33.まだ始まってすらいない

 朝から磨かれてヘトヘトのチェルシーだったが、鏡に移った己の姿に一瞬にして疲れが吹き飛んだ。汗を流しながら懸命に磨き上げてくれたメイドたちは、満足そうに頷き合っている。


「さすが奥様。とってもお綺麗です」

「素敵に仕上げてくれて……。みんな、ありがとう」


 鏡の前で、少し体を捻るとドレスにちりばめられた細かなビジューがキラキラと灯りに反射する。艶のある濃紺の生地と相まって、夜空に浮かぶ満天の星のようだ。

 足元に向かうふんわりとしたプリンセスラインにもビジューは輝き、上半身と同じ布地の上に白のオーガンジー素材が何重にも重なっていて、濃紺を甘やかにしている。歩くたびにフワフワと揺れる軽やかな素材は見た目だけでなく、夜会用のドレスなのに思いのほか動きやすい。

 髪も上半分を編み上げてから髪飾りで留め、残りは巻いて下ろしているので、こちらも歩くたびに羽のように揺れた。


 嬉しそうに鏡を見つめるチェルシーはさながら妖精のようだ。メイド冥利に尽きる。

 一つ不安があるとすれば、この姿をみた当主が行くのを拒んでしまわないか、ということくらい。もちろんチェルシーに言えるはずもないけれど。


 チェルシーが嫁いできてから一年も経ってはいないが、そこかしこで夜会は頻繁に開かれているというのに、伯爵夫人として参加したものは国王の生誕祭くらいではないだろうか。これまでも何度もパーティーへの誘いはあったにもかかわらず、その殆どをフレッドが独断で欠席していた。そのためメイドたちが腕を振るう場がなく、彼女たちの気合の入りようは特別であった。


「どうか、旦那様に攫われてしまいませんよう」

 マリーが真顔でチェルシーに告げる。周りのメイドたちも真剣な表情で頷いていたが、チェルシーは意味が分からない。

「フレッド様に?見知らぬ男性に気を付けるならまだしも……。ふふふ、でもね、フレッド様にだったら攫われてもいいわ」

「そんな愛らしい表情でそんな台詞、旦那様の前で言ったら現実になります!大奥様と離れることがないようお気を付けください」


 マリーの言葉に、キョトンと目を瞬かせているチェルシーは多分、分かっていない。しかしこの屋敷の彼女以外の者は理解している。


 使用人たちの間ではフレッドが恋情を拗らせていて、望んで迎えたチェルシーと上手く関係を築くことができないことを知っている者が半分、残りはランサム夫妻が上辺だけの冷めた関係であると思っていたものが半分だった。


 しかしここ最近の周りを憚らないフレッドの態度と、それを受け入れているチェルシーの姿に戸惑う使用人たち一同に対し、執事長であるハリスから、

「私も詳細は分からないが、フレッド様が今まで奥に秘めていた恋情を爆発させてしまったので、メイドたちは奥様へのケアを十分にするように」

 との命を受け、なんとなく察した次第である。あとは大奥様であるサマンサからの証言や使用人たちの情報交換で、ご主人様は奥様への愛が面倒くさいし、とてつもなく重いので注意が必要だ、というのがここ最近の使用人たちにできた新しいルールだった。


 準備の間、部屋を出入りするメイドたちは、チェルシーの支度部屋付近でウロウロとしているフレッドと何度もぶつかりそうになっている。今までだってこういうことは何度もあったから彼女たちは特に気にも留めない。動く観葉植物程度に華麗に躱していく。そういう状況で徐々に使用人たちはフレッドの想いの実情を知っていったというのもある。

 逆にフレッドもそんなメイドたちを咎めることはない。彼の意識はひたすらチェルシーに向いているから、チェルシーにさえ献身的であれば己に対してはあまり頓着しなかった。


「……お時間ですから参りましょう」


 メイドたちの心配をよそに、部屋に護衛が伝言に訪れた。無常にも出発時刻となってしまったらしい。


 * * *


 玄関ホールへと続く階段を、チェルシーは期待と少しの不安を覚えながら下りていく。


(皆は褒めてくれたけど、フレッド様は何て思うかしら……)


 どれだけ愛されていようとも、恋する乙女には不安がつきものだ。チェルシーはフレッドへの想いが募るほど、臆病な自分自身が存在することに気付いた。


 愛されていることは十分理解している。けれどこればかりはどうしようもなかった。



 玄関ホールで、既に用意を終えたらしいフレッドの姿を見つけた。護衛やハリスと何やら話をしているようでチェルシーに背を向けていて気付いていない。


 チェルシーのドレスと同じ素材の濃紺の燕尾服は、上背があり均整のとれた体型がより引き締まって見えた。その背に抱き付きたい衝動に駆られるが、なんとか抑えて彼に近付く。階段から続く絨毯で足音が消されていたとはいえ、気配を察したのだろう、振り向いたフレッドはチェルシーを視界に入れるや否や分かりやすく固まった。


「お待たせいたしました……っ!」


 声をかけたチェルシーも同時に息をのんだ。いつもは真ん中に分けられている髪が片方だけ後ろに流れていて、彼の秀麗な顔がよく見える。ドキドキと鼓動が早くなり、頬に熱が集まってきた。


 運命的な出会いのように暫し見つめ合う二人。勿論ここは舞踏会場になっている王城のメインホールではない。ただ玄関ホールで見つめ合っている、この屋敷の主夫妻だ。まだ外に出てすらいないというのに、どこかから輪舞でも聞こえてきそうな、そんな中。我に帰ったフレッドはチェルシーにゆっくりと歩み寄った。


 手を差し出せば、頬を染めたチェルシーもそれに気づいて、シルクの手袋をはめた手をそっと乗せる。小さく口を開けたフレッドが息を吸い込んだその時、


「さあ!遅れてしまうわよ!馬車に乗りましょう!まぁまぁ!チェルシーとっても愛らしいわ!さすが私の娘ね!ほら、フレッドもボサッとしてないで、行くわよ!王城に!王がお待ちよ!」


 手を叩くパンパンという音と共にサマンサの声が玄関ホールに響き渡った。ハリスはあからさまにホッとした顔をし、フレッドは僅かに顔を顰めた。母には思考がバレバレだったらしい。


 ――美しすぎるチェルシーを誰にも見せたくなくて、このまま寝室に引きこもろうと声をかけるつもりだったことに。

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