《20-2》

 十メートルほど先に立つ葛升かつしょうが、不快げに表情を歪めている。


「せっかくそのガキをさぁ、俺様と「同類」にしてやろうと思ったのによぉ。そうすりゃぁ、もぉっとイイ感じの顔が拝めただろうになぁ。あーやだやだ興醒め興醒めぇ」


 その言葉に、常春とこはるはキッと睨みをきかせた。


「ふざけんなよ。お前……それでも人間かよ」


「そうだよぉ? むしろぉ、人間だからこそ、と言えるねぇ。人間は他の動物と違ってぇ、同族をイジメてぇ快感を得られるんだよぉ。その快楽の強さたるやオーガズムにも匹敵するというぜぇ? だからイジメってのは絶対になくならないよぉ? 勉強になったねぇ、パチパチパチぃ」 


 手を叩いておちょくるみたいにそう言い募る葛升に、常春は内の怒りをさらに燃やす。


「人類の美しき文化「イジメ」ってなぁ、オキシトシンっつぅホルモンによって引き起こされるってぇのが最近の定説みてぇだなぁ。もともとちっぽけな猿でしかなかった人類が、他の個体と力を合わせて難局を打開するために生じたホルモンだぁそうだがぁ、コミュニティを重んじるあまりぃ、そっから外れた「異物」を叩き出したい欲求まで生じさせちまったぁ功罪併せ持つホルモンだぁ。……すげぇよなぁ。たった一つの物質がよぉ、人類なんていう牙も爪もねぇ下等生物に地球の天下を取らせちまったんだからよぉ。オキシトシンがなきゃぁ、今でも人類はぁ、熊やライオンにイモ引いてるだけの毛無し猿に過ぎなかったんじゃぁねぇかなぁ」


 いきなり話の方向が変わる。


「さらに、人類を含む哺乳類動物のメスが持つ「胎盤」は、ウイルス感染によって出来たモンだとぉ最近じゃぁ言われてんなぁ。超大昔に存在した哺乳類の御先祖様はぁ、「卵を産むネズミ」だったらしいぜぇ。そのネズミがレトロウイルス——ヒト免H疫不全IウイルスVのように逆転写酵素ぎゃくてんしゃこうそを持ったRNAウイルスに感染し、ゲノムが変化し、それによって次世代で「胎盤」を獲得したんだとよぉ。これによって、産み落とした卵を食われるリスクが無くなったんだってさぁ」


 そろそろ苛立ってきた常春は、それを言葉にした。


「何の話だっ? さっきから何が言いたいんだ、お前はっ!」


「察しの悪ぃガキだなぁ、ちったぁ頭使って考えろやぁ。やれやれぇ、日本の学校教育は大失敗だなぁ。つまりぃ、俺様が言いてぇのはさぁ…………体ん中に入れた物質次第でぇ、生物はどこまでも「進化」できるっつぅことなんだよぉ。知恵の実を食らって善悪の知識を得たアダムとイブも、そういう感じなんかもしれねぇなぁ」


 葛升は、持っていた刀を横へ投げた。廊下の壁に刀身の半ばほど突き刺さる。


 自らのアドバンテージを捨てる行為に、常春と随静ずいせいは眼を見開いた。


「勘違いすんなよぉ。別に降参したわけじゃねぇ。「ハンデ」を外しただけだぁ。もうテメェらの顔なんざぁ見飽きたんでなぁ。……本気でゲームセットにさせてもらうぜぇ」


「何っ……」


 随静は目を見張る。


 ——今までは、本気ではなかった?


 葛升は、両拳を脇腹に引き、腰を深く沈下させた。山のごとく磐石な中腰。


「光栄に思いなぁ。『精忠五侯せいちゅうごこう』の「真の力」をその目で見れるんだぁ。良い土産話になるぜぇ? ——フゥッ!!」


 ずん!


 しっかりと床を掴む葛升の両足を中心に、一瞬、大きな振動が起きた。


 ——いや、違う。


 この振動を起こしたのは、葛升ではない。


 他ならぬ、常春と随静だ。


 石蕗常春つわぶきとこはる藩随静はんずいせいという人間の持つ、生物としての本能が感じさせた「錯覚」。


 目の前に「大いなる驚異」が生じつつあることへの、本能の警鐘——!


 それを裏付けるように、葛升の体に「変化」が起こった。


 ほどほどに焼けた、肌色と小麦色の中間くらいであった皮膚の色が——


 ひっ、と喉を鳴らす常春をよそに、その白化はさらに進む。


 陽の光を日常的に避けている女性のような白さ。

 血の気を失ったような白さ。

 もはや生命を感じられない石膏じみた白さ。


 そこで皮膚の白化現象は終わる。


 かと思えば、次の「変化」が訪れた。


 ぼくんっ!!


 葛升の胴体、四肢、首に至るまでの周囲が、いきなり倍近く膨れ上がったのだ。


 ぼくん! ぼくん! ぼくん! 


 脈動するように肉体の膨張は続いていき、やがて止まった。

 全長は二メートルを優に越えていた。着ていた白スーツは短パンじみた破れ方をしたスラックス以外全て無惨に大破して、細かい布切れと化して宙を舞っている。


 さらに、メキメキ、ゴキガキ……という痛々しい軋み音を身体各所から漏らしながら、膨れ上がった肉体がさらに細かく形を変えていく。


 脚部が太く、鋭い形に変化していく。

 スラックスの尻を突き破り、細長い尻尾が鋭く伸びていく。

 背中が円みを帯びていく。

 

 ——葛升のそんな「変態」の一部始終を、常春と随静はただただ唖然として見ていることしかできなかった。


 目の前には、紛う事なき「怪物」がいた。


 肌の露出した部位すべてが、くまなく石膏じみた「白」に染まっている。

 馬に酷似した強靭な脚部。スラックスの臀部を突き破って生えた細長い尻尾が、尻近くでわらびのようにロールを巻いてまとまっていた。

 背中は弓のごとく弧を描いている。肩のラインが異様に広く、腰が異様に細いという、あからさまな逆三角形。

 そんな化け物同然の体から生えた葛升の顔は、目鼻立ちと稲妻模様の痣そのものは変わっていない。しかしその瞳は、黄金色の虹彩と縦線状の瞳孔という、蛇じみたものとなっていた。

 

 何から何まで異様なその生物は、大きく息を吸い込むと、


「————グゥゥォぉォァぁアアああアあァァぁぁァァァぁぁぁァァぁァァぁぁァァァぁ!!」


 とうていヒトのものとは思えない、獣じみた咆哮を響かせた。


 ビリビリと肌が震える。それは咆哮そのものの振動であり、本能が訴える危険信号でもあった。


「な、なんだ……「アレ」は……」


 常春は震えた声でそう独りごちた。


 ……人間が、化け物になった。


 まるでアニメだ。バトルアニメの敵キャラの、強化変身のようだ。


 そんなことが、今、目の前で起きてしまっている。


 常春は、いや、きっと随静も分かっている。


 ——根拠は無いが、今の葛升は先ほどまでとは比べ物にならないくらい強くなっている。なんとなく、それが分かる。


 あんなのに……勝てるのか? いや、そもそも、自分達の技が通用するのか……?


 しばらくして咆哮を止めると、怪物と化した葛升は、その縦線の瞳孔を常春達へ向けてきた。


「ナんだィ、ソノ化け物デも見ルよぉナ顔はよォ」


 金属の擦れる音を連想させる、歪んだ声。


 常春は腹に力を入れて体幹の震えを押さえながら、低い声で返した。


「……化け物は、今のお前だろ」


「はハっ、違ェねぇ!!」


 ウはははハハハははハはハはハハハハはハハハはは!!


 歪んだ笑い声をひとしきりぶちまけてから、葛升はその真っ白な顔をニタリと微笑させた。その微笑もまたおぞましい。


「サっキも言ッたロォ? 生物はァ、体ノ中に入レタ物質にヨッて「進化」スるっテよォ。——コノ姿モなぁ、そウして得タ「進化」なノさァ」


「進化、だって……?」


「そウ。——『求真門きゅウしんもン』は、本物の不老不死デあル『真仙シンセん』ヲ追求すル門派。ソのタメに研究しテイルのハ武功だけジャぁネぇ。体ノ中に入れテ体質を変化さセるたメのォ「丹薬タんやク」ノ研究も進メてンだァ。だガなぁ、こイつがマタ危険ナ代物でネェ。悠久の中華史ノ中デ、先人は不老不死ヲ夢見テイクツも丹薬ヲ作っテは飲ミ、そシテいくつモの死骸ヲ作っテきたァ。そのウチィ、犠牲とコストの割ニ成果ガ出ねェというこトでェ、不老不死ヲ追求しテイた先人達ハぁ丹薬を作らなクなったんだァ。そレから数百年経って、新タな不老不死探究組織『求真門』が誕生ォ。昔よりも遥かに進歩シた科学にィ、ゴミみてェニ溢れカエった人間モるモッと、ソシて莫大ナ資金。そンナ恵マれた環境デ「丹薬」の研究ハ再開さレぇ——そして完成しタものノ一つにィ『転命珠テんメイじゅ』ってノがあル」


 純白の怪物は、怪物じみた笑顔のままブルリと身を震わせた。まるで過去の苦痛を思い出したように。


「だがナぁ、こいツがなかナカエグいもんだったよぉ。最初ニ飲んダ奴ァ、イきナリモノスゲぇ苦シみダしヤガッてヨぉ。「アぁ、ヤッパ丹薬ハ無理か」と、俺様含メ誰モがソウ思っタダロウネぇ。ケどナァ——無意味じャぁナかっタンだヨ」


 鉄の擦れ音じみていて、なおかつ抑揚の激しい声でつむがれるその説明は、集中して聞かないと意味を解せなかった。


「『転命珠』ノ最初の被検体ヲ隔離室に閉じ込メぇ、そノまマ数時間待ッて、もウ一度様子を見に行っタ時ダぁ。——ソノ被検体が、「変態」シてヤガったノさぁ。肌は石膏みテぇな白一色に染マリ、体の形ヤ骨格にも非人間的な変化が現レてヤがっタぁ。そしテさらに待ッテ、『転命珠』接種から一日経ッた後……ソノ被検体は苦シマなクなり、むシろ飲む前ヨリも活力に満ち、そシて格段に強くなっテいやガったヨぉ。——今の俺様みてェにナァ!」


「何っ……!?」


「『精忠八侯』ハ皆、そノ『転命珠』を飲ンデんだァ! そシテみンなこノ姿——『白猴びャっこウ』に変身すルことガでキルわけサぁ!」


「白、猴……?」


 常春の狼狽した声に、葛升は答えた。「そウさぁ、『白猴』。『精忠八侯』ノ「侯」とォ、『白猴』の「猴」ハァ、中国語じャ同ジ発音でナァ。だカらサルってイうのハ出世を象徴スる獣だトいう考えが中国ニハあルのさぁ。……ま、これは単なル発音合わセでェ、あンまリ重要じゃァねェがァ、たダひとツ言えるコトはァ——こウなっタ今の俺様はァ、今マデの俺様トは違うッテことだァ!」


 葛升がそこまで述べた次の瞬間、その純白の巨体から——を点滅させた。


 何だあれは。光っている……常春はその不可解な現象に目を見開いた——時だった。




 白い閃光が、常春の隣を光速で横切った。






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 ※逆転写酵素とは、mRNA (メッセンジャーRNA。タンパク質の設計図のようなもの)からDNAを作り出す酵素のことです。

 この逆転写酵素がない限り、mRNAからDNAが作られることはありません。

 「DNA→RNA→mRNA→タンパク質」という一方通行のプロセスでタンパク質は作られていきます。この一方通行の原則を分子生物学で「セントラルドグマ」といいます。

 ちなみに「mRNAワクチン」では、逆転写酵素は使われておりません。なので「ワクチンによってウイルスの遺伝子が人間のゲノムに組み込まれる」というのは真っ赤なデマです。

 また、mRNAワクチンの開発期間の短さを懸念する声もありますが、このワクチンの研究は二十年前からされていたものなので(最初は「癌治療薬」として研究していたとのこと)、基礎の積み重ねもしっかりあります。


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