強くてニューゲーム
蓮の印象にあるのとは少し違う季節が数回廻ったころ、蓮は施設を世界の全てのように感じていた。相変わらず他人の痕跡は無かったが、それほど問題ではなくなっていた。アーカイブは、映像、書籍、ゲーム、Webのデータ、ほぼ無限の娯楽を提供する。もしかするともともとインドアで過ごすことが多かったのかもしれない。
記憶と人の喪失感よりも、目的のない日々への虚無感を感じる蓮。それを埋めるように趣味にのめりこんでいった。趣味と言っても仕事があるわけではなく、蓮が半ば強制されて毎日行っていることはナノドラッグの投与だけだった。リストバンドは半日以上ナノドラッグを投与しないでいると警告表示に次いで、電撃を与えてくるのだ。
老いることなく高等遊民のような生活を送る蓮は、いつしか常人とは異なる時間感覚の中に生き始めていた。移ろいゆく季節と、少しずつすり減っていく建物。劣化が一定に達すると、自動メンテナンスにより新品に交換されていく。それらを横目に変化しない蓮の身体。
蓮は、最初の数十年を、なんとなくやりたかったこと、見たかったものをひたすら見て過ごした。終わらない夏休みのような生活。しかし、徐々に蓮の心を動かすものは減っていった。どんな作品でも、最初の5分だけで、結末も、蓮自身がどう感じるかも予想できるようになってしまった。アーカイブ内では、2040年頃までは作品が爆発的に増えていたが、それ以後の時代、娯楽と呼べる水準のものはほぼ0だ。全てが過去の焼き直しに見えるが、新作が出ることは無い。
新たな情報は、自ら産み出すしかない。そう結論した蓮だったが、最高級に目が肥えてしまった蓮は自らの稚拙な第一歩に耐えられなかった。
ナノドラッグはそんな蓮にも救いを与えた。脳可塑薬。人間の記憶と認知は脳内のシナプスの結合で構成されているが、その結合を柔軟にすることで学習能力を大幅に高める―全てを貪欲に吸収する子供のように。副作用として過去の記憶は曖昧になる。説明文は数十ページにも及んでいて、論文のようだった。
蓮は脳可塑薬を《アセンブラ》での検索中に偶然発見した。なぜこのような異質な薬品が日用品に紛れ込んでいるのかはわからないが、次第に精彩を欠いていく生活の苦痛は、記憶の忘却という副作用に打ち勝った。取り寄せたそれは、普段のナノドラッグと色が違うだけの、簡素な容器に入っていた。
投与して一か月、蓮の世界は輝きを取り戻していた。目に映るすべてが解き明かされるべき謎で、冒険だった。時たま頭に思い浮かぶ音を口ずさんでいた蓮だったが、満足できなくなり楽器を次々取り寄せる。蓮は《アセンブラ》にグランドピアノを見つける。どうやって届くのか訝しみつつボタンを押すと、壁全体が赤く光って部屋を追い出された。ドアには配送中の文字が浮かぶ。半日後には何事もなかったかのように扉は開き、ピアノが鎮座していた。
蓮にとって、アーカイブの楽曲はすべて超えられる壁だった。動かない目標を着実に超えていく。この世界には、作品を誉める人はいないが、貶す人もいない。十年、二十年と時が過ぎ去っていくなかで、蓮は奏でた。最高の音色を、旋律を、律動を。蓮は音と調和していた。
しかし、蓮と音楽との蜜月は永遠には続かなかった。アーカイブには人智を超えた大量の情報が蓄えられている。最初はそれらを貪欲に、作品に昇華させていた蓮だったが、いつしかほとんどを遠ざけるようになっていた。ひとつのジャンルをやりきって、別の場所に向かう。そこから過去を振り返るといつも朧げに見えた。
人間の脳の限界なのか、何かを失わずに何かを得ることはできなかった。蓮は揺れ動く中で、いつしか完全なバランスに至る。全てが均等に正しくて、間違っていて、新たな感情を生み出すものは何もない。
蓮は、惜しみながらも再び脳可塑薬に身をゆだねた。
外界では、相変わらずロボットが人の集落を襲っていて、為政者の移り変わりらしきものはあっても、文明の発展の兆しはない。目まぐるしく変わる季節を超えて、地形がゆっくり変化していくのが蓮には見えていた。代謝を10年単位で繰り返す施設と、変わらない蓮の身体。
大きな流れに浮かぶ葉のように、蓮は時代の中にぽつんと浮かんでいた。
こうして、蓮は数百年の時を過ごした。各サイクルで、言語学を、数学を、…を、極めながら。
アーカイブは蓮の作品も淡々と記録していた。ささやかな、人類の最高到達点の数々を。
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