8.遠い日の記憶

 思ったほども時間が経っていなくてホッと一息ついたチェルシーは、それでも寝坊したことに変わりはなく。いつもはメイドのマリーか他のメイドが起こしに来てくれるのに、今日に限っては誰も声を掛けてくれなかった。


 チェルシーは自分一人でも着れる簡単なワンピースを着て部屋を出る。もちろん行き先は洗濯場だ。出来ればシーツは自分で洗いたかった。

 小さい頃におねしょをした以来、いやそれよりも羞恥が勝る。確認してはいないが、昨晩の粗相疑いとそれだけじゃない色んな液体が付いているはず。

 ——しかも嫁ぎ先で。なんという気恥ずかしさだろうか。



「おはようございます。お加減はいかがですか?」

 廊下を少し歩いたところで背後から声をかけられ、シーツを抱えていたチェルシーは飛び上がる。振り向くとマリーがいた。

「お、おはよう、マリー。どなたかが私の体調のことを?」

「旦那様からの伝言で、奥様がよく寝ていらっしゃるから起こさないようにと」

 だから誰も起こしに来なかったらしい。確かに有難かったが、フレッドにそう気遣われるほど熟睡していたなんて恥ずかしすぎる。しかしマリーは特に気にしたふうもない。

「そうだったのね。それよりもフレッド様はもうお出掛けになられたかしら?」

「はい。少し前に珍しく慌ててお出掛けになりました。……と、それはシーツですか?」

「あ、そうなの。お洗濯をしたくて……」

「まぁ!言っていただければお部屋まで伺いましたのに。身の回りのお世話は私どもの仕事ですよ」

 チェルシーの持っているシーツにマリーは手を伸ばすが、いくら仲の良いメイドといえどもこれを手渡すのは憚られた。仲の良いからこそ、かもしれない。


「あ、あの、だって、その。昨晩、汚しちゃったから……」

 頬を染める愛らしいチェルシーに、マリーはにこりと微笑んでみせた。

「ふふ、大丈夫ですよ。旦那様の寵愛を受けるのは奥様しかできない大切な仕事です。ならばそれを洗うのは私たちの仕事ですから。気になさることなんて何もないのです」


 分かるような分からないような。それよりも寵愛とは?そんな関係にはほど遠いはずだけれど。


 しかし優しげな眼差しを向けられて、チェルシーは大人しくシーツを渡してしまった。


「その、ごめんなさい……」

「そんなこと仰らないで下さいね。では失礼いたします」

「よろしくね……」


 居た堪れなくなってしまったチェルシーは、気分転換に庭を散歩しようと玄関に向かうことにした。少し外の空気が吸いたくなったのだ。



 いつかフレッドの手帳が忘れられていたベンチには、義母のサマンサの姿があった。ちょうど今の時間は木陰になっているので、そこで刺繍をしているようだ。

 思えば手帳を拾ってからだ。こんなにも感情が忙しくなってしまったのは。しかし今日はあの日と違ってとてもいい天気だった。


「おはよう、具合はいかが?」

 サマンサはチェルシーに気付いて、針を持つ手を止めて微笑んだ。

 どうやら皆、チェルシーの体調不良を知っているようだ。しかし理由を知られているならこれほど恥ずかしいことはない。だってチェルシーはまだ若く、開き直れるほども生きていない。

「お母様おはようございます。あの、今朝は旦那様のお見送りができなくて申し訳ありません」

「いいのよ、そんなこと。それよりもあの子、今日は寝坊しててね。つい先ほど慌てて出て行って、本当に珍しいものを見れたわ。寝ぐせがついているのも気付いてないほどよ。いつもは憎たらしいほどに整えているのにね」

 おほほと笑うサマンサは、基本息子に対して辛辣である。しかしフレッドが起きたことにすら気付かなかったチェルシーは何も言えなかった。


 確かに毎朝キッチリと身なりを整えているフレッドに寝ぐせは想像もつかない。さすがに昨晩はフレッドでも疲れたのだろうか?そんなことを思えば、昨晩の別人のような彼を思い出して頬が熱くなる。


「チェルシー?寝てなくても大丈夫なの?」

 サマンサはベンチの端に移動してから手で座るように促したので、彼女の隣に腰を下ろした。

「いえ、本当に大丈夫です。ご心配をおかけしました」

 曖昧に笑って誤魔化すチェルシーに、

「本当にチェルシーは可愛らしいわね」

 とサマンサは目尻を下げて言った。


「可愛い……ですか?」

 思わず聞き返してしまったチェルシーに、目尻の皺を深めておっとりと微笑んだ。

「もちろんよ。小さい頃から知っているチェルシーだもの。実の娘のように思っているのよ」

 メイドのマリーが自らの娘に向けるのと同じ目をしてサマンサはそう言った。


 ——ではフレッドも?


 彼とチェルシーは4歳差だ。きょうだい程の差しかないが、兄としてチェルシーを可愛いと思ってくれているのだろうか?


 チェルシーには弟がいてそれなりに可愛がってきたが、同じようにフレッドが可愛がってくれているようには思えない。会話も続かないし、なにより避けられているとすら感じるのだから。けれど妹のように思われているのならば、昨晩はさて置き、義務程度の夜の誘いには納得できる。チェルシーだって弟と思っているような人物と、そういうふうになるのだとしたらなるべく回数は避けたいし、普段は気まずくすら思える。


「フレッド様も妹のように思ってくださっているのでしょうか」

「妹?まさか!」

「え?」

 驚いたように声を上げたサマンサに、チェルシーもまた驚いた。

「あの子は一人っ子だし、表情も固くて何を考えているのか親の私ですら分からないけれどそれはないわ。チェルシーを女として妻として想っているのは知っているのよ。昔からね」


 サマンサの言葉に固まった。まさか。


「では、もしかして女として可愛いと想われているのでしょうか?」

 自分で言って、とても恥ずかしいが後悔してももう遅い。

「当り前よ!もう、チェルシーを不安に思わせるなんて本当に情けないわ」

 しかしサマンサの言葉はハッキリとした肯定で。


「そんなこと初めて知りました……」

 呆然と呟くようなチェルシーを見つめてからサマンサは立ち上がり、テーブルに置かれたポットで自ら紅茶を注いだ。透き通った茶色の液体が、花柄のティーカップに注がれるのをただ呆然と眺める。

 目の前に湯気にふわりといい香りを乗せたカップが差し出された。


「申し訳ありません!お母様にそのようなことを……!」

 我に返ったチェルシーが立ち上がるのを手の平で制した。

「いいのよ。あなたがこの家に来てくれた、それだけで私もあの子も嬉しいの。もっと我儘を言ってちょうだい?」

 にっこりと笑ってウインクするその様子に懐かしさを覚える。あまり記憶にないもののそれだけで、幼いころからこの伯爵家との交流をあったことの証拠でもあった。

 この表情を幼い時にも見ている。あの時は確かにフレッドの父もいた。


 横に立つ少し背の高い男の子。チェルシーよりも少し大きな手のぬくもりは誰のもの?

 その手が大好きだった。繋いだまま遊ぶには片手では不便だったけれど、離さずにいた遠い記憶。


 何か思い出しそうでできない。


「あら?ハリス?どうしたの?」

「大奥様!実は……」


 チェルシーの思考はサマンサとハリスの声に遮断された。

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