《16》
試合が
それからしばらくして『
『至熙菜館』は、東京メトロ千川駅付近にある要町通りに存在する。店を出てからは常春、
「私は少し買い物をしないといけないから、君たちは先に帰っていなさい」
という麗慧の言葉によって、姉弟子弟弟子の二人だけとなった。
夕焼け空を仰いでから電車に乗り、十分とかからず池袋に到着。ホームに降りてエスカレーターを登り、スマホクレジットを使って改札をパス。それから、迷路のような池袋駅内を歩いて西口を目指す。
それまでの間、常春は何も喋らなかった。いや、喋れなかった。
今は何を喋るのも、億劫だったからだ。
——まさか、あそこまで憎まれているとは。
自分のことを、「『
しかし、試合で勝った後に投げられた刀。
あれは、英璘の闇討ちと同じくらいか、あるいはそれ以上に卑劣な行為だ。
卑劣かそうでないかの判断すら
その剥き出しの生々しい情念というものを、あの時、初めて見せられた気がした。
それが、常春にはショックだった。
けれども、その槍傑とて歓迎しているようには到底見えなかった。
こんなことで、自分は『
「はぁ……」
改札口を出ても、口から出てくるのはため息ばかり。
戦ったせいで、お腹が減っている。しかしどうにも食欲が湧かない。
こういう時……やるべきことはただ一つ。
「——日常系アニメを観よう」
「え?」
「あ、えっとね、日常系アニメっていう、僕の一番好きなアニメジャンルがあるんだよ。それでも見て、今日は気持ちを癒そうかなってね」
「えっちなアニメ?」
「ち、違うよっ」
姉弟子の問いを、常春は即座に否定した。……
そうしゃべっているうちに、池袋駅を西口から出た。常春の帰る場所は駅から南。北の平和通りへ向かう随静とは帰る方向は違う。
「それじゃ、お別れだね。ばいばい、姉さん」
そう言って、自分の帰る方向へ歩き出そうとした常春の袖を、随静の細い指がちまりと摘んだ。
「わたしも見てみたい。その「日常系」というものを」
「ええ? でも……姉さんが見て楽しめるかなぁ」
「否。観てみないと分からない。それに、わたしはまだ、あなたのことを良くは知らない。あなたはそのアニメがとても好きな様子だから、一緒に見れば、あなたのことが少しはわかるかもしれない。……常春、わたし達は同門。師を同じくする兄弟弟子」
「そこまで言うなら……いいけど」
常春はやや戸惑いながらもそう答え、これからの予定を考えた。
流石に家へ連れ込むわけにはいかない——以前随静が家に来たことがあるが、あれは連れ込んだのではなく押しかけてきたという表現が正しい——ので、どこかに座って、スマートフォンのアニメ専門アプリを起動して一緒に観よう。
随静にそのことを伝え、「
噴水を中心とした円形広場の端にあるベンチに二人隣り合わせで座り、スマホに繋いだ有線イヤホンを一つずつ分け合い、愛用しているアニメ配信専門アプリを起動した。
「日常系」という検索キーワードからズラリと出てきた作品群を、常春は視線で漁る。
日常系の中には百合要素お色気要素増し増しなやつもあるのでそれらはスルー。一番ほんわかして奥ゆかしいと思う作品として常春が選んだのは、やはりというべきか「お茶立て町のお茶目なお茶屋さん」であった。
常春としては二期を観たい気分だったが、お隣の姉弟子が初見さんなので、気を遣って一期の第一話から視聴スタート。
観ている最中、随静の反応がやや不安に思って逐一顔色をうかがっていたが、意外にも随静は視線を一切ディスプレイから離さなかった。
そんな感じで視聴を続け、あっという間に一話見終わってしまった。
時刻は六時弱。空の茜色もいっそう濃くなっている。そろそろ切り上げ時かなと思い常春はアプリを閉じる。
「…………どうでしたか」
常春が癒されるのが目的だったはずなのに、それをすっかり忘れ、随静に感想を求めてしまっていた。
どきどきしながら、姉弟子のちっちゃい口が開いていく過程を見続け、やがて感想を声として聞いた。
「面白かったけれど…………どこか、別の世界のように思えた」
——そりゃ、アニメだからね。
そう返すことだってできたし、事実彼女が口にしたのはそういう意味だろう。
しかし、それだけではない。これはダブルミーニングだ。
『武林』などという殺伐とした社会に身を置く自分にとって、ディスプレイの向こうで繰り広げられている『日常』が、とてつもなく他人事のように思えた…………そうとも言いたかったのだろう。
今の常春には、そんな随静の気持ちがよく分かった。
ある日突然『日常』を奪われ、こうして彼女と同じ社会の住人になっている、常春だからこそ。
「けれど」と前置して随静は続けた。
「きっとこれは、多くの人が「こうあって欲しい」と思う、世界の理想像だと思う」
常春は目を見開く。
「殺人も、盗みも、差別も無く、ただただ平和だけが続く日々。「力の裏づけ」を用いずとも保つことのできる、不朽の『日常』」
自分の信念を、思想を、他人の口から初めて語られたからだ。
最近になって「決して叶わない」と分かり、しかしどうしても捨てきれない信念を。
その事が、常春の心の奥底にある「何か」を刺激した。
————常春、お前は……なるな。俺の…………愛……
脳裏に生まれたその声は『爺さん』のものだった。
しかし、また新たな技を「思い出した」わけではなかった。
まるで、長い間クリーニングしていなくてノイズだらけとなったビデオテープの断片を見せられたような……不鮮明な記憶の再生。
それを少しでも鮮明に思い出そうとするが、
「痛っ……!!」
脳に裂け目が入るような酷い頭痛にそれを阻止される。
何を意味しているか分からない、追憶の欠片。
しかし今の追憶は、なぜだか『天鼓拳』の強大な技の記憶より、ずっと重要なことのように思えた。だから、思い出せないのが余計に悔しかった。
「常春……どうして泣いているの?」
随静の問いかけに、常春は思わず己の頬に触れ、涙滴を潰した。
「え……どうして、僕は……」
どうして、涙を流しているのだろう。
頭が痛くなったから? 思い出せなくて悔しいから? ……どれも違う。
自分の胸に問いかけ、返ってきた答えは——別離の悲しみ。
誰との別れだろう。それを思い出そうとして、またも頭痛。
結局今の常春にできるのは、理由も分からぬ涙を腕で拭うことだけだった。
そんな常春の片手を、随静はそっと両手で握る。
「常春、『河北派』が怖い?」
「え……?」
「あのように多くの憎しみを浴びせられて、怖くはなかった? …………わたしは、少し怖かった。憎しみを向けられたのはあなただけれど、それでも怖いと思った。わたしは……『河北派』の人達の、あのような剥き出しの感情を見たことがなかった。だから、今日の彼らは……なんだか別人に思えた」
彼女はきっと、自分が恐怖と不安で泣いていると勘違いしたのだろう。
けれど、常春はその質問をあえて否定で潰さず、答えた。
「確かに、怖かったよ。……でもそれ以上に、失望したよ。『河北派』は、『
「……確かに、あれは少しやり過ぎだと思う。あなたは試合に勝って、有用たるという証を皆に知らしめたというのに、刀を投げるなど。……けれど、わたしには彼らを全否定することは出来ない。彼らの先師はみな、黎舒聞に決闘で殺されている。それらは全て『生死文書』に署名した上でのものだけど、それでも恨む気持ちは残ってしまうもの。そういう門派は『河北派』に限らず、少なからず存在する」
常春は唇の下で歯を噛みしめ、固い声で問うた。
「なら、どうして『
「わたしたちには『雷帝』との因縁が無かったから。『龍霄門』の創始者は
「…………つまり逆に言うと、こういうことだよね。もしも『爺さん』……黎舒聞が、「君達」の先師を殺していたら、刀を投げた彼らの一部に加わっていた。ううん、そもそも『龍霄門』に招くことすらなかったんだろうね」
常春はすでに『龍霄門』の門人だ。それでもあえて常春は「君達」という他人みたいな代名詞を用いた。
『武林』の人間達に、広い
「——意味が分からないよ! 先師崇拝の儒教的師弟関係だか何だか知らないけど、今そんなモノにとらわれてる場合かよ!? 戦力が欲しいんでしょ!? 僕は喜んで手伝うって言ってるんだから素直に受け入れろよ! 先代先先代の恨みなんかに踊らされるなよ! その考え方が完全に自分達の足を引っ張ってるじゃないか! 馬鹿じゃないの!?」
その隔意の気持ち悪さに耐えかねて、常春はずっと喉元にせきとめておいたモノを吐き出すように言い募った。
それは随静だけではなく、ここにはいない『河北派』の全員に向けて発した叫びだった。
「そもそも、何で僕がこんな風に叩かれなきゃいけないんだよ!? おかしいだろ!? だって、あいつらの先師を殺したのは、僕じゃないんだ! 僕は仲良くなりたい、分かり合いたい、一緒に戦いたいって言ってるのに、何でそれを突っ返す理由に僕の師匠の……『爺さん』のやったことを持ち出すんだよ!? なんで『雷帝』越しでしか僕の顔が見れないんだ!? そんなもん
「『雷帝』の弟子」という色眼鏡でしか自分を見ている者は、何も「反対派」だけではない。
「賛成派」もだ。
彼らが自分の『河北派』入りを賛成しているのは、先師が殺されていないから。『雷帝』の武功が有用だから。
……そう、結局彼らも「『雷帝』の弟子」という見方をしている点では、「反対派」と何一つ変わらない。
随静のいる『龍霄門』も、「『雷帝』と因縁が無いから」自分を受け入れたのだ。
そう。彼らもまた「『雷帝』の弟子」としてしか自分を見ていない!
「僕は「『雷帝』の弟子」じゃない!!
そこまで吐き出して、常春はようやく口を止めた。
はぁっ、はぁっ、と息を切らす。体の内側の熱を逃す。
熱が冷めるうちに、常春はようやく頭が冴えた。
同時に……『龍霄門』を「反対派」と一括りにしてしまったことに対する誤りと恥を感じた。
常春は頭を抱え、疲れたように項垂れた。
「…………ごめん、姉さん。さっきの質問、しても仕方がないことだったよね。だって、その「もしも」は、起きていない事なんだから」
そう。起きてもいない「もしも」を引っ張り出して、今いる味方まで突き放そうとするのは間違っている。そんな話をしだしたらキリがなくなるからだ。
好き合い、愛し合っている恋人がいたとする。
自分が、そんな恋人の両親をわけもなく殺したら? 恋人へ突然暴力を振るうようになったら? 恋人から甘い言葉で搾取を繰り返した挙句にボロ雑巾のように捨て去ったら?…………自分への愛情が憎悪や恐怖に転変するのは当たり前だ。
そんな無意味な「IF」の話をするより、今、懐にいる最愛を大事にする道の方が、よほど意味があり、尊い事なのだ。
何より、『日常』とはそうやってできていくものなのだから。
そんな基本的なことすら忘れて、お門違いの批判を『龍霄門』にしてしまった。そのことが強烈に恥ずかしくなった。
しかし、姉弟子はただひたすら平坦で、それゆえに優しかった。
「……構わない。それに、あなたの混乱する気持ちもわかる。あなたは数日前まで、普通の子供だった。それがいきなり『武林』のシキタリなどにすぐ馴染めるはずがない。毛むくじゃらな寒地の犬が、南国にいきなり連れてこられたようなもの。毛をきれいに剃り落としても南国の暑さにすぐには馴染めない」
「…………なんか、変な例え」
常春は思わず小さく笑った。
随静は、そんな常春の瞳を真っ直ぐ見つめる。その澄んだ黒瞳には、夕陽でうっすら照らされた常春の顔が浮かんでいた。
「けれど、これだけは言える。
同じ痛み。
それは、ある日突然『日常』を喪失した痛み。
ただ平和に暮らしたいだけなのに、そのささやかな願いすらも嘲笑とともに踏み潰された過去。
「わたしだけではない。……あなたが今日戦った英璘も、『求真門』に突然家族を殺され、家伝の武功も奪い取られた」
常春は目を見開く。
「そういった経緯で『河北派』に流れ着いた者は、少なくない。みんな、あなたと同じ。別離の傷と、『日常』への渇望を抱いている。……だから、大丈夫。たとえ「門派」同士がいがみ合っていても、同じ痛みを持つ「個人」同士なら、きっとそれによって分かり合える。そうして手を繋いでいけば、いつか新しい『日常』を築き上げられる。……そして、その『日常』を今度こそ守ればいい」
「……できる、かな。僕に」
「
憎しみを呼ぶ「『雷帝』の弟子」という称号も、自分の行動次第でその意味を変えられる。
その身に宿る最強の技で「未来」を切り開き、「過去」にとらわれている連中をぐうの音も出せなくなるくらい黙らせてみせろ。
随静は、そう言っているのだ。
お前になら出来るし、そうするしかないのだと。
迷いは、もう消えていた。
自分のすべき事、できる事が、やっと分かった。
「……ありがとう」
常春は、晴れやかな笑顔を返した。
失ってからようやくできた、新しい『日常』の最初の住人に向けて。
それから一分もしないうちに、二人はそれぞれの家へ帰るべく、西口公園のベンチを立った。
「質問。その「お茶茶茶」というアニメは、今でも放送している?」
随静が何気なくそう尋ねた瞬間、常春が「ずずーん」という擬音が出そうなヘコみ方を見せつつ、低い声で言った。
「…………三期放送したのが去年の夏で、それ以来全く続編の音沙汰が無いんだよ。それまでは終わりの見えない「お茶茶茶難民」さ、僕は」
「難民?」
「ああ、うん。サブカル用語の一つだよ。特定の日常系アニメが放送終了した後、大量発生する人達のこと。日常系アニメは平和な『日常』をひたすら繰り返すアニメでしょ? そのアニメが終わるということは、アニオタにとっては「平和な『日常』がなくなる」って意味だから、「難民」が出てきちゃう。その「難民」は、そのアニメの続編が始まるか、
「人気が無くなったから放送されないのでは」
「そんなことないもん!」
いくら姉弟子でも聞き捨てならない言葉だ。そう思った常春はSNSサービス「
「——え」
思考が凍りついた。
Shabetterはそのユーザーの嗜好をAIが学習し、おすすめのつぶやきをポコポコ表示してくれる。しかし時折、石蕗常春という人間の嗜好とはかけ離れたコメントも表示される。某SNSでは、戦争中のベトナムを写した写真の中に半裸の女児がいたというだけで「児童ポルノ」と認識し、自動削除してしまったことがあった。そういう融通のきかなさがあるため、AIも完全な知性ではないのだ。
今、常春のアカウントページの「あなたへのおすすめ」に、写真付きのつぶやきが一つ。その写真に写っているのは——
「
全身血塗れとなった、馮英璘の写真だった。
見にまとう河北派の制服は黒なので、血が染み込んでも全然目立たない。
しかし、その袖の内側から指先に向かって幾筋もの血が伝っている。
その鋭い美貌からはいつもの気丈さが薄れており、表情には苦渋の色が濃い。白い頬には血痕が数的付着していて、口端からは赤黒い血が垂れていた。
そんな彼女が片膝を崩しながら立っているのは、電車の中。……この内装は知っている。いや、三十分ほど前に乗っていた電車だ。東京メトロ副都心線。
この写真がアップされたのは……今から約三分。
情報を得るたびに、常春の心音がばくばくと加速していく。
さらに、遠くの道路から、ざわざわと人のざわめき。
その渦中には、人影。
片足を引きずって血の線を道路に引きながら、夕焼けの池袋の街中を苦しげに歩いている。ビルの影から出て、夕陽に照らされ、その人影があらわになる。——写真に写っていたのと同じ姿の英璘だった。
「——英璘っ!」
常春は思わず駆け出した。ついさっきまで果たし合いをした間柄だが、あのありさまを看過できるほど冷血人間ではない。
駆け寄ってくる常春と随静を目に映した瞬間、震えながらもかろうじて英璘を立たせていた両足ががくんと力を抜いた。
血塗れの英璘を、二人で抱きとめる。
近くで見ると、いっそう酷いありさまだった。常春に負けた後だって、ここまでの大怪我はしていなかった。——つまり、その後に他の誰かにやられたのだ。
「大丈夫!? 何があったのっ!?」
常春がやりすぎない程度に揺さぶり、そう問う。しかし英璘は答えない。
「ねえってば! しっかりしろよ!」
急かす常春。
すると英璘はぐいっと頭を突き出し、随静の耳元に口を近づけると、かすれた声で告げた。
「————気を、つけろ。我々の——」
途中からは、常春には聞き取れなかった。……しかし、それを全て聞いたであろう随静は、その常時冷めたような黒い瞳を劇的に開かせた。今までにないくらい、驚愕、という感情をあらわにしたのだ。
言いたい事を言い切って満足したのか、英璘は完全に力を抜いた。
「ちょっと……おい! 英璘ってば! 返事しなよ! 死ぬなよ、おいっ!!」
揺さぶる常春。
しかし、何度やっても返事は無かった。
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