21.氷伯爵の噂
職業柄、もちろんそういうものはよく目にする。しかし今回は見てきた中でも、かなりのものであった。もしかしたら一番多いかもしれない。
小柄な若奥様の身体の前面は真っ新であったが、背中には複数の赤い痕があったのだ。本人に気付かれない背面を狙う辺り、歪んだ執着具合が窺える。誰にも渡さないという怨念すら感じるほどだ。
店主自身の経験上、こういった下着を新調するにはマンネリ防止であり、慣れてしまった味に投じるスパイスのようなものだ。煮えたぎる濃厚なスープに加えるのは多少危険な予感がする。いい意味で。
実際は新しく用意しなくとも大丈夫では……という言葉を店主は飲み込んだ。彼女は十二分に愛されている。もしかしたら背中の痕を見るに、旦那様の愛に気付いていない可能性が高い。
さらに愛される予感しかしないが、それはとても幸せなことだ。奥様は多少大変な目に遭うかもしれないが、見知らぬ旦那様ではあるが大層喜んでくれるはずだ。
「お疲れ様でした」
試着室から移動しながら、痕の件は頭から追い出す。ここからは職人魂が取って代わり、オーダーメイドでの製作の行程に切り替えた。採寸したサイズと見本を一つに纏める。
「ではこれでお願いね」
「畏まりました。お日にちですが、五日ほど……」
カウンターの中に入ったところで、店の外に先ほどまでなかった馬車が見えた。それと同時にその横に佇む男性を見て、店主は息をのんで目を見開いた。
店主の言葉が不自然に止まったことを不思議に思ったチェルシーは、彼女の視線の先を辿って振り返った。
「あら、フレッド様!」
店の外には何故かフレッドの姿があった。ランサム家の馬車に気付いて立ち寄ってくれたのかもしれない。
何の店かはショーウィンドウに飾られた商品から、入らずとも分かる。そのため外で待ってくれているのだろう。会いたかった人に会えてチェルシーの頬が緩んだ。
「ラ、ラ、ラ」
「え?」
様子のおかしい店主に再び視線を戻すと、真っ青な顔をしていて今度はチェルシーが目を見開く番だ。
「どうしたの!?」
「ランサム伯爵夫人でごさいますか!お呼び下さればお屋敷までお伺いに上がらせていただきますのに!わざわざご足労頂き申し訳ありません!」
一気に捲し立てられ、チェルシーは驚きながらも得心した。この女店主にはランサム家と名乗らなかったから知らなくて当然だ。しかしチェルシーとしてもこの後には伝えるつもりでいたので、時間の問題ではあったのだが。
「気にしないで。結婚前はこちらに直接買いに来ていたから、久しぶりにその時の気分が味わえて楽しかったわ」
「奥様……」
「それに名乗って買いにくるには恥ずかしいでしょう?」
浮かべられた柔和な笑みに、確かに……と思った。今までもお忍び風の高貴な女性は何人も訪れているが、そういう人たちは素性をしらないままだ。そうだとしても、ごく普通の商店街の店舗にとっては、伯爵家夫人は高位の存在すぎる。
(そういえば……)
店主は不意に思い出した。そういえば以前ケーキ屋の店員が話していたことがあった。
ランサム家の泣く子も黙る氷伯爵は夫人を溺愛していて、目に入れても痛くないほどだ、と。氷なんて最早、湯になっている、と。
まさか、と思っていた。騎士団のパレードで見かけたことのある、整ってはいるが冷ややかで無表情な伯爵がそんなはずないでしょう、と言い返したものだ。
彼女の背中の痕がなかったら、店主とて未だ信じられなかっただろう。なんせ当の伯爵は無表情で、ともすれば店に何か恨みでもあるかのように未だに店内を睨んでいるように見える。
「では、出来上がったらランサム家に連絡をくれるかしら?あ、皆には中身は内緒ね!恥ずかしいから」
恥ずかしそうに少し早口で、モジモジと言う姿は少女のようでもある。これは伯爵が溺愛しているのも納得だ。が、まだ俄かには信じがたい。なんせ店先の彼の眼光は国王の近衛兵よりも鋭すぎる。
「も、もちろんでございます。連絡してから参上します」
「楽しみにしているわ。よろしくね」
「はい!承知いたしました」
勢いよく頭を下げると、入り口へと急ぎドアを開けた。と、同時に伯爵と目が合った店主は、絶対零度の瞳とぶつかり冷や汗が流れた。今日は温かな陽気のはずなのに、空気がひんやりと冷たく感じて身震いをする。
(大丈夫。奥様への対応には何も問題がなかったはず。楽しく買い物をしてくださっていたわ)
店主が空唾を飲み込む。それと同時に明るい声で「フレッド様!」と呼びながら、伯爵夫人が外に出たその瞬間。
溶けた。本当に氷が溶けたのだ。
鋭い目元をトロリと緩ませて、僅かながら口角も上がっている。パレードの時と同一人物だろうかと疑いたくなるくらいに柔らかな表情をしていた。もちろん気温も上がった。
「ああ、チェルシー。馬車が見えたから、会えるかと思って待っていた」
「まぁ!嬉しいです!」
そう言いながら、足早に近寄ると腕に抱き付いた。彼は反対の腕で優しく髪を撫でている。突然出来上がった二人だけの世界。
店主は確信した。あの下着は大活躍をする。もしかしたらランサム家の次の世代への貢献につながるかもしれないほどに。恐れ多いが、なんて大役だろう。
絶対に最高の一品に仕上げようと心に決めた。
(レースは追加でつけて、リボンも生地を替えようかしら……。とにかく大至急、従業員で会議をしましょう。それと……)
仲睦まじい夫婦を目の当たりにして、アイデアが湯水のように湧いてくる。脳内があまりにも忙しくて、とっくに馬車が去ったことにも気付かなかった。
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