35.ままならない恋心

 その後、国王と皇太子の挨拶から始まり、今回のメインである皇太子の第一子お披露目、並びに祝辞が流れるように行われたため、チェルシーは先ほどの懸念について訊ねる機会を逃してしまった。


 フレッドの様子を心配しつつも、生後二ヶ月ほどの小さな王子の愛らしい表情に思わず笑みが零れる。ふくふくとした血色の良い頬っぺたは、触れられるならば確実に幸せになれそうだ。

 王子は皇太子のはっきりとした顔立ちによく似ていて、皇太子妃と同じ髪の色であった。二人それぞれの特徴があり、生命の神秘を感じてしまう。


(ああ、私もいつかフレッド様との……)


 いつかそんな未来が訪れたなら……。今まで乳児を見て可愛いとは思っても、他人事であって関係のない存在だった。それも偏に心境の変化はもちろん、フレッドとの関係の変化があったからだ。


 フレッドとの子供はどちらに似ているのだろう。それともどちらにも似ていたりして……。

 まだ月のものも終わったばかりで期待の欠片もないけれど、早くこの手に抱いてみたい。そうなれば屋敷中みんなが祝福してくれるだろう。


(フレッド様は王子様を拝見して、どう思ったのかしら……)


 以前子供について会話に出たことはあるものの、改めて彼に聞いてみるのは恥ずかしくもあるし、怖くもある。けれどベットの上の甘い空気ならば聞けるかもしれない。そこまで考えて、あの事後特有の気だるさと、それに繋がる行為を思い出し、下腹部がじわりと疼く。


 もういつでも可能ではあるが、どうやってフレッドにそのことを伝えたらいいのだろうか。フレッドはチェルシーをとても気遣ってくれるから、彼からは当分誘ってくれそうにもないし……。抱いて欲しいと言ったら、普通に抱きしめられそうな気もする。それはそれでして欲しくもあるけれど、そうではない。いっそはっきり「赤ちゃんが欲しいです」と言ってみる?


(やだわ、私ったら……)


 我に返ったチェルシーは、火照る頬に手を当てて熱を逃す。妄想が飛躍しすぎてしまった。



 フレッドとしては、まさか愛しのチェルシーがそんなことを考えていたなんて微塵も思わなかったので、妻の表情がいつもより熱っぽい気がして休ませてやらなければ、と考えていた。


 この時、フレッドにこっそりと伝えていたら。さっさと有無を言わずに、屋敷に帰っていただろうから、彼と顔を合わせることもなかったというのに。しかし誰に聞かれるとも分からない場で言えるはずもなく、ランサム伯爵夫妻はパーティーに留まることとなった。


 * * *


 国王と王妃、皇太子夫妻のダンスが終わればフリータイムである。それぞれダンスに興じたり、社交を楽しむひとときの始まりだ。


「チェルシー、疲れてはいないか?発泡していたほうがスッキリする。これなら屋敷で飲んだことがあるから安心だろう」

「ありがとうございます!」


 相変わらず細やかな気遣いのフレッドからスパークリングワインを手渡され、一口飲めば心地よい炭酸がシュワシュワと喉を通っていく。一息つくと、チェルシーはそこで思いのほか緊張していたことに気付いた。


「もうここからはいつでも帰っていいが……」

 チラリとチェルシーを見たフレッドは、少しだけ寂しそうな顔をして、

「たまにはもう少しこの空気を楽しむのもいいだろう」

 そう言った。


(もしかして……)


 なんとなくだがチェルシーはそこに彼の不安があるのではないかと勘付いた。やはりフレッドは社交があまり好きではないらしい。ずっと何か言いたげにしていたのは、早く帰りたかったのだ。次々と挨拶を交わしたり、冗談か本気かも分からない話を受け流したり、そんなことを彼が得意にしているとは思えない。


「気付かなくって申し訳ありません。そろそろ帰りたいですよね?」

「私は初めから……。チェルシーの美しすぎるドレス姿をみた瞬間から屋敷を出たくはなかったな」

「え……?」

 社交とあまり関係がない話に、チェルシーは目を丸くする。

「他の男が君の姿を見ると思うだけで辛かったのに、実際不埒な視線を目の当たりにすると胸が黒炎に焼かれてしまいそうだ」

「まぁ!」


 少し拗ねたようなその表情。チェルシーにしか分からない変化なのだが、そんな可愛らしい反応をする夫に頬が緩む。だから彼はずっと心配そうだったのか。

 何気ない瞬間にもチェルシーが思っている以上に、フレッドは愛してくれているのだと気付かされる。ますます好きになっていく。


 愛されていることがこんなにも心を温かくするなんて。それでもはしゃいでいたチェルシーに、水を差すようなことを言わずにいてくれたのだ。……実際は言う気満々で、サマンサにブロックされていたのだが。――彼は今までもこれからも、母に頭が上がらない。


 確かに着飾って煌びやかな場所に参加することは、夢の世界にいるようで楽しかった。以前に参加したものとは比べものにならないくらいに。しかし愛する夫をうっとりと眺める女性たちの視線に、チェルシーだって胸がチリチリと焦げ付いたように痛かったのも事実。その度にフレッドの名を呼んで甘え、牽制するのも正直疲れた。


 チェルシーよりも大人で色気を纏った美女は沢山いる。分かってはいたけれど、それを今日改めて目の当たりにして、恋愛にも慣れているだろう美女たちに、とてもじゃないが初心者のチェルシーが太刀打ちできる気がしなかった。

 いつの日かフレッドの愛が他に向けられるかもしれない焦燥に駆られたのだ。いつも甘く蕩けさせる指が、唇が、他の女性に触れるなんて。自分以外を優しく慈しむ彼なんて見たくなんかない。


 けれどチェルシーには、とっておきがある。

 ――とはいえ、あのランジェリーだけでは対抗すらできないかもしれないけれど。


 フレッドを熱く見つめる豊満な美女たちを横目に、密かに溜め息をつく。チェルシーが毎日うっとりと眺めるほどに整った容姿のフレッドは、誰の目から見てもうっとりと見つめる対象なのだということを知り、無性に嫌悪感を覚えた。他の貴族のように寛容になれなくて、伯爵夫人としては失格だろうと理解していても、考えるだけで心が張り裂けそうだ。


 そう、これは明らかに嫉妬。恋をするということは幸せばかりではなく、想像以上に内面が忙しいと身をもって分かった。


(やっぱりパーティーはあまり参加したくないわ……)


 我儘は百も承知で、今後は参加を控えさせてもらおう。そう思ったチェルシーだったがハッと気付いた。


(……でもフレッド様が一人で参加したほうがレディたちの思う壺では!)


 そうとはいっても、フレッドは伯爵家当主。社交的ではないフレッドも好んで参加しないと思うが、妻であるチェルシーが行かないでなんて言うのもおかしい。だとすればチェルシーも必ず参加して隣で見張っているほうが安心だ。


(そうだわ。私はフレッド様の妻ですもの!お揃いの衣装を身に纏って、隣でくっついていい立場なのよ)



「チェルシー?」

 メラメラと闘志を燃やしているチェルシーの様子にフレッドは不思議そうに声をかけた。疲れた、というよりはやる気が漲っているように思える。やはりパーティーが楽しいのだろうと思い至った。


 心配だけれど、愛する妻に楽しんでもらえて嬉しくもある。本当に複雑だ……。


 ――チェルシーをつぶさに観察していたフレッドは、周囲への警戒を怠ってしまっていた。

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