《17》

 随静ずいせい英璘えいりんの上衣服をめくり上げ、その素肌に刻まれた傷跡を数秒見てから、すぐに常春とこはるへ救急車を呼ばせた。


 呼び出した救急車によって、英璘は病院へと運ばれた。


 随静と常春も付き添ったが、か細い息を繰り返しながら命を繋ぐ英璘を見て、今にも死んでしまうのではないかと緊張し続けた。


 病院に着いたのは約十分後とそこそこ速かった。しかし、常春にはそれまでの時間が一時間にも等しく感じられた。


 なんでだ? どうしてこんなふうになってるんだ。一体どうなってるんだ。誰がこんなことを——その疑問から真っ先に浮かび上がった容疑者は、もちろん『求真門きゅうしんもん』だった。


 しかし、それはかえって『求真門』自身の首を絞める行為であると思い、疑うのをやめた。もし攻撃したのが『求真門』ならば、『河北派かほくは』に全面戦争をしかけたことになるのだ。日本においてそれは自殺行為である。


 常春が考察している間に救急車は病院へ到着した。なんと、常春が以前校舎の窓から落っこちた時に運び込まれた、要町かなめちょうの総合病院であった。


 ストレッチャーに乗せられた英璘が運ばれていき、すぐに緊急手術となった。


 「手術中」というランプを、常春はソファに座りながら呆然と見つめていた。


 随静は冷静だった。変わらず無表情でスマホをカコカコいじっている。仲間が重傷なのにどうしてそんなに落ち着けるのかという一瞬の憤りは、無表情から微かに滲み出る感情を読み取った瞬間、瞬時に霧散した。彼女から感じられる感情は……怒りや、驚愕がないまぜとなった混沌とした感情。


 それからしばらくすると、いくつもの足音が重複して聞こえてきた。見ると、それは霍槍傑かくそうけつを始めとした『八極はっきょく震遥門しんようもん』の門人たちだった。……随静がスマホをいじっていたのは、暇つぶしではなく、『河北派』のグループチャットに英璘の重傷の報せをアップしたのだ。


 槍傑はその炯炯たる眼差しに常春を映した瞬間、瞬時に常春へ近づき、その胸ぐらを右手で掴み持ち上げた。そのまま壁に押しつけられる。——なんて腕力だ。どう考えても老人の力じゃない。


「貴様かぁっ!! 貴様がやったのかこの犬畜生がぁ!!」


 落雷のごとき怒号が病院の内壁をビリビリと揺さぶる。


 勘違いだ。そう言いたかったが、槍傑の気迫のあまりの凄まじさに、心臓を鷲掴みにされたようなプレッシャーを感じた。横隔膜と声帯が縮こまり、声もうまく出ない。


「——否。霍先生、それは誤解。わたしは本拠を出てから彼とずっと一緒にいた。わたしが証人。だから、手を離して欲しい」


 そこへ、随静の冷静沈着な助け船は入った。


 槍傑はそんな彼女を射殺すように睨めつけたが、嘘を言っていないと判断したようで、常春の胸ぐらを掴む手をパッと話す。常春は壁に背中を引きずりながら尻餅をつき、何度か咳き込んだ。 


 ふん、と不快げに鼻を鳴らす槍傑。謝罪の一言も無いことに常春は思うところが無くもなかったが、彼の怒りは愛弟子を大事に思えるからこそのものだ。悪く言うのは気が引けた。


 ぞろりと揃った『八極震遥門』の門人らとともに、常春たちは手術終了を待った。


 「手術中」のランプが消えたのは、病院に運び込まれておよそ六時間後ほどであった。時刻はすでに深夜となっていた。


「一命は取り留めましたが、予断を許さない状態です。何より、出血の量が多い。あと少し搬送が遅かったなら手遅れだったかもしれません」


 医師にそう告げられて、ひとまず胸を撫で下ろした一同。


 しかし、一人だけ例外がいた。


 それは、随静だった。


 いつもの無表情に見えて、その白い眉間には数本シワが浮かんでいる。両手の指先も何度も不必要に動いている。いつもの彼女と比べ、明らかに落ち着きが無い。


雷声らいせい滾動こんどう……」


 おまけに、その言葉だけをしきりに呟いている。


 その様子は、まるで自分の中の幻想と、目の前の現実とのギャップに苦しんでいるかのようだった。


 槍傑や英璘の兄弟弟子らが病院を去ってから、随静は静かに言った。


「わたしは……一晩ここにいる」


 常春は目をしばたたかせる。


「え? でも、英璘は命に別状は無いんでしょ? もうそこまで心配することはないんじゃ……」


「ここにいる」


 その声は、頑としていた。


 まるで、そうしないといけない理由があるかのように。


 その声に、常春も触発された。彼女に、付き添わないといけない気がした。


「……それじゃあ、僕も一緒にいるよ」


「常春は……先に帰っていてもいい」


「いいよ。臨時休校、明日までだし」


 そこから沈黙が生まれ、しばらくしてから、


「……ありがとう。正直言うと、少しだけ、心細かったから」


 そう言って、折れてくれた。


 英璘のいる病室に入り、彼女が眠るベッドのかたわらに二つのスツールを寄せ、付かず離れずの距離感で座る。


 常春は英璘の寝顔を覗き込んだ。


 その顔からは普段の険がすっかり取れており、子供のような無垢さと、精巧な石膏像じみた美しさを見せていた。死ねだの殺すだの言いながら刀を振り回していた女と同一人物であるとは、とても思えない。


(普段からこういう顔を見せてくれると助かるんだけどなぁ。いや無理か)


 そう思って一人苦笑していると、ごろろろん、という何かを引きずる音が聞こえた。随静のスツールが、常春の右隣にピッタリ近づいた音であった。


 さらに、その白いもみじみたいな左手が、常春の右手をそっと掴んできた。


「ね、姉さんっ?」


「……ごめんなさい。しばらく、こうしていて」


 か細い声で、随静はそう請う。


 常春は姉弟子のいつにないしおらしさに胸を高鳴らせつつも、奇異に感じていた。


 そう。、のだ。


 あの常に冷静沈着で鉄仮面な随静が、常春じゃなくてもはっきり分かるくらいに、態度が弱々しいのだ。


 明らかにおかしい。


 そのおかしさが始まったのはいつからだ?


 そうだ。血塗れの英璘を抱きとめた時だ。


 あの時、英璘は最後の力を振り絞って、随静に何かを耳打ちした。それを聞いた時に、随静は大きくまぶたを開いた。


 あの時、随静の鉄仮面を破壊するほどの情報を、聞かされたのだ。


「姉さん……あの時、英璘から何を聞かされたの?」


 ふるふるとかぶりを振った。白いラビット型ツインテールが小さく揺れる。


「……朝まで、待って欲しい。その時に、きっと分かる」


 そう告げた姉弟子は、まるで親とはぐれて迷子になった子供のように、はかなく見えた。


 常春は随静の手をしっかり握り返し、沈黙の「是」を告げた。







「……きて。常春……起きて」


 体を揺さぶられる感覚とともに、常春は深い眠りから覚醒した。


「……んぁ? どうしたの、姉さん……」


 寝ぼけた声でそう言うとともに、常春はハッと覚醒する。


 何で姉さんが僕の部屋に? いや違う、病院臭い。そうだここは病室。英璘の病室だ。いつの間にか、英璘が眠っているベッドの端に上半身を預けて寝てしまっていた……


 病室のカーテンが朝日でほんのり光り、病室を照らしている。


「おはよ、姉さん……」


 寝起きの重たい頭を上半身とともに持ち上げ、背伸びをするために右手を持ち上げようとして、その手が今なお随静としっかり繋がれていることに気が付く。


「あ、もしかして、ずっと握っちゃってた?」


「是。……ありがとう。寝ている間も、あなたはしっかり握っていてくれた。おかげで、少し心細さが消えた」


「そ、そっか」


 気恥ずかしさを笑って誤魔化しながら、常春は手をそっと離して立ち上がった。


 閉じられたカーテンへ歩み寄り、しゃっと開ける。新鮮な日光が差し込み、明暗差で目がくらんだ。


 スマートフォンを取り出し、スリープ画面を見る。五月二十四日。午前七時五十分。


「姉さん、この病院の売店が開くのって何時からか分かる?」


「八時半から」


「うーん、まだもうちょっとかかるかぁ。仕方ない、近くのコンビニまで行って朝ごはん買ってくるか。姉さんは何かリクエストはある?」


「是。チョコレート系の菓子パンを所望する。なければ他のでも良い。代金はあとで払う」


「おっけー。じゃあ行ってくるね」


 そう言って病室のドアへ歩を進めようとした瞬間、先んじてそのドアが開いた。


「やっはろー、二人とも。どうだい、英璘の具合は?」


 そんなのんびりした声とともに入ってきたのは、常春と随静もよく知る美女。


 ブラウンがかった黒い長髪。女性的メリハリのある肢体と、それを描き出す黒唐装とスリット入りのロングスカート。


「あ、師父。おはようございます。英璘なら大丈夫です。ぐっすり眠ってます」


 常春の現在の師である麗慧れいけいに、常春は抱拳で挨拶をしつつ、そう告げる。


 師もそれに微笑を浮かべた。


「そっか、それなら良かった。あーっ、寝てるからって、英璘ちゃんにエッチな事してないだろうねぇ?。「最低だ、俺って……」って感じで」


「す、するわけないでしょう! 姉さんもいるんだし! まして怪我人ですし!」


「本当かなぁ? 君には乳揉みの前科があるからねぇ」


「いや、あれは別にスケベ心からやったわけじゃないですって! 戦術ですよっ!」


「そうかもしれんが、『河北派』の一部の女性陣は今も御立腹だぞ? すでに彼女達の間では、君は『淫帝いんてい』という異名で呼ばれているしね」


「そんなぁ!?」


 酷すぎる称号に愕然とする常春を放置し、麗慧はドアを閉め、病室の奥にある英璘のベッドへと歩んでいく。


 しかし、部屋の床の半分まで達したところで、その足が止まった。


 ——随静が、麗慧の前に立っていたからだ。


「どうしたんだい、随静? お腹でも空いたかな? お金でも渡そうか?」


いな。大丈夫。自分の所持金がある」


「そうか。それじゃあ、病院の外にコンビニがあったから、朝飯でも買いに行っておいで。さ、そこをどいておくれ」


 通り過ぎようとした麗慧の前に、随静はまたも通せんぼする。


「随静、どうしたんだい。通れないじゃないか」


 困ったように笑う師。しかし弟子はそんな師を真っ直ぐ射るように見つめ、


「その通り。わたしは今、


「……どうしてかな?」


「わたしが理由を口にしても、あなたは絶対にそれを認めない。けれど、これだけは絶対の自信を持って言える。——


 そう告げた随静の声は、どこか固かった。


 しばし無言のまま見つめ合う師弟。


 けれど、麗慧がふぅっと脱力し、疲れたような声で言った。


「…………そうか。さすがは、私の弟子というわけか。つまり「」と」


 随静の眼差しは、さらに見開かれた。


 明らかに二人の様子がおかしい。常春はそう思い、麗慧へ歩み寄った。


「あの、さっきからどうしたん——」


「——『爛心掌らんしんしょう』」


 ですか、の部分を、麗慧の「技名発声」が埋めた。


 次の瞬間には、常春の腹部に、麗慧の双掌が深くめり込んでいた。


「————え」


 突然で、かつ予想を大きく上回る出来事に、頭の中が真っ白になる。


 さらに次の一瞬におとずれたのは、奇妙な感覚。


 体内から全身を繋ぎとめていた「疎通」が途切れ、五体が内側だけバラバラに崩れたような感覚。


 壁に背中から叩きつけられ、仰向けに落ちる常春。


 起き上がろう。そんな意思を指令として五体に伝達させるが——動かない。


「な……なんだ、これ…………」


 力が入らない。体の芯が抜け落ちてしまったかのようだ。


 視界がぐらぐら揺らぎ、大地が波のように上下している感覚。酷い船酔いみたいで気持ちが悪い。


 全身を巨大な足で踏まれているみたいな、重々しい虚脱感とだるさ。


 突然おとずれた強烈な体調不良に、常春は苦痛や不快感を感じるよりも混乱を強く覚えた。


 随静が、信じられないとばかりにかすれた声で、


「なんて技を……『爛心掌』なんて」


「仕方がないだろう。危険な猛獣はまず麻酔銃で眠らせておくのが鉄則だ」


「……やはり、あなたが」


 すると、麗慧は小さく笑声をもらし始めた。


「んっくくくくくっ…………あっっっはははははははははははははははははは!!」


 その笑声は一気に大きさを増し、哄笑こうしょうへと変わった。


 狂気と捨て鉢さを等量孕んだ、聞く者の神経をチクチクとざわつかせるような哄笑。


 普段の飄々とした麗慧を一ミリも想起させないその病的な響きに、常春も、随静も、何も言えず出来ずに硬直していた。


 ひとしきり笑い終えると、


「——そうだよ。私だ。


 麗慧は、微笑を浮かべた。


 、慈愛に満ちた微笑を。


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