《18》

 話は、昨日——五月二十三日の夕方にまでさかのぼる。






 馮英璘ひょうえいりんは、とある武侠結社の末裔まつえいであった。


 清朝末期、朝廷の度重なる失策と戦争での連敗によって、中華最後の王朝たる大清帝国は列強国に貪り食われていった。中華にとって最も屈辱的な時代の一つであった。


 そんな中華の危機を救わんと立ち上がったのは、革命家や秘密結社、そして『武林ぶりん』の者達であった。


 武術家はいくつもの武侠結社を作り、腐った王朝やハイエナのごとき列強国に立ち向かい、中国を救わんとした。山東系義和団などがその代表例である。


 武侠結社の活躍は、清朝が倒れて中華民国となった後も続いた。複数の租界そかいに切り分けられた魔都上海での対外地下工作、日中戦争における抗日パルチザン……激動の中国近代史の裏側には、必ず武侠結社の活躍があった。


 英璘の先祖は、一九三〇年代の上海にて、列強国に対する地下工作や諜報活動を行なっていた武侠結社の首領であった。


 日中戦争が終わり、国共内戦を経て共産政権が中国を統治してからは急速に衰え零細化し、文革を期に逃げるように日本へと移住。文化や言葉の壁こそあったがどうにか乗り越え、結社の宝である武功の伝承を英璘の代まで繋げてきた。


 ——ある日突然現れた『求真門きゅうしんもん』に、家伝の武功ごと家族の命を奪われるまでは。


 天涯孤独となった十三歳の英璘を引き取ってくれたのが、今の師である霍槍傑かくそうけつであった。彼には五年経った今なお感謝の言葉も無い。


 武芸に関しては天賦の才を持っていた英璘は、わずか五年で門内随一の門人へと成長した。


 『八極はっきょく震遥門しんようもん』の武功を懸命に学ぶ一方で、実父から教わった『家伝の武功』も忘れぬよう大切に鍛錬していた。亡き父の形見として大切にし、いつかしかるべき誰かに伝えよう。英璘はそう心に決めていた。


 その『家伝の武功』とは、隠密に特化した武功であった。


 足音、呼吸、視線、空気の流れ、心音……動作によって起こる「情報」を削り取っていくことで、自身の存在をし、敵の『しき』から逃れる技術。


 地下工作員は半世紀以上も前に廃業している。なので英璘は家伝の武功を学んでも、それを使う機会は無かった。せいぜい貴重な文化として残していく程度だ。


 しかし、人生とは何が起こるか分からない。

 役に立つだろうと思って学んだモノがまるで役に立たないこともあれば、一生役立たずだろうと思った技能が思わぬ機会で輝いたりする。


 英璘は後者であった。




 


 今、英璘は蘇麗慧それいけいを尾行していた。


 



 そのたおやかな後ろ姿と歩き方を、英璘は「存在」を消しながら追いかけていた。


 彼女は『河北派かほくは』でも確実に五本の指に入るほどの実力者。


 英璘の『家伝の武功』は、そんな麗慧から十分以上も察知を逃れ続けている。昔取った杵柄きねづかとはこのことだ。


 この尾行には、理由があった。


 ——それは『至熙しき菜館さいかん』でのことだった。


 石蕗常春つわぶきとこはるが自分に勝利した後、常春の河北派入りに反対する者の一人が投げつけた刀が引き金となり、最初以上の大騒ぎとなった。


 あの時はまさしく一触即発で、いつ誰が攻撃を開始してもおかしくはない状態だった。自分の師である槍傑が一喝して止めなければ、面倒な事態になりかねなかった。


 止まった後も、賛成派反対派は双方ともに殺気立っていた。血気の控えめな者達も、緊張の面持ちであった。


 その緊張している人間らの一人であった英璘は、その目で確かに見たのだ。




 たった一人——蘇麗慧だけが平然としていたところを。




 爆発寸前の火薬庫のごとき『河北派』を、ひどく落ち着いた態度で見ていた。他人事みたいに。


 その眼差しは、ひどく疲れているような、何かを諦めきったような、そんな感情が見て取れた。


 そのあまりに場違いな感情表現に、英璘の『識』が強い違和感をはじき出した。


 石蕗常春は、今は麗慧の弟子だ。であれば、自分の弟子に刃を投げ込まれた彼女こそが一番憤慨せねばならないところだろう。


 違和感は会合の中でだんだんと膨らんでいき、いつしか疑念へと変化した。


 その疑念を放置することを気持ち悪く感じた英璘は、用事があるから、と師と兄弟弟子を先に帰らせた。


 最初は麗慧に直接話を伺うつもりだったが、会議が終わってすぐに麗慧は姿を消していた。


 しまったと思って『至熙菜館』を急いで出て周囲を見回し、遠くに見つけた。


 それを追いかけているうちに、彼女の挙動がやたらと用心深いように感じ、英璘はつい「存在」を隠してしまった。そのまま尾行へと変じてしまったというわけだ。


 麗慧が千川駅の改札をくぐり、和光市わこうし方面行きの地下鉄に乗る。英璘も「存在」を隠しつつ同じ列車に乗って、同じ小竹向原こたけむかいはら駅で降りた。なおも尾行を続ける。


 しばらくして、麗慧がようやく足を止めた。


 駅から南下した先にある、うらぶれた空き地だった。長い間放置されているのか雑草が長々と伸びており、人通りも無いに等しい。——内緒話をするにはもってこいの場所。


 その空き地には、「先客」がいた。


 年齢は三十ほどの、長身の男。

 鋭利な端正さを持った面長の顔立ち。それに知的さをちょこっと飾り付けるかのように丸メガネがかけられている。しかし、その顔にうっすら浮かび上がった稲妻模様のアザが、丸メガネの知性感を物々しさで塗り潰してしまっていた。……たしか、雷に打たれた人間の肌に残る「リヒテンベルク図形」という火傷痕だ。

 女性にしては長身な麗慧よりもさらに背丈のある細身には、ノーネクタイの白スーツをスタイリッシュに通している。白いスラックスのポケットに両手が突っ込まれていた。


 その男に、麗慧は近づいていく。


 近づき、近づき、身をくっつけ合った。


(んなっ)


 英璘はギョッとした。


 何と、男の方が、麗慧の豊満な臀部を左手で鷲掴みにしたではないか。


 しかも、麗慧はうつむいたまま、全く抵抗を見せない。それをいいことに、今度はその乳房に右手を伸ばし、もてあそびだす男。


 見てはいけないものを見てしまったと思い、英璘は顔を真っ赤にした。


 あの蘇麗慧が、男と逢い引きしていたのだ。


 ——まぁ、実年齢はともかく、あの見てくれだ。男が放っておかないだろう。『河北派』も男女のむつみごとにまで口を出したりはしない。それにしても変な男だ。少し男の趣味が悪いんじゃないだろうか……?


 しかし、その出歯亀根性は、麗慧の尻を愛撫する男の左手甲を見た瞬間に吹っ飛んだ。


 そこには、があった。




 ——『葛』という一字を変形させた紋章。




 紛れもなく、『求真門』の紋章だった。


 その驚愕が、英璘の「隠蔽」を解かせてしまった。


 流石の反応。麗慧は、英璘の隠れている場所へと鋭く振り向いた。目が合った瞬間、麗慧は今まで見せたことのないような、険しい表情へと美貌を歪めた。——今の光景が、見られたらマズイものであるという自白に等しかった。


 逃げなければ。英璘は走り出そうとした。


 しかし、瞬時に間近まで踏み込まれ、技を食らってしまった。敵の周囲をぐるぐる回り巡りながら掌打を連発させる技で、英璘の防御技術ではほとんど防げなかった。掌一発一発に込められた内勁ないけいが、焼けつくような激痛となって体内へ染み渡りる。


 英璘は近くのゴミステーションまで吹っ飛ばされ、大量に吐血した。あっという間に瀕死状態。本人の練度の高さもあろうが、先ほどの技が大技であったことは間違いない。


 ご丁寧にポケットのスマートフォンまで破壊されていたため、告発もできないし助けも呼べない。……つまり、今の麗慧の裏切りを『河北派』に告発するには、逃げて生き残るしかないのだ。


 だが、どう逃げ延びればいい? 


 もうすでに体はボロボロ。起き上がって少し走るくらいの体力は残されているが、そうしたところで大して長く逃げられやしない。今のようにまた瞬時に追いつかれて技を食らって、今度こそ死ぬだろう。


 であれば、今この連中から逃げ延びる方法は一つ。


 ——死んだフリ。


 『家伝の武功』には、「死んだフリ」をする技術が存在する。


 呼吸を長時間止め、心臓の鼓動や脈動で起こる振動を内勁で外部に漏れないようにし、瞳孔の動きも止める。そうすることで「情報的に死んだ状態」を作り出し、相手の『識』を欺く。


 近づいてくる足音。


 英璘は迷わず「死んだフリ」を実行した。


 『気』を動かし肉体を操るにあたって、ボロボロになった体内が激痛という悲鳴を上げた。しかしそれを我慢する。もし我慢できなければ、『河北派』は大変なことになる——


 英璘は「死体」と化した。


 麗慧は「死体」に近づき、脈を、心音を、呼吸を、瞳孔の対光反射を確かめる。心音や脈拍を隠せても、心電図にかけられれば一発で生存がバレてしまう。けれど、ここでそんなモノを用意できるわけは無い。


 ひとしきり確かめて「死んだ」と結論付けたであろう麗慧は、「死体」をゴミステーションの中に放り込んだ。中にはすでに明日回収のゴミ袋がたくさんあるため、その中に埋めるように「死体」を隠す。騒ぎになるのは翌朝のゴミ回収時というわけだ。


 そうして麗慧と『求真門』の男は、立ち去っていく。


 鼻の奥を刺すような悪臭と、顔を這うゴキブリの不快感に耐えながら、「死体」は待った。


 およそ十分後、「死体」は蘇った。


 蘇った英璘は『識』で周囲を確認。誰もいない。ゴミステーションのフタをゆっくり持ち上げ、本当にいないということを確認した途端、気が緩んだ。


 同時に、口から滝のように吐血。


 分かる。もう時間がない。意識が残っているうちに、『河北派』の誰かにこのことを知らせなければ。


 周囲を注意深く索敵しながら、英璘は一番近い駅、小竹向原駅へと向かった。


 内傷の疼きを意思の力で殺しながら、英璘は慎重に駅へと入る。


 入った瞬間、なけなしの体力を費やしてダッシュ。財布から取り出した千円札を入れて切符を購入し、お釣りも受け取らぬまま改札を通過。下り階段を転がって降り、ちょうど来ていた池袋駅行きのメトロへギリギリで滑り込んだ。


 安全地帯へ逃げ込めた英璘はひとまず弛緩する。しかし途端にまたドバッと吐血。車内が騒然とするが、構ってはいられない。


 十分も経たぬうちに池袋駅へ到着。声をかけてくる駅員を振り払い、走る。


 改札を通過し、西口から外へ出た。


 ここから南西方向へ真っ直ぐ進めば、自分と師の槍傑の家はすぐだ。


 しかし、ここにきて一気に体調が急変する。意識が朦朧としてきた。視界がぼやける。呼吸がうまくできない。血を流し過ぎたせいで赤血球が激減し、それによって運ばれる酸素までも欠乏しているのだ。体が、動くことを放棄しようとしていた。


 ダメだ。ここで倒れる訳には——


「…………あ」


 今にも崩れようとしている足を引きずって歩いていると、西口公園のところに見覚えのあるメンツを見つける。


 ぼんやりとした視界の中には、石蕗常春と、藩随静はんずいせい


 最悪だと思った。よりにもよって麗慧と同じ『龍霄門りゅうしょうもん』の門人だ。もしかすると、こいつらも麗慧とグルかもしれない。


 だが、駆け寄ってきた二人の、こちらを案ずる態度は、不思議と嘘ではないと思えた。


 そんな自分の勘を信じ、倒れそうな自分を受け止めてくれた随静の耳元へ口を近づける。


 最後の力を振り絞り、一番意味が伝わりやすい最低限の言葉をささやいて、意識を手放した。


 気を、付けろ。我々の、『河北派』の中に、裏切り者がいる。そいつは、『求真門』と、繋がって、いる。そいつの、名は、蘇麗慧——


 


 









「英璘の体には、火傷のような紫色の手跡がいくつも浮かんでいた。それを見て、すぐに分かった。——あの傷はまぎれもなく『雷声滾動らいせいこんどう』を受けてできたもの。相手の死角に回り込みながら内勁を込めた掌打を何度も叩き込み、その威力の波動を相手の体内に焼けつくように響かせて致命傷を与える『絶招』。——あの技を使えるのは、門派においてわたしとあなただけ」


 麗慧は答えない。


 その沈黙が、何よりの「是」であった。


 師である彼女は、随静の『識』の優秀さを知っている。

 『雷声滾動』という手がかりと、英璘の残した言葉という「点」から始まり、その他にもこれまでの日々の中に散りばめられている数々の「点」を拾い集め、それらを「線」で結び合わせ——麗慧の「裏切り」と、その「目的」を算出したのだ。


 それを分かっているからこそ、麗慧は言い訳もとぼけもしない。


 それを分かっているからこそ、随静もこれ以上口にするのが辛かった。


「思えば、最初から変だった。どうして『求真門』は、常春の学校を襲ったのか。否……どうやって常春の学校が東京都立冨刈とみがり高校であることを知ったのか。その情報は、常春の学生証をかすめ取って確認したわたしと、その情報を聞いたあなたしか知らない。ならばどうして『求真門』が知っていた? ……答えは一つ。あなたが情報を漏らしたから。天地神明に誓って、わたしは常春の学校の場所をあなた以外には明かしていない。だからあなたしかあり得ない」


 しかし、辛くても言葉にしなければならない。


「あなたは常春を「河北派新規加盟門派『天鼓拳てんこけん』掌門」としてではなく、「『龍霄門』の新規門人」として強引に『河北派』にねじ込んだ。『雷帝』の残した最強の遺産を『求真門』に渡さぬため…………わたしはつい昨日まで、その大義名分を信じて疑わなかった。しかし、勝利した常春に刀が投げつけられた時、あなたは憤る様子も無く、今にも爆発してしまいそうだった『河北派』を静観していた。わたしはその態度に、違和感を覚えた」


 身内だから、師だからと日和ってしまえば、『日常』を守りたいと願う常春への裏切りとなってしまうからだ。


「あの時は違和感止まりだったけれど……もしもあなたが…………っ、『求真門』に加担しているのだと仮定すれば、あなたの目的が見えてくる。おそらく、あなたの目的は——『河北派』の。派閥内の半分の門派が強い恨みを抱く『雷帝』の弟子……それを無理矢理派閥に放り込むことで、派閥内に対立を生み出し、そこから崩壊へと持っていくこと。武力ではなく、味方同士の対立を用いて『河北派』を破壊する「離間りかんの計」」


 だからこそ言う。言葉を続ける。


 内側から形良く衣服を持ち上げる麗慧の胸元に、追求の目を向けた。




「師父——



 

 麗慧は言われた通り、上衣のボタンを半分ほど外した。袖無しブラウスの胸元も開き、あらわになった左胸に貼られた大きな絆創膏を剥がすと——『が、その素肌にうっすら刻まれていた。


「そん、な……!」


 絶望にまみれた声を漏らす常春を他所に、麗慧は胸元を再び閉じつつ、微笑した。


「さすがだね、随静。ほとんど正解だよ。さすがは私の娘。……馮英璘もしぶといものだ。『雷声滾動』を食らえば高確率で死に至り、良くても意識不明になるはずだが……さすがは『八極震遥門』というべきか。アレは強大な威力の技に体が耐えられるよう、特殊な鍛練法で肉体を頑強に鍛え上げるらしいからね。だからゴキブリのように生き延び——」


「——どうしてっ!!」


 随静が、声を張り上げた。


 初めて聞く姉弟子の悲鳴じみた声に、常春は一瞬全身の不調を忘れて心臓を跳ねさせた。


 しかし、随静は自制するように数度深呼吸してから、いくぶんか落ち着いた声で、


「どうして……このようなことを。『河北派』を、潰すなどと…………いったい、どうしてっ?」


。可愛い弟子こども達」


 麗慧は断言した。


 産まれたばかりの我が子を慈しむような、その我が子のためなら喜んで我が命を投げ出しそうな、強い母性を帯びた微笑を浮かべて。


 しかし、随静は違う。真逆だった。その愛情を恐れるように瞠目し、唇を震わせていた。


 そんな倒錯とうさくした師弟の表情に、常春は猛烈に腹が立った。


「ふざけんなっ……!! 何が守るためだ……! 『河北派』が潰れたら……『龍霄門』を守るための後ろ盾もなくなってしまうんだぞっ……!!」


 苦しさを押し殺しての常春の発言に対し、麗慧は視線を向けた。随静に向けていたのとは逆の、冷え切った視線を。


「全部、君のせいなんだよ——『


「僕、の……?」


「ああそうさ。君なんかが存在していたから……君がその拳で『雷鳴』なんて起こしたから…………このありさまになっているんだよ。まったく、師弟そろって武林を無用に引っ掻き回すのが好きときている。まったく迷惑な話さ。——だから、


「火、種?」常春はかすれた声で言う。


「そうさ。火種さ。君には散々説明を重ねているだろう。君の師、『雷帝』黎舒聞れいじょぶんは、かつて武林で「最強」の名を欲しいままにしていた。その「最強」という巨大な山は、奴に決闘で殺された数多の武術家の屍で築き上げられたものだ。特に河北省ではずいぶんと暴れたようでね。自分の師、あるいは師爺を殺された者は『河北派』に数多い。……そんな連中の中に『雷帝』の弟子なんてものを放り込めば、論争と対立の種になることは自明の理だろう? だから、私が火をつけてやったのだ」

 

 自他を嘲弄するような冷笑で美貌を歪め、麗慧は両手を鷹揚に広げた。


「君を『天鼓拳』という一武功門派として河北派入りさせてやれば、門前払いが関の山だ。だから私は、君を「河北派加盟門派」としてではなく「私の弟子」として河北派入りさせてやったのだ。いくら同盟といっても、所詮は異なる門派同士が寄り集まった団子だ。武功思想や価値観は異なるから、それを考慮してか他門派への干渉は簡単にはできない。……案の定、それによって『河北派』の中で君への反感が燎原りょうげんの炎のごとく広がり、さらにそれを消そうとする連中が現れ、意見が真っ二つに分かれた。ふふふっ……愚かな連中だよ。百年近く前から何も変わっていない。儒教的怨念に突き動かされ、『求真門』に対抗するという本質を簡単に見失うとは。このままいけば、『河北派』は内部崩壊するだろうね」


 冷笑する麗慧。


「予言しよう——『河北派』は、。この両派は今でこそ戦力差が小さいが、それはこの日本だけでの話だ。『求真門』は世界各地で展開しており、その地で猛威をふるっている。つまり、すべてを集めた組織規模は、すでに『河北派』が大きく負けている。何より、連中には活動のための資金が潤沢にある。不老不死という禁断の果実を食いたがっている金持ちや権力者は、世界中にわんさといるからな。パトロンもその分死ぬほど多いというわけさ。……それに比べて『河北派』はどうだ? 大して金も無い、門人も増えない、他の派閥との同盟も進まない、私情にとらわれて大義を忘れる原始的思考…………わかるだろう? 『河北派』は、『求真門』と戦う気概など無いんだ。所詮は単なる延命処置。破滅の先延ばしさ。こんな泥船から早々に降りたいと思うのは自然なことだと思わないか? だから——」


 少し言葉を濁してから、再びはっきりと発した。「——だから、『求真門』と手を組んだのだ」


「『精忠八侯せいちゅうはちこう』を知っているかい? 『求真門』の八人の最高幹部だ。石蕗常春、君という存在が発見される二日前、その『精忠八侯』の一人が私の前に現れ、こう持ちかけてきた。——『河北派』の内部崩壊に協力して欲しい。「、『」。そう言ったのだ。そして私は、それに頷いた。すべては……私の大切な弟子こども達を守るためなんだよ」


「だから……そのために、他の河北派加盟門派を、すべて見捨てるっていうのか……?」


 常春の押し殺したようなその言葉に、麗慧は鼻白んだ。


「君は本当に幼いのだな。そんなだから友達を失うハメになるんだよ」


「なんだと……?」


「君は、心臓の悪い見ず知らずの他人を救うために、自分の親兄弟の胸をかっさばいて心臓を抉り出して他人に与えるのかい? 君が言っているのはそういうことだよ。私は……自分の弟子を。それゆえの決断だよ。そもそも河北派の連中にさしたる愛着も無いからね」


 随静は一歩前へ出る。いくらか冷静さを取り戻した口調で、


「お願いする、師父。もう『求真門』などとは手を切って欲しい。そうすれば、わたし達は今回のことを喋らないでおく。英璘にもそうお願いする。だから——」


「無理だよ、随静。だって私は、もう『処置』をされてしまったのだから」


 ——『処置』?


 その単語に疑問符を浮かべる常春と随静を無視し、麗慧はたたみかけるように言った。


「私はこれから、さらなる工作を行う。内部対立をさらに激化させ、『河北派』を確実に崩壊させるための工作をね。……随静、君のことは河北派崩壊までの間、どこかへ閉じ込めさせてもらう。馮英璘は知り過ぎたから殺す。そして石蕗常春——君の身柄と、その身に眠る『天鼓拳』は、『求真門』に引き渡す」


「ふざ、けるな……っ!」


 起き上がって戦おうとする常春。しかし、今なおうつ伏せに倒れた体は、背中に大きな仏像が乗っかっているように体が重く、力もほとんど入らない。指一本動かすのがやっと。


 麗慧ははねをむしり取られた蝶を見るような憐憫れんびんの目で、そんな常春を俯瞰した。


「無駄だよ。君は今、『走火入魔そうかにゅうま』という状態なんだ」


「走火……入魔……だって?」


「体内の『気』の流れが著しく乱れ、それによって体機能の調和が崩れて起きる不調だ。通常は間違った方法で武功を鍛錬すると起こる症状だが、私が先ほど君に打ち込んだ『爛心掌らんしんしょう』は、その『走火入魔』の状態を強引に引き起こすことができる。武功理論を用いた医術を応用して編み出した、私だけの『絶招』だ。……君は今後数日間、その『走火入魔』の状態のままマトモに動くこともできないよ」


 常春から視線を外し、随静を見る。その眼差しは、やはり慈しみに満ちた親の眼差し。


 しかし、随静はソレに対して、両掌を構えた。


 物言わぬその構えが、随静の「答え」だった。


 麗慧は残念そうに笑った。


「そうか……なら、殺しはしないけど、少し痛い目は見てもらうよ」

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