4.御曹司遊興に耽り人妻を誘い、英雄前途に影が差す事

 ジョンは、日々退屈していた。この都に住まう金持ちの御曹司なら、珍しくもない事ではある。その退屈を紛らわす為に、色々な事をやった。浮浪者を甚振った事も、女を引っ掛けた事も。それでも、退屈は紛らわせない。

 

 そんな気だるげな思いを抱いて、町を歩いていた時だった。町を歩く、一人の女を見つけた。栗毛の髪が、風に揺れている。白い質素なドレスが、髪の艶を増している様に見えた。白い肌に、とび色の瞳。薄桃色の唇が、艶めかしく陽の光に煌めく。一瞬で、ジョンは彼女に狂わされてしまった。


「美しい」


 思わず、呟いていた。取り巻きの若者達が、その言葉を聞いて口々に言った。


「確かに、あれ程の美女は見た事が無い」

「若、どう致します。声をかけますか」

「おう。いや、お前達は行かなくていい。私自ら行かねばなるまい」


 そう言って、ジョンは大股で彼女に近づいていく。彼女はジョンが近づいて来るのに気が付いて、僅かに緊張した様子だった。


「やあ、お嬢様。今日はいい天気ですねぇ」

「そ、そうですわね。何か、私に御用ですか?」

「御用……そうですねぇ。貴方の様な方と、お茶でもと思ったのです。人生は短い。華のある日は更にだ。どうです」

「……申し訳ございませんが、私は既に夫のある身です。その様な」


 彼女はそう言い、この場を去ろうとする。その手を、ジョンは強引に握り引き留める。思わず、痛いと声が漏れた。単純な腕力ならば、レオパルドの方が余程強い筈だった。それでも、彼はこんな無遠慮に彼女の手を掴みはしなかった。


「なんという事を。この花の都、その様な事を気にする者などおりません。貴方程美しい方が、その美しさを無駄にしようとしている。貴方の美しさは永遠では無いのですよ。恋をせねば、勿体無いというものではありませんか」

「こ、困ります。私はその様な事をするつもりはありません」


 彼女は頑なに断った。その頑なな態度が、却ってジョンの心を燃え上がらせる。それに気が付ける程、彼女は男の事を知らなかった。彼女のよく知る男といえば、報国の志に燃え戦場に身を置き続け、遂には杖無しで歩けなくなった父、そして武の道を極め、それを伝える事にその情熱を傾け続ける不器用な夫。どちらも、この都の中にはほとんどいない様な男だった。


 ジョンはなおも食い下がる。彼女の近くにいた召使いらしい男は、取り巻き達に追い払わせた。彼女の美しさを褒め称え、また男女の楽しみというのを説き続けたが、それでも彼女は首を縦に振らなかった。そうしている内に、辺りに怒声が響く。


「何をしているか、貴様!」


 その声に、ジョンは思わず飛び上がった。彼だけではない。取り巻き達も皆、雷に打たれたように茫然と立ち尽くす。彼らがこれまで味わった事の無い威圧感が、その横っ面を叩きつけていた。唯一、エルフェルトだけが言葉を発する事ができた。


「だ、旦那様」

「エルフェルト、何があった」


 大股で、男が近づいて来る。この女性の夫だというのは、どんな愚か者でも分かる事だった。


「い、いえ。何という事はありません。ただ、こちらの方に少し声をかけられて、困っていただけで」

「き、貴様! 貴様、このお方をどなたと心得るか!」


 取り巻きの一人が、震える声で何とか絞り出すように叫ぶ。男は叫んだ取り巻きをぎろりと睨んだ。その視線を浴びるだけで、彼は失禁しそうな程の恐怖を味わう。それでも、自分が縋っている権力の力を信じた。


「貴様、分かっているのか! このお方は、王国守護軍長官、ウォルター閣下のご子息であるぞ!」


 その言葉を聞いて、他の取り巻き達の内の何人かも元気を取り戻した。目の前の男が誰かは分からないが、この都でウォルターという名前に恐れを抱かぬ者など居ない、そう信じていた。


「そうだ、何処の馬の骨か知らんが、無礼であろう!」

「本来なら貴様など、言葉を交わす事さえ恐れ多いお方であるぞ!」


 しかし、取り巻きの中でただ一人、なおも震えている男がいた。その男は仲間達が調子づくのを黙って見ていたが、一人の仲間が剣を抜こうとしたのを慌てて止める。


「待て、お前、何考えてるんだ!」

「何? この痴れ者を斬ってやる、その位の罪を犯したのだ、このバカは」

「相手を考えろ、無理だ!」

「……貴様、思い出したぞ。二ヵ月前まで俺の所にいたな。上から命令が来て、ロックの所に移って行ったが」


 男のその言葉に、取り巻き達の顔色が変わる。ジョンは彼が現れてから、ずっと青い顔をして黙っていた。彼と、あの取り巻きの一人だけが、目の前の男の顔と名前を一致させる事が出来ていた。そして、単純な腕っぷしならここにいる男達全員が一斉にかかっても、絶対に勝てない事も悟っていた。


「ま、まさか」

「斬ろうというのなら、好きにしろ。抜く度胸があるのならな。喧嘩でなく正式に決闘を申し込むなら、それも良かろう。どうする? 俺はどちらでもいい。どちらにせよ、死なない程度に加減はしてやる」


 レオパルドは、そう言いながら静かにジョン達の方に歩み寄る。その余りの迫力に、ジョンは失禁しそうにさえなった。震える声で、何とか彼に弁解をしようとする。


「す、すまんな、レオパルド卿。お前の細君とは、知らなかったのだ」

「ジョン閣下。申し訳ございませんが、我が愚妻は“そういう事”に疎うございますれば、御不興を被るだけかと。本日の所は、これにて失礼させて頂きたく」

「う、うむ……で、ではな」


 それだけ言うと、ジョンは逃げるようにその場を去っていった。取り巻き達も慌ててそれに続く。彼らの姿が見えなくなった所で、レオパルドは大きく息を吐いた。エルフェルトが、その胸にもたれかかった。


「ありがとう、ございました。私、どうしたら良いか分からなくて」

「何もされなくて良かった。今日はもう、帰ろう」


 その二人の背に、声が浴びせられる。


「おう、昼間から見せつけてくれるな」


 振り返ると、ロータスが笑いながら立っていた。レオパルドは苦笑しながら言葉を返す。


「ロータス、からかうのはよしてくれ」

「すまん、すまん。気になって追いかけて来たんだが、大変だったな。しかし、お前さん達、大丈夫か?」


 そう言って、ロータスは腕を組んで何か考え込む。その様子が、レオパルドには気になった。


「大丈夫か、とは?」

「あれが、ウォルターのバカ息子なんだろう? 腕っぷしならお前さんが負ける筈も無いが、相手には権力がある。そして多分、悪だくみの才能もな。ああいう手合いは、それだけは上手いものだ」

「奴が、何か復讐を企むと?」

「欲深く、そして無駄に誇り高い連中だ、そうだろう? お主には復讐を、そして奥方には色欲の手を伸ばすだろうさ」


 そう言われて、確かに嫌な感じはした。逆恨みを買ったかもしれない。ウォルターという男が、恨んでいる相手をどうするかをレオパルドは目の前で見せつけられていた。キロンがここを去って、一年以上経っている。ジョンが自分を逆恨みし、そしてウォルターに泣きつけば。十分、考えられる事だった。


「……確かに、そうだ」

「私の為に、旦那様が何かされるかもしれない、と?」


 エルフェルトが不安気に訊く。ロータスは難しい顔をして、小さく頷いた。レオパルドは不安を追い払う様に頭を軽く振って、口を開く。


「しかし、してしまった事だ。それに、私には後ろ暗い事も無い。大丈夫だ。お前は、何も心配しなくていい」


 その言葉は、エルフェルトに聞かせるでも、ロータスに説くでも無く、自分自身に言い聞かせてのものだった。

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