《15》

 試合が決まった常春とこはる英璘えいりんは、この円柱状にくり抜いたような地下空間の真ん中にある、直径十メートルの大きな太極図の段差の上に登った。


 これは『擂台らいだい』という、武芸の試合をするための闘技場らしい。


 腕試しや技術交流の場として設けられている。


 一方で、『河北派かほくは』内部の門派同士に揉め事が発生した場合、その決着を武で決めるために作られたものでもある。


 試合を行う前に、常春と英璘は『生死文書せいしぶんしょ』という誓約書のようなものに署名を求められた。


 『武林ぶりん』では昔から、試合前に『生死文書』を書き、どちらが負けて死んでも門派間に遺恨を残さないようにしてきたという。——もっとも、それでも納得できていない例の方が多かったらしいが。


 署名を終えると、すぐに二人は太極図の両端に立ち、向かい合った。


「逃げたいなら試合開始と同時にこの擂台から降りればいい。そうすれば貴様の負けが決まるからな」


 冷たく鋭い眼差しで常春を睨みながら、そう告げてくる英璘。


 この試合の「敗北条件」は次の通り。


 ——どちらか片方の死亡。

 ——どちらか片方の降伏。

 ——どちらか片方の場外。


 常春はそれを頭の中で再確認しつつ、言葉を返した。


「悪いけど、僕も負けるつもりはないから」


 英璘の目に殺気が宿る。


 周囲から擂台を見守る黒服たちの顔つきが、緊張を帯びる。


 この試合を立案した張本人、蘇麗慧それいけいが発した。




「では——始めッ!」




 刹那。


「『頂陽針ちょうようしん』!」


 常春は先手を取って動いた。


 強烈な内勁ないけいを秘めて爆進した常春の拳は、英璘には届いていない。


 だが、その拳は『雷鳴』とともに空気を思いっきり押し出し、爆風のごとき風圧を前方へぶちまけた。


 ——常春の狙いは、英璘の「場外負け」だ。


 この「場外負け」というルールは、常春にとって救いだった。

 

 「場外負け」という、実力と関係ない負け方をあえて作っておくことで、試合を行う者に「逃げ道」を与える。わざと場外へ落ちることで「実力以外の部分で負けました」という言い訳ができるようにしておくことで、試合を行う者同士のメンツを守り、軋轢を生みにくくする——そんな目的で「場外負け」というルールが作られていることを知らず、常春はこのルールに感謝していた。


 昨日、技を交えたから分かる。……英璘は、今の自分よりあらゆる点で優っている。まともに戦っても勝ち目は薄い。


 「場外負け」なら、たとえ実力に差があったとしても、作戦次第では勝てる。


 それに何より、『頂陽針』は強力すぎる。もし当たれば、最悪、相手を殺してしまうかもしれない。


 もし英璘に大怪我をさせたり、殺してしまったりすれば、たとえ常春が勝ったとしてもその後に良くない影響を残す。『八極はっきょく震遥門しんようもん』からいっそう遺恨を買い、さらに『河北派かほくは』の戦力も減る。


 場外に逃してしまえば、無駄に傷つけることなく勝敗を決することができる。


 ——そういった思惑を込めて、常春の『頂陽針』の風圧は発せられたのだ。


 しかし。


「ふっ!!」


 英璘は体を横へ切りつつ、腰を深く、重々しく落とした。


 常春から見て、今の英璘は顔だけこちらを向きながら体は真横へ向けた立ち方だ。『頂陽針』で起こした風圧に対して。さらに内勁を込めて腰を落として盤石な土台を作っているため、猛烈な風の壁を縦一線に斬り裂く形で受け流し、やり過ごした。


 風が止んだとたん、英璘は爆発的に床を蹴り、一気に間合いを詰めてきた。


!!」


 床にたがねを打ち込むような踏み込みと鋭い気合一喝に合わせ、正拳が放たれる。常春はそれを『閃爍せんしゃく』でギリギリ回避。細く疾く重々しい内勁が込められた英璘の拳が、常春の残像を穿つ。


 しかし、それで終わりではない。その正拳突きから、今度は横蹴りへと繋げてきた。それも『閃爍』で回避すると、突き出した蹴り足を踏み込ませて肘打ちが発せられる。肘も避けると、再び迅速に体の向きを変えてから深々と腰を沈めつつの掌打——


 細くしなやかな肢体から発せられる、戦車のごとく重厚な内勁。ひっきりなしに連発されるその攻撃は、技と技の間にぎこちなさが無く、流麗に続く。


 今の常春には、それを避けるのに精一杯であった。


(くそっ、こんなの、一発でも当たったら終わりじゃんかよっ……!?)


 『天鼓拳てんこけん』ほどではないが、『八極震遥門』の武功は内勁の爆発力を売りにしている。たとえ一発でも当たれば、常春の華奢な体など場外に吹っ飛ばされてしまうだろう。


 死のうが死ぬまいが、当たれば終わり。


 『閃爍』があって良かったと、つくづく思う。


「どうした、攻撃して来ないのか!? 『雷帝らいてい』は逃げる方法しか貴様に教えなかったのか!」


 断続的な攻撃を仕掛けながら、英璘はそう発する。


 好き勝手言って……常春は少しカチンと来るが、自制し、回避に徹する。


 こうなったら、情けなくても逃げて逃げて逃げ続けよう。


 相手はそんな自分に攻撃を当てようと必死で仕掛けてくる。けれどそうやっているうちに、体力を消耗してくれる。疲れてきたら、付け入る隙の一つもできるだろう。


 そんな常春の考えを読んで、大きく距離を取ったとしても、その時は『頂陽針』の風圧をひたすら浴びせかけてやる。離れても近づいても自分の術中だ。


 しかし、そう上手くはいかなかった。


 もう何度目かになる正拳付きを『閃爍』で避けつつ、立ち位置を移動させた。


「うおぁ!?」


 しかし位置移動を済ませたその時には、すでに次の拳が間近に迫っていた。常春は慌ててそれも回避。


 今までで一番速い。攻撃の速度もそうだが、タイミングが速い。まるで先回りされていたとしか思えないタイミングだった。


 それでも『閃爍』は優位性を保ち続け、連発される攻撃から何度も常春を助く。


 けれど、攻撃と攻撃の間にある「猶予」が、どんどん小さくなっている。


 英璘の攻めるスピードが速くなっているのではない。

 

(読まれてる……っ!?)


 常春の「次の移動位置」が、先読みされている。


 読んだ上で、攻撃を先回りさせているのだ。


 『閃爍』は、迫っている攻撃を少しでも「知覚」できていれば、一歩踏み出す時の体の動きを極限まで省略した「最速の一歩」によって弾丸すら回避できる。拳法の技ならばなおのこと。


 しかし、「一瞬先の未来に来る攻撃」までは「知覚」できない。まだ起きていない事なのだから「知覚」しようがない。


 英璘はそこを割り出し、狙ったのだ。


 『しき』——そんな単語が頭に浮かぶ。


 彼女は読み取ったはずだ。『閃爍』の速度と、その一回の移動距離を。

 彼女は読み取ったはずだ。石蕗常春つわぶきとこはるという武術家の癖や行動パターンを。

 彼女は定義したはずだ。それらの材料から、常春の「一瞬先の動き」を。


 すでに詰め将棋は始まっていた。


「うわ! ちょ! おわ! うわわっ!」


 もはや『閃爍』だけでは心許ないと思えるほどの攻撃の連鎖を、それでも常春は『閃爍』で避けていく。


 しかし、英璘の拳が体を掠めた。

 次の攻撃では、掌打が服を巻き込んだ。

 次の攻撃では、とうとう肘打が常春に衝突した。


「っは——」


 そのとき、ことは幸運と言わざるを得ない。盤石な踏み込みから突き出された英璘の肘は、木の幹を抱くような形で円く構えられていた常春の両腕のうちの右腕に衝突。しかし常春は後方へは吹っ飛ばず、後方へとスピンしながら流された。——図らずも、常春は英璘の強力な内勁を受け流すに至ったのだ。


 目が回りそうな回転だが、威力の大半をその回転力として変換されたので、吹っ飛んだ飛距離はさほどでもなかった。常春は地に足をついてから、よろけながらも回転力を減退させていき、場外ギリギリで踏み止まることに成功した。


「あ、あぶなかったぁ……」


 ホッとする常春に向けて、侮蔑で尖った英璘の声が浴びせられた。


「私に怪我を負わせぬように勝利しようと? ふん、ずいぶんと優しいことだな。『生死文書』に署名したこの戦いでフェミニズムなど重んじている場合か?」


 遠間に立つ英璘を見据え、常春も負けじと言い返した。


「勘違いしないで欲しいんだけど、別に君のためなんかじゃないよ。『河北派』のためさ」


「何っ?」


「君みたいに躾のなってない犬みたいな娘でも、『河北派』にとっては貴重な戦力だから。そんな貴重な戦力を損いたくないっていう僕の配慮だよ。ははっ、どうかなぁ? 私情に駆られて独断専行なんかする君よりもずっと派閥思いだとは思わないかい?」


「……貴様っ」


 美麗な顔に怒りがうっすら浮かぶ。しかし、彼女はすぐに気持ちを沈めてそれを引っ込めた。瞳に湖面のごとき清冽せいれつな光が戻る。


 くそう、作戦失敗か。頭に血を昇らせて冷静さを奪ってやろうと思ったのに。


 ——彼女の言っていることは正しい。


 殺しに来た相手を殺す気で迎え撃つなど、当たり前のことなのだ。


 そんな「当たり前」に大きく反する行いを、常春は愚かにもやろうとしているのだ。


 愚かと分かってはいる。けれど、やはり心の中には、まだ殺人を強く忌避する気持ちが残っているのだ。


 認めるより他無い。自分はまだ、『武林』に染まりきっていない。


 ——でも。


 それでも、常春にだって言い分はあった。


 自分と英璘は、同じ『河北派』ではないか。


 共に手を取り合い、『求真門きゅうしんもん』という巨悪に立ち向かおうと決意し合った同志であるはずだ。


 そんな同志が、どうして殺し合いをしなければならない?


 だからこそ、常春は考えた。


 どうすれば、無血でこの試合を終わらせられるのかを。


 必死に思考を巡らせ、こちらへ近づいてくる英璘から目を離さない。


 彼女の体の隅々まで、一挙手一投足に視線を巡らせ——ある「名案」を思いつく。


 それは、下手をすると周囲から顰蹙ひんしゅくを買いかねない最低な策だ。


 けれど、やるしかない。いかなる可能性でも、可能性であるならば手を伸ばすのだ。


 そうしなければ『日常』は得られないし、守れないのだから——!


「……っ!」


 常春は一息で全身に戦意を溜め、英璘めがけて矢の如く突っ走った。


 英璘の表情にも戦意が宿る。常春と同じように敵へ突っ込んでいった。


 互いが互いに向かって突っ込んでいったため、両者の間合いはすぐに急迫した。


!!」


 英璘の正拳が重心ごと疾駆する。しかし彼女が貫いたのは『閃爍』によってできた残像。


 常春は英璘の隣を取っていた。しかしそれを『識』によって察知済みであったであろう英璘は、迅速に肘打を突き進ませる。


 当たれば吹っ飛んで負け確。先ほどのように受け流す方法ももう通用しないだろう。しかし、肘打ちというのはリーチが短い打撃だ。後方へ退いて回避するという手も不可能ではない。


 常春は『閃爍』で後方に瞬時に移動。肘打の衝突ギリギリで逃れる。


 そこからさらに『閃爍』で一歩、二歩後退。英璘と距離を開く。


「『頂陽——」


 常春が技名を発しきる前に、英璘は腰に内勁を溜め、重心を盤石に安定させる。


 だが、常春は技名を言い切らず——地を蹴って走った。


 


 英璘は目を見開く。下半身を盤石に固めていたため、とっさに素早い動きが取れずにいた。対応がワンテンポ遅れる。


 しかしもう遅い。常春は英璘へ向かって、右手を伸ばしていた。この試合で勝利できるかもしれない「可能性」に。


 そして、次の瞬間——




 もにゅん。




 その「可能性」を、掴んだ。


 「可能性」は、この世のものとは思えないほど柔和な感触をしていた。おまけにどれだけ揉んでも、元の釣鐘型つりがねがたに戻らんとする弾力も併せ持っていた。


 その「可能性」は——英璘の胸にたわわと実っていた。


「な、な、なっ……!?」


 英璘は硬直した。そのシャープな感じの美貌がみるみるうちに紅潮していき、むすめのような濃い羞恥をあらわにする。


 常春の右手が鷲掴みにしていたものは、だった。


 服越しでも分かる、奇跡のような柔らかさ。常春の指はその奇跡の柔らかさに深々と埋没していた。


 もみゅもにゅんっ。ダメ押しとばかりに、常春はさらに揉んだ。


「————っ!?」


 英璘は磁石の反発のごとく身を離した。


「お、おま、おまえ、な、なに、にゃにを、な、な、な……」


 自身の胸を掻き抱きながら、だこ同然に真っ赤になった顔を向けてくる。


 冷静さを失い、クールビューティーの仮面が見る影もなく剥がれおちたその様子に、常春は強烈な罪悪感を抱きながらも、無慈悲に言った。


「ごめん。『頂陽針』」


 拳打。雷鳴。莫大な内勁で虚空を殴り、巨大な風圧を英璘へ浴びせかけた。


「う、うわっ……!?」


 常春の卑劣な乳揉みによって集中力を霧散させてしまっていた英璘は、その風圧によってあっさりと足元を取られ、吹き飛ばされてしまった。


 落ちる——と思ったが、常春は馮英璘ひょうえいりんという武術家を甘く見ていた。


「なめるなぁぁぁっ!」


 もう一度足腰に内勁を込めてブレーキをかけ、場外へ落ちる段差ギリギリで完全停止した。


 胸を揉んで怯ませ、そこを『頂陽針』の風圧で場外まで吹っ飛ばす——そんな常春の(卑劣な)策は失敗に終わった。


 その損失は色んな意味で大きかった。勝つ可能性が一つ潰れたこともそうだが…………相手に火を点け、そこにバケツいっぱいのガソリンをぶっかけるような真似をしてしまったことも、であった。


「貴様ぁぁぁぁッ……!! よくも……よくも私にはずかしめをぉぉぉぉ…………ッ!!」


 英璘は真っ赤な顔を羞恥から憤怒にシフトさせ、殺意全開の尖った睥睨を放っていた。


 美人の怒り顔は怖い。常春はそれを今日痛感した。


「いてっ」


 さらに、頭に軽い衝撃。女物の靴が投げつけられたのだ。


「最低よ!」「このケダモノ!」「変態!」「女の敵!」「強姦魔!」「淫獣!」「『淫帝いんてい』!」「去勢しなさいよ!」「宦官かんがんになれ!」「くたばれ!」「うわこっち見た!」「見ないでよ、妊娠したらどーすんのよ!?」


 ………………『河北派』の女性陣は、たいそうご立腹であらせられた。


 麗慧はニヤニヤした笑みを浮かべている。随静ずいせいはなおも無表情。……その無表情が一番ヘコんだ。


 女性陣の非難の嵐に軽く落ち込んでいると、


「…………


 低く押し殺された死の宣告。英璘のものだった。


 英璘は観衆に向けて左手を突き出すと、鋭く呼びかけた。


「——給我刀刀を!」


 すると、黒服の観衆の中から、細長いモノが勢いよく擂台へ投げ込まれた。


 その刀を左手でキャッチすると、しゅっと長い鞘から抜き放ち、細長い刀身をあらわにした。


 常春はその刀を見て、思わず呟いた。


「日本刀……?」


 そう。その刀は、こしらえこそ違うものの、日本刀と酷似していた。


 より正確には、平安、鎌倉時代の主流であった「太刀」とそっくり。槍にも届きそうなほど長い刀身は細長い中反りの形状で、日本刀を連想させる。しかしその鍔や柄、鞘は、明らかに和風ではなく中華圏のものであることを彷彿ほうふつとさせるギラついたデザイン。


 英璘は細長い鞘を鬱陶しそうに投げ捨てると、長い刀身を下段後方に引いて構えた。


「当たらずとも遠からず、だな。——これは『苗刀びょうとう』。、と言ったところか。十六世紀、みん朝の沿海部を荒らし回っていた倭寇わこうに対抗すべく、明軍の将が倭寇の使っていた日本刀とその剣技を研究し、軍に取り入れた。その武器こそがこの『苗刀』。そして、我ら『八極震遥門』が最も得意とする武器でもある。——このようにな!!」

 

 刹那。


 常春の顎下から、白く細い光の風が急速に吹き上がってきた。


「うおぁ!?」


 『閃爍』で一歩退く。一瞬前まで頭があった位置を、逆袈裟に斬り上げられた英璘の刀身が埋めていた。


 空振ったものの、英璘の刃は止まらない。円を描きながら角度を斜めから並行に変化させ、近づき、今度は常春の首を飛ばそうと迫る。


 常春は間一髪身をかがませて回避しつつ、しゃがんだまま這うように逃げようとする。しかしまた角度を変えた刀身が襲ってきて、それをカエルのような横飛びで避ける。転がって受け身を取って立ち上がった瞬間に迫った袈裟斬りから『閃爍』で瞬時に逃れる。


「ちょっ、待っ、得物使うのは反則だよねぇ!? う、うわあああ!」


「何を寝惚けた事をっ! ! 武林の常識だろうっ! 武器を使って殺した相手が悪いのではなく、武器すら御せずに殺された未熟者が悪いのだ!!」


「そんな殺生なぁ————!!」


 武林の理不尽をまた一つ痛感しながら、常春は必死で英璘の刀法から逃れる。


 やばい。


 何がやばいって、『ことだ。


 縦斬り、袈裟斬り、逆袈裟斬りはまだ良い。右か左か、二つの逃げ道があるからだ。さらに右でも左でも、「右斜め前後」や「左斜め前後」と回避の選択肢が広げられる。


 だけど横薙ぎは非常に困る。

 横薙ぎを『閃爍』で避けるには、「後ろに退がる」という選択肢しか無い。右も左もだからだ。


 おまけに、あの苗刀という武器のリーチの長さが、その後退すらも危うくしている。


 『閃爍』が一度に移動できるのは、あくまで「」。


 「一歩」だけでは、苗刀のリーチから完全に逃れられないことがある。そうなったら、しゃがんで太刀筋の下をくぐるしかない。しかしそれもかなりの勇気とタイミングが要る。


 そんな常春の「されてイヤなこと」もまた、英璘は『識』にて把握している。優雅に回転しながら「横薙ぎ」を多用しているのがその証拠だ。


「死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」


 憤怒の気合とともに振り抜かれる刀身。一周してまた振り抜かれる刀身。


 常春は走って逃れつつ、背中の肌で……太刀筋の起こす風圧が徐々に強くなっているのを感じ取った。


(まさか……?)


 怖気とともに訪れた常春の直感は、不運にも大当たりだった。


 ——『舞葩ぶは散阴さんいん刀法とうほう』。それが英璘の使っている苗刀術の名称。


 『八極震遥門』の拳法の内勁で操る刀法。


 刃に円を描かせながら、時に緩やかに、時に激しく踊るような体捌きで戦場を荒らし回る。その風格は華美にして豪快。柔にして剛。優にして慘。一対一にも、一対多にも非常に有効な刀法である。


 何より、『舞葩散阴刀法』の最大の特徴は——


 一太刀放つたびに、使い手は一回内勁を刀に込める。それを避けられても、「円」というゴールの無い太刀筋にもう一度内勁を送り込むことで、以前の威力に上乗せできる。それを避けられたらまたさらに内勁を上乗せし……それを当てるまで繰り返す。


 つまり常春は危機から逃れているように見えて、自らさらなるリスクを積み重ねているのである。


「うわ!?」


 逃げようとした足同士がぶつかり合い、常春は前へすっ転ぶ。


 またも小さな幸運に助けられた。すっ転んだ次の瞬間、回転ダッシュしながら放たれた英璘の横一閃がすぐ頭上を通過したからだ。その刀身には、すでに常春十人を並べて一振りで輪切りにできるほどの内勁が蓄積されていた。


 回転する刃が頭上から去った瞬間にすぐさま立ち上がるが、その時すでに英璘は方向転換し、苗刀の刃は右側から円弧を描いて——常春の首に迫っていた。


 ————生と死のはざまにある刹那の猶予が、常春の思考の中で感覚的に大きく引き延ばされた。


 しゃがもうとしても間に合わない。


 『閃爍』で後ろへ退がる? 無理。だって、苗刀のリーチのド真ん中。「一歩」じゃ逃げきれない。


 それは、避けられないということ。


 それは、首がぶっ飛ぶということ。


 それは……死ぬということ。


 こんどこそ死ぬということ。


 せっかく頑張ったのに。知恵を絞って、工夫したのに。


 やっぱり、力の差がありすぎたんだ。


 この娘は、僕よりずっと長く『武林』に生き、武功を何年も学んだ熟練者だ。


 僕はどうだろう。確かに『雷帝』の技を受け継いではいるが、それをたった二つしか思い出せない。おまけに、戦いの経験も乏しい。


 勝てる見込みがこれほど薄い勝負があるだろうか。


 英璘の後方。擂台の下で観戦している『河北派』の面々。


 驚愕、戦慄、仏頂面、これから起こる惨事を見まいと目を閉じる顔……あらゆる表情がある。


 しかし、決して少なくない人間が——


 厄介者が死んでくれる。

 先師を殺した畜生の弟子が、師に代わって報いを受けてくれる。

 ざまあみろ。


 そういった感情が、言葉にせずとも聞こえてきそうだった。


「っ——」


 常春は切歯した。


 ——ふざけんな。


 何が厄介者だ。


 何がざまをみろだ。


 僕は、お前たちと同じ『河北派』の一員なんだぞ? 


 『爺さん』と過去にどういう事があったにせよ、今は『求真門』っていう共通の敵に対抗するために団結した仲間のはずだろう?


 その仲間の死を、どうしてそんな風に願えるんだ。


 お前たちの仲間意識というのは、所詮その程度なのかよ。


 ——ふざけんな。


 お前らの思い通りになんかなるもんか。


 絶対に生きてやる。


 この首が吹っ飛ばされるまでの最期の瞬間まであがいてやる。


 僕は生きる。


 生きて、新しい『日常』を見つけるんだ————!






 ————小僧。竜巻というのは、強力な剣であり、盾だ。






 その時、『声』が脳裏に生まれた。






 ————竜巻はあらゆるモノを問答無用に巻き上げ、人が作った建物すらも簡単に吸い上げる「威力」を持つ。しかし同時に、その大いなる風によって自らへの接近を拒む「防御力」も持つ。





 いや、「蘇った」というべきか。






 ————この理屈は武芸の世界にも存在する。日本の剣豪、宮本武蔵も五輪書ごりんのしょにこう書き遺した。相手を斬るための太刀筋は、そのまま相手の接近を阻む結界にもなると。これすなわち「攻防一体」。今からお前に教えるのは、その「攻防一体」の濃く表した技だ。






 『空白の二年間』の一部。

 『爺さん』……黎舒聞の言葉。

 『雷帝』と呼ばれた最強の男から授かった、『技』の記憶。

 それが、この引き伸ばされた刹那の時間で、「蘇った」のだ。




 


 ————両脚に、胴体に、両腕に、両拳に、意念に、呼吸に、『気』に、「螺旋」を加えろ。そうして生まれた内勁は、竜巻のごとくお前の全身を覆いつくす。その内勁の竜巻はドリルのごとき貫通力を拳に与え、なおかつ外部からのあらゆる攻撃を弾き、受け流せるだろう。まさしく「攻防一体」。最強の矛と最硬の盾を一技の中に兼備した、その技の名は————






「————『纏龍てんりゅう』!」




 『雷鳴』とともに、空気が渦を巻く。


 常春の全身の端から端までを、


 強大な螺旋の力場を纏いながら、神速で突き込まれた右拳。


 その右拳と、英璘の刀身が触れ合う。


 常春の右拳は破壊されなかった。


 右拳でとぐろを巻く内勁の竜巻が、刃の進行方向を斜め上向きへと強引にズラし——


 苗刀の刃が、常春の頭頂部スレスレに豪然と通過し、


「うおぁっ!?」


 英璘はその刃に蓄積されていた莫大な内勁に引っ張られ、苗刀もろとも豪然とと宙へ投げ出された。


 擂台の場外から飛び出してもなおカッ飛び続け、やがて壁に激突。コンクリート壁の破砕とその轟音を、広大な地下空間に響き渡らせた。


 破壊音の残響。


 それが空気に溶け消えてもなお、場は沈黙していた。誰も何も言葉を発さない。


 常春もまた、右拳を突き出した状態のまま、微動だにしない。


 まるで時間が止まってしまったような感じだった。


 その止まっていた時間を動かしたのは、麗慧の宣言であった。




「勝者——石蕗常春!」




 衆人の半分ほどが、声を上げた。感嘆、驚愕、称賛、そういった感情のこもった声を。


 それを耳にして、ようやく自分の勝利を実感した常春は、正拳突きの体勢を崩してへたり込んだ。


「か、勝った……んだよな…………」


 ばっくんばっくん早鐘を打つ心音と、間隔の狭い呼吸を実感しながら、常春は周囲を見た。


 英璘は擂台の上にはいない。場外負けしたのだ。


 しかし、さしたる感動も感慨も無い。あるのは「なんとか勝てた」というのしかかるような安堵感のみ。


 黒服の観衆の隙間から、英璘の吹っ飛んだ位置を見る。……砕けたコンクリートの瓦礫の中からむくりと起き上がったのは、他ならぬ英璘だった。あんな吹っ飛び方をしたもんだから死んでやしないかと一瞬焦ったが、とりあえず生きているようだ。やはり特殊な鍛錬を積んでいるから頑丈なのだろう。


 しかし、うつむいている彼女の表情は暗い。それは壁に叩きつけられた痛みの余韻に苦痛を感じているではなく、負けた事を気に病んでいるようであった。


 そんな英璘に少しばかりの同情心を抱いていると、麗慧と随静が擂台の上に登り、常春へ歩み寄る。


「お疲れ。途中は最低だったが、よく頑張ったぞ」


「途中は最低だったけれど、よく健闘したと思う」


 二人はそう労いながらへたり込む常春を助け起こしてくれた。……最低、というおまけ付きで。


 笑っていいのか泣いていいのか分からない複雑な気持ちを抱きながら擂台を降りようとした——その時だった。


「うわ!?」


 隣を歩いていた随静が、いきなり常春の前へ立ち塞がった。過程がほとんど見えない電光石火の移動。動作の緊急性を言外に表現した速さ。


 いったい何事かと思った瞬間、随静は前方から飛んできた「輝く何か」をキャッチした。


「げっ……!?」


 随静の片手が挟むようにキャッチしているモノ、それは……一本の刀だった。英璘の使っていた苗刀のようなものではなく、片手で使うタイプの中華刀。柳葉刀りゅうようとうという武器だった。


 その凶刃の冷たい輝きに、場が水を打ったように静まった。


 柳葉刀を宙へ放って回転させ、柄が下に来たタイミングで随静は掴み取る。


「——今の蛮行の意図、聞かせてもらう」


 相変わらず抑揚に乏しい声だが、それでもなんとなく非難のニュアンスが感じられた。


 随静の静謐せいひつな黒眼が見つめていたのは、一人の青年だった。常春の知らない顔である。


「……こ、こんな勝負、無効だ。俺達は認めないぞ、穢らわしい『雷帝』の弟子なんてっ……!」


 それでも、憤りと屈辱感で震えた今の言葉で、黎舒聞に恨みを持つ門派の一員であることだけは分かった。


 ……柳葉刀を投げたのは彼であると、常春は察した。


「おい、今のは何だ!? 無礼だろう!」


 かと思えば、今度は全く違う角度から声が聞こえてきた。


「卑怯者め! そこまで『雷帝』の弟子を入れたくないか!」


 また別の角度から。


「抜かせ! そもそもこのような勝負で実力が測れる訳が無い! やはりこの小僧は追い出すべきだ!」


 また別の角度から。


「だからといって、健闘した者に武器を投げるとは何事だ!」


 また別の角度から。


「黙れ! とにかく反対だ反対!」「うるさい! 手前勝手な私怨で秩序を乱すな!」「手前勝手とは何だ!? 我が先師が黎舒聞にどのような殺され方をしたのか、何も知らぬ分際が!」「そうだ! あんな汚らしいガキ、『河北派』には不要だ!」「それになんだ、あのふざけたアニメキャラの刺繍は!? 河北派を舐めているのか!?」


 まるで数滴の雨粒から一気にどしゃ降りに変化するかのように、論争が膨れ上がっていく。


 怒声があちこちから飛び交う。


 再び、賛成派と反対派の論争に逆戻りしてしまった。


 しかも、今度は先ほどよりもっと険悪だ。今にも双方手を出しかねない状況である。


 どうしていいか分からず、常春が呆然と立ち尽くしていると、




「————鎮まれぇぇぇぃっ!!! この痴れ者共がぁッ!!!」




 まさしく『天鼓拳』を使う時に起こる雷鳴のごとき怒号が、場の空気や壁をビリビリと震わせた。


 全員が怯んで口をつぐんだ。しん……と沈黙するとともに、全員の目がただ一点を見つめる。


 霍槍傑かくそうけつだった。


「…………納得はいかんが、この小僧は、力を示した。我が『八極震遥門』最強の門弟を、正面から破ったのだ」


 重々しく、それでいてどこか悔しげに口に出された槍傑の言葉。


 この『河北派』でも指折りの実力を誇る武芸者である彼の発言は、それなりの効力を発揮した。反論する者は誰もいない。


 それきり、槍傑は喋らなくなった。





 こうして、常春は『河北派』に残ることが許された。


 しかし、それを心から歓迎する者は、少なかった。




>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>



 『苗刀びょうとう』は、るろ剣の雪代縁が使っていた「倭刀」と同じもの。

 現実の武術だと、劈掛ひかけんで使う。ただし、るろ剣みたいに柄頭を踏み台にしたり二段ジャンプしたりはしない。

 虎伏絶刀勢。




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