22.急激な温度の変化


胸に渦巻く黒い靄を抱えながら、フレッドは広い通りに出た。気持ちを切り替えて左右を見渡せば、ランサム家の馬車がすぐに目に付いて足を向ける。


従者にチェルシーの行方を尋ねると「奥様はこちらの店にいらっしゃいます」と停めた先の店を指さした。見上げれば店名では何の店かは分からないが、ショーウィンドウにならんだもので把握できた。


「……ああ、そうか。なるほど」


行き先が分からなかった意味を知る。それと同時に、さすがに店内に入るのは憚られた。


「旦那様、馬車の中でお待ちになりますか」

「いや、不埒な者が中に入ってしまわないかここで見張っている」

一瞬、驚きの表情を見せた従者は、それは女性物の下着屋の前で待ってるなんて恥ずかしくないですか?寧ろ主人が不埒な者に見られる可能性も……。と、いう心情だったのだが、彼もランサム家に仕えて長く、フレッドをよく知る一人であった。だから彼の言葉に納得して、それ以上は何も言うことはなかった。


フレッドはトルソーが着けている下着をあまり凝視しないように、それでも少し視界に入れながら、チェルシーの下着に思いを馳せていた。普段は清楚な彼女にとてもよく似合う白色を着用していることが殆どで、腕と膝下以外は隠されている。しかし店先に飾られている物は色鮮やかで明らかに面積が少ない。ここにチェルシーがいつも着けているようなものが売られているのだろうか?

チェルシーのことに関しては殆ど知っている。とはいえ彼女の好む服飾のデザインやデザイナーは分かっているとはいえ、下着の購入に関しては今まで考えたこともなかった。


(それでもチェルシーならば……)


どんな派手な下着だとしても、とても似合うだろう。……ではなく、何でも似合うに決まっているのだが、あれを着てベッドに横たわっていたら、正直抱き潰してしまうかもしれない。柔らかな印象のチェルシーと色鮮やかで露出の高い下着。アンバランスなようでとてもマッチするはずだ。いや、する。目の当たりにしたら正気でいられる気がしない。


(なんて恐ろしくも素晴らしい店だろう)


フレッドは店の場所と名前と外観をインプットした。


チェルシーが買いに来たということは、何か商品を屋敷に届ける可能性もある。その際に店の者と顔を合わせて、ショーウィンドウの下着と他におすすめを何点か購入を伝えたい。問題があるならばチェルシーに着けて欲しいと渡したら、気持ち悪がられるかもしれないということだ。

例え毎日フレッドが見ることになろうとも、チェルシーが嫌がることは本意ではない。


(待てよ。まさかあの男のために……?)


先ほど声をかけたコリンズ家の男の顔が過った。背筋に嫌な汗が流れる。


(いや、そんなはずはない。あり得ない)


チェルシーが今までラルフと接触したことなどないはずだ。頭を振って思考を振り払う。フレッドの脳裏を一瞬掠めた恐ろしい考えなんて、あるわけがなかった。


それでもあの男が先ほどの通りにいたのは偶然などではない。彼はチェルシーに会っている。……というのも、ラルフが言った台詞が引っ掛かっていた。


『母と私は開演には間に合わなかった』と言っていたが、そうすると上演が終わったあと親子で劇場付近にいたとしか思えない。その辺りでサマンサとチェルシーに会ったはずだ。だから母親同士が二人でお茶を飲んでいたのだろう。

もしかしたら会うより先にチェルシーが離れた可能性もあるが、フレッドを見るラルフの瞳が剣呑に光ったのを見て確信を持った。


幼き日のフレッドの懸念どおり、しつこくチェルシーの生家であるブラウン男爵家に求婚した男だ。早々に婚約を結んだのは、フレッドの人生の中で一番、自分を褒めてあげたい。そうでなければ、今頃チェルシーはあの男の元に嫁いでいたかもしれないと思うとゾッとする。

彼がパーティーで遠目にチェルシーを眺めていたのにも気付いていた。愛らしいチェルシーに鼻の下を伸ばしている他の男たちとは、似ているようで似ていない視線。


立場が逆になっていた可能性は大いにあった。遠くから眺めるしかできないのがフレッドで……。

ラルフは、あったかもしれないフレッドの姿だ。ただ彼より少しだけ早くチェルシーに出会って、素早く行動できただけのこと。


柔和なラルフの笑みを思い出す。彼の評判は悪くなく、むしろ交友関係も広い。適度に遊んでいるようだから、フレッドと違って女慣れもしている。チェルシーだってフレッドみたいにつまらない男より、ラルフのように話術に富んで物腰も柔らかい男の方が一緒にいて楽しいだろう。悔しいけれどフレッドにはできない芸当だ。


フレッドにとってチェルシーが幸せになることが一番であるが、一緒に過ごした思い出がある以上、なかった頃になんて戻れない。あの笑顔も、優しい声も、柔らかく温かな肌も全部、全部知ってしまったから。


はぁ、と重い溜め息が零れる。


チェルシーはラルフに会ってどう思っただろう。聞きたいが恐ろしすぎて尋ねる勇気はないが、もし惹かれてしまっていたら?そう考えるだけで目の前が真っ暗になる。どう見たってラルフの方が好ましいと自分でも思ってしまうだけに。


夫の座は勝ち取ったがラルフでもチェルシーの愛を得ることはできる。考えたくもないが。


もしフレッドがラルフであったなら、何としてでも繋がりを持ちたいと考えるはずだ。それにあのラルフの瞳は、未だチェルシーを諦めてなんかいなかった。


離縁は絶対認めないが、それに反発してしまい隠れて逢瀬を重ねないとも言い切れない。いつかフレッドに抱かれるのを拒否するようになるかも……。

想像するだけでどす黒い感情で一杯になる。フレッドの周囲の温度がみるみるうちに下がっていき、街ゆく人が下着屋を睨みつけている美丈夫を遠巻きにしていたことには気付いていない。


それも店からチェルシーが出てきた瞬間に解消されるわけだが。


温度が一気に上昇し、頭と尻に耳と尻尾が見えるようだと目を丸くしたのは、下着屋の前で異様なオーラを放っていたフレッドを店内からこっそり窺っていた隣の生地屋の店主だ。


彼だけでなく、店先で待たされていた飼い犬が、戻ってきた主人に纏わりつく姿を重ねた人は少なくない。

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