのに。

 牽制や不埒な視線からチェルシーを隠すことに忙しくて、帰りたい思いが募りすぎた。確かに忘れていたフレッドの落ち度であるが、だとしても夫を差し置いて、この男が先に踊るだなんてあり得ないにも程がある。


 フレッドのリズム感はお世辞にも良いとは言えない。しかしチェルシーと結婚するにあたり、無理矢理にハリスや母と練習を重ねたので、簡単なものであれば踊れないわけではない。その成果として、本番である結婚式の披露パーティーで、チェルシーをリードしながら踊ったひとときは夢のようであった。

 ただ後に控えていた初夜のほうがあまりにも衝撃的で。ちなみに初夜の後、チェルシーが寝入ってから興奮冷めやらぬまま、一生の記念にと時々身悶えながらも詳細を書き留めたのはいい思い出だ。その時のことはチェルシーとのメモリーブック〈五〉に記載されている。


 それは一旦心の本棚に今一度しまっておくとして、今になってチェルシーと踊ったのはその一回限りだったと思い出した。


 当時のフレッドは緊張で身体を離し気味だったが、ダンスといえばそれなりに密着する。愛しのチェルシーが、他の男と目を合わせて話しているだけでも脳内は大騒ぎだというのに、ダンスを踊るなんて耐えられるわけがない!


 思い出を懐かしんでいたはずのドラゴンが再び暴れ出す。


 絶対に踊らないでほしい。


(けれどもチェルシーがこの男と踊りたいと言うならば……)


 認めなくては。つらいけれど、離縁以外のチェルシーの願いは何でも叶えてあげたいという気持ちに嘘はない。でもそれに耐えられるだろうか。

 大体からして夫であるフレッドを差し置いて、先に踊る権利がどこにあるのだろう。それか、いっそフレッドがラルフと踊ればいいのか?


 少し、いや、かなり混乱している頭では上手く回避する言葉が出てこなかった。ドラゴンは途方に暮れて、しょんぼりと悲しそうに鳴いている。


「あ……。そういえばダンス、まだ踊ってませんでしたわ」

「折角のパーティーなのに踊らないのも勿体ない。貴女のドレスは回るとさぞかし綺麗でしょう。もちろん夫人自身もドレス以上にとてもお綺麗ですよ」


 ラルフからすれば、フレッドはダンスを踊るような男に思えなかった。もちろん憧れのチェルシーと踊れるなんて夢のようではあるが、綺麗に着飾ったというのにダンスすら踊ってもらえないなんて寂しいはずだと考えて誘ったのだが。


 しかし一向に乗せてもらえない手の平に焦りを覚える。フレッドに遠慮をしているのだろうか?夫人としては当然かもしれないが、その檻から出してあげたかった。


「それに伯爵はあまりダンスがお好きではなさそうだ。代わりに私と是非」

「私も得意ではありませんが……」

「なに、私がリードして差し上げます。これでもダンスは得意なのです」


 やたらと強引にダンスに誘ってくるラルフにチェルシーは困惑していた。ダンスを踊るなら、顔見知り程度のラルフよりもフレッドと踊りたい。結婚式後のパーティーでぎこちなく踊った記憶しかないから、今ならフレッドと心から楽しめそうな気がした。ステップはちょっと心配だけれど、器用な彼ならそれすらも包み込んでくれるだろう。


 それにチェルシーがラルフと踊ってしまったら、一人残されたフレッドに美女たちがこぞって押しかけるはずだ。そんなことになったら絶対後悔する。それだけでなく、目の前の差し出されたフレッド以外の手に触れることへ戸惑いを感じていた。さらに腰を支えられて密着するなんて無理だ。


(フレッド様にしか触られたくない……)


 けれどフレッドの策略で、ありとあらゆるものから守られていたチェルシーは、こういった誘いに対する断り方が分からなかった。どういえばランサム家として角が立たないのだろう。いっそ我慢して踊るほうが正解なのだろうか?


 混乱したチェルシーはフレッドを見上げてハッと息をのんだ。


 そこには捨てられた子犬の様相をしたフレッドが佇んでいた。幼き日の思い出が脳内に蘇る。


 実家である男爵家の、ランサム家より狭い庭。一緒になって走った小さな存在。小さな弟だけでなく、チェルシーですらすぐに追いつかれていた。芝生に寝転べば、嬉しそうに尻尾を振りながら顔中舐めてくる。温かくて幸せな記憶の欠片。


 ――そう、あの子は……。


「……ペス?」


   * * *


 それは幼いチェルシーがフレッドと出会って、少しばかり経った頃。


 ある日、街に出かけようとしたチェルシーは、支度の長い母を待ちきれずに門のところまで侍女を一人連れて暇つぶしに歩いていた。おろしたてのワンピースはスキップをするたびに裾がふんわりと揺れて、それだけで心も躍る。勝手に門を出てはさすがに怒られるので、屋敷に引き返そうとしたその時、小さなか細い鳴き声が聞こえた気がした。


「ちょっと待って!さっき何か聞こえたわ!」

「え?……本当ですね!どれどれ……」

 侍女は門を少し開けて外に出ると、すぐに木箱を抱えて戻ってきた。


「お嬢様、子犬ですね。木箱と布も入っているところを見ると捨てられたのでしょうか……」

「まぁ!かわいそうに!」

 木箱を覗き込むと、小さな子犬のキラキラとした瞳と合った。

「昨晩は見回りもしているでしょうし、つい先ほど捨てられたのでしょうか?野鳥に食べられなくて良かったですね」

 恐る恐るチェルシーが手を伸ばすと、子犬は小さな舌でペロペロと舐めてくる。

「あなた、お母様もいないのに一匹でよく頑張ったわね。もう大丈夫よ。……ねぇ!早く屋敷に戻りましょう!ミルクをあげないと!」


 しかし支度の終わった母に呼ばれたチェルシーは、帰ってくるまで侍女に子犬を預けた。チェルシーの祖母である大奥様が動物嫌いだということは周知のとおりだったので、こっそりと使用人しか立ち入らないエリアで子犬を匿ってくれていたのだった。


 出かけている間、チェルシーは子犬のことで頭がいっぱいだった。


「そうだわ!ペスがいいわ」

「ペス?何のこと?」

「いいえ!何でもありません!絵本のことを考えていただけです」

 思わず口にしてしまい、母に訝しがられたりしたが無事屋敷に帰ってくると真っ先にペスに会いに行った。ご飯を貰ってお腹が一杯になったらしい子犬は木箱でスヤスヤと寝ていた。グレーの毛並みは撫でるとフワフワと綿毛のように柔らかで、未だにその感触を覚えている。


 それから数日経つころには、子犬はすっかり元気になってチェルシーやチェルシーの弟と一緒に走り回れるほどになった。


 しかしそうなればどうしても祖母の目に付いてしまう。動物嫌いの祖母は使用人に屋敷から追い出すように命令をした。チェルシーが泣きながら縋り付いても無駄で、可哀そうに思った父や母も説得してくれたが、首を縦に振ってもらえなかったのだった。


 ぽっかり空いた心の隙間。それでも子犬は捨てられたのではなく、貰われていったと教えてもらえたことが救いだった。ペスと一緒に過ごした時間はとても短く、幼かったこともあり、チェルシーはすっかり忘れてしまっていた。


 ――ふとした瞬間に思い出すことはあっても。例えば正に今のように……。

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