9.もう一枚の紙

「旦那様がこちらをお忘れになりまして……」

「本?」

 目の前まで来たハリスは分厚い本を手にしている。


「今、領境の仕事で使われている資料でございます。この件で先ほど騎士団本部へ出掛けられたのですが、これは多分必要なものかと」

「まぁ、フレッドが忘れ物だなんて本当に珍しいわね」

 そう言ってサマンサが手をハリスに差し出せば、その資料らしい本が乗せられる。


「小難しい本ねぇ」

 チェルシーが手帳を拾った時と違い、サマンサはなんのてらいもなくパラパラと捲る。本と手帳では違うかもしれないが、チェルシーならばフレッドが仕事で使う大切な資料だと聞かされたならば憚られただろう。


「あら?」

 声を上げたサマンサは捲っていた手を止めた。本の隙間から取り出したのは紙だった。

 チェルシーは玄関で拾った紙を思い出す。


(ま、まさかまた私のことが書かれて……?)


 自意識過剰だとは思うが、関連付けてしまうのも無理はない。

 かといって見ないでと言うのもおかしい。どうしてと聞かれるのは目に見えていて、ともすれば拾った紙を白状しなければならなくなる。


「あらあら!見て!チェルシー!」


 心で神に祈ったチェルシーは意を決してサマンサの差し出した紙を見る。


「え……??」

「懐かしい!あの子ったらこれを大切にしていたのね」


 そこには男の子と女の子が手を繋いで並んでいる絵があった。とても拙い絵で、子供が描いたのだろう。その絵の下には拙い字で『フレッドのお嫁さんになる チェルシー』と書いてあった。


「こ、このチェルシーって私……?」

 確かに小さいころ家庭教師から文字を習い始めた。読み書きできるようになって、手紙を書くことがとても楽しかったのを覚えている。


 しかしこの手紙(というかほぼ絵)は全く記憶になかった。


「フレッドが騎士団に見習いで入団する前に、チェルシーのお父様から贈り物と一緒に届いたのよ」

「お父様が?」

「そうよ。それまではお互いの家をよく行き来してあなたたちが仲良くしていたのに、ほとんど会えなくなってしまうんですもの」


 手元の紙に目を落とす。


『チェルシーは可愛いよ』


 不意に聞こえた幻聴。その声はまだ高くて、トーンがサマンサによく似ている。どうして忘れていたのだろう。


「わたし……小さな頃、フレッド様と仲良くさせてもらっていたのですね」

「あら、覚えていたの?小さかったから忘れられても仕方ないと思っていたのに」

「今、ふと思い出したんです。あの時の男の子とフレッド様は似ても似つかないんですもの」

 口を尖らせるチェルシーにサマンサはフフと穏やかに笑った。

「ふふ、あの子は昔から無表情でね。でもチェルシーと遊んでいるときだけは楽しそうに笑っていたのよ。今でも顔には出さないだけで、ずっとチェルシーを大切に想っているわ」

「そんなふうには全く見えなくって……」

「はぁ、本当にどうしようもない男だわ。ね、チェルシーがこの本を届けてあげたらどうかしら?」

サマンサはため息交じりであったが、突然名案とばかりに手を叩いた。


「私がですか!?」

「今日は何も予定がないのでしょう?フレッドが留守のうえハリスまでも出掛けるわけにはいかないわ。それに私は生憎お友達とお茶会があって忙しいのよ。お願いね」

 急な提案と、いつになく強引なサマンサにチェルシーは目を瞠る。

「そうです……けど」

 しかしそれこそチェルシーがでしゃばることではない気がする。


「愛しの妻が忘れものを届けてくれるなんてフレッドも喜ぶわ。それに帰りに二人でデートでもしてらっしゃい。私、二人が仲良くしてくれるのがとっても嬉しいの」

「……デートですか」


 なるほど、サマンサは昨晩二人の距離が少し近付いたことに気付いて喜んでくれているのだ。確かに無口、無感情のフレッドと、冷めた対応をしているチェルシーを見ているのは心苦しそうだったから。しかも昔は仲の良かった二人とあれば尚更だろう。


 チェルシーはサマンサが大好きで関係も良好だ。愛されて育ったものの、気の強い実母には萎縮してしまっていたが、サマンサはおっとりとしてチェルシーを包み込んでくれる優しさが心地よい。だから少しフレッドとの距離が近づいただけで、こんなにも喜んでくれるのは嬉しい。


「どう?行ってくれるかしら?」

「もちろんです。直ぐに身支度を整えてまいります」

「うんとお洒落していくといいわ。じゃあ、これ、お願いね」


 そう言ってサマンサは難しそうな本をチェルシーに手渡して、刺繍を再開してしまった。


 日が落ちればフレッドは帰ってくるのだが、彼に会うのはどうも気恥ずかしい。それでも一緒に暮らしている以上、そんなことも言っていられないから、会う口実を与えられて正直ありがたい。一度会ってしまえば、この照れくささは消えるはずだ。


「ありがとうございます。行ってまいります」


 色んな意を込めたことに気付いてくれたらしく、サマンサは満足げに頷いて手を小さく振った。


 きっかけを作ってくれたサマンサに感謝をしつつ、チェルシーは着替えるために自室へと戻った。

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