11.小さな恋の始まり

「チェルシーは舞台が好きなのだな」


 ボソッと呟いた主人の一言を、執事長のハリスは聞き逃したわけではない。

「そのようでございますね」

 その証拠に、彼はきちんと返事をした。が、しかし頭にはあまり入っていなかった。フレッドがサインを書いて振り分けた書類を丁寧に揃え、日付別に纏めながらそう答えていたから……、というよりはフレッドが執務室で妻の名を連呼し、話題にするのは日常茶飯事だからである。

 本人はいたって真面目に悩んだ結果、信頼の置けるハリスに漏らすわけで。それは光栄極まりないことだが、頻度が多いなんてものじゃない。だったら本人に聞いてみればいいのに、と思うが不器用な主人にはままならないのであろう。


 しかしここ最近、急接近した二人をみるに、もしかしたらこんな時間も終わってしまうのではないかと、寂し……くはなく、半分肩の荷を下ろしたハリスであった。



 ハリスはフレッドの父の代からランサム家に仕えていた。彼の父もまた、フレッドの祖父の代から執事を努めていて、屋敷の敷地内の離れにハリス一家の家もある。ランサム家との関係は数代にも遡り、一族の殆どがランサム家の使用人として働いている。


 彼が二十二歳のときにフレッドは生まれた。当時の執事長であった父からは、次期当主になるであろうフレッドに誠心誠意尽くすようにと言われ、専属となった。弟のようであり、息子のようなフレッドに仕えるべく執事としての経験を積んだ。


 幼い頃から美しく聡明なフレッドに仕えるのは誇らしかった。しかしあまりに完璧すぎて、身近なハリスだけでなく、伯爵夫妻やハリスの父も逆に心配することになる。もっと王族に近い一族や、厳しい家柄であったならフレッドの素質は喜ばれただろう。しかしランサム家はそうではなかった。

 大人たちはどうしたら子供らしくなるのだろう、と静かにソファーに座って本を読んでいるフレッドを横目に真剣に悩んでいたのである。やんちゃで人様に迷惑をかけるのも大変だが逆も親としては悩ましく思うなんて、その立場になってみなければ分からないことだ。


 フレッドと同じ年ごろの令息は身近にいても、頻繁に遊ぶほど仲良くはなかったし、令嬢に至っては愛想が悪く、触れ合いを避けるフレッドとは互いに歩み寄れるはずもなく。

 結果フレッドは本人の希望もあり、大人に囲まれた物静かな幼少期を過ごしていた。


 しかしそれはフレッドが十歳になった頃に突然解消された。ブラウン男爵夫妻が娘のチェルシーを連れて屋敷を訪れたのだ。

 久しぶりに子供が訪問する旨が伯爵からお達しがあると、使用一同は張り切った。男爵家が訪問するころには、シックだったランサム家のホールは色とりどりの花が飾られてカラフルになっていたほどだ。


「チェルシー・ブラウンと申します」


 男爵に伴われて訪れた令嬢は天使のように愛らしく、小さな手足で頑張って淑女の礼をとる姿にランサム家の大人たちの目尻が下がる。無表情で素っ気ないフレッドを怖がらなければいいのだけれど……。そう心配したハリスがフレッドを見れば、いつもは感情のない瞳が真ん丸に見開かれ、口もぽかんと開いていたので、ハリスの口も思わずぽかんと開いてしまった。我に返り慌てて引き締めたが。


(フレッド様!?い、今の表情は……?)


 フレッドもまた我に返ったのか、すぐにいつもの無表情に戻っていて、あの表情を目撃したのはどうやらハリスだけだったらしい。


「フレッド、天気もいいからチェルシー嬢と庭で散策でもしてきなさい」

「はい。お父様」

 いつもよりも返事が固いのは緊張からか。それでもこの時点まで、ハリスはフレッドが小さな令嬢に冷たく当たって、泣かせてしまわないだろうかと心配していたくらいだ。

 歩幅も合わせず、さっさと庭園を周ってはすぐに戻ってくるだろう。庭園のテーブルにお連れして、取り寄せていたぬいぐるみはその時にお出ししようと、フレッドに放置されて戸惑うであろう少女への気配りの算段を頭で立てていた。


 それはもちろん杞憂となる。


 屋敷にも使用人の子供がいて、親を手伝ったり裏庭など子供同士遊んだりしているのを見ているがフレッドがそこに加わったことはない。


 だからハリスは並んで歩く二人を少し後ろからついて行きながら、感動を抑えきれなかった。


(フレッド様が、手を……)


 他人と触れ合うことが苦手なフレッドが、あろうことか手を繋いで、小さな女の子の歩幅に合わせてあげている。会話もフレッドの声はあまり聞こえてこないが、チェルシーの楽しそうに質問する声や感嘆はしっかり耳に届いた。会話のキャッチボールも、些か比率が違うものの、それなりに成立しているようだ。


 やはり一人っ子だから、同じくらいの年の子供との交流の仕方が分からなかったのかもしれない。いくら大人びていようとも、まだまだ子供。遊び相手がいなくて寂しかったのだろうな、と思うが伯爵夫妻は漸く恵まれたのがフレッドただ一人で、そのことを言及できるはずもない。


(あっ……!)


 芝生に足を取られて、つんのめったチェルシーをフレッドが支える。思わず走り寄ったハリスはしっかりと見てしまった。そして知った。フレッドのその表情は恋するそれで、兄弟が欲しかったとか、そういう類いのものではないということに。


(フレッド様も普通の少年だったようだ)


 うんうん、と小さく頷いて納得する。あの初めて会ったときの表情は恋に落ちたそれだったのだ。


 こういう経験がフレッドを豊かにしてくれるだろう。小さな令嬢に心で感謝したハリスだった。が、その感謝が今現在まで続くとはこの時点では思いもよらない。


 色彩豊かな花壇の前で、見目麗しい子供たちが顔を寄せ合い楽しそうにお喋りをしている。絵画のようなその光景を、皆にしかと報告せねばと心に刻みながらハリスは少し離れたところからそれを眺めていた。


 しかし散歩から戻り、ベッタリとフレッドに張り付くチェルシーに恐縮する男爵夫妻に対し、

「僕も楽しいから、気にしないで下さい」

 と言ったフレッドも分かりにくくはあるがとても楽しそうだったから、ハリスの報告は不要なものとなった。

 伯爵夫妻も大層喜んだ。やはり子供の相手は子供が一番だと。


 和やかな食事会のあと、別れを惜しむ小さな二人をほのぼのと見ていたが、今になって思えば、この日でチェルシーの未来は決まってしまったのだ。

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