《13》

 あの老人と美女と鉢合わせるのが嫌だったので、常春とこはるは口論から約十分の時間差で『万年青おもとどう』を後にした。 


 現在午後七時四十分。夕陽の茜色はすでに西の彼方へと押しやられ、夜の群青が空を占めていた。


 平和通りを抜けて池袋駅前へ達し、そこから上り屋敷通りを沿って、常春は愛すべきボロアパート「はるかぜ荘」を目指していた。


 住み屋へ近づくほど、灯りが少なくなっていき、人通りも乏しくなっていく。


「難しいもんだよなぁ……いろいろと」


 常春は歩きながら、先ほど起こった口論の内容を思い出していた。


 『河北派かほくは』に入ればひとまず安全。常春はそう思っていたが、やはりそこは普通の社会とは違う掟や法則が支配している『武林ぶりん』。入ったら入ったで、別の問題が出てくる。


 そもそも、挙国一致で動くアリやハチの群れではなく、異なる人格と思考を持つ人間の群れである以上、問題が一つも起こらないはずがないのだ。


 人類の歴史は、いかに集団の動きに秩序を持たせようかという試行錯誤の歴史でもある。だから宗教が生まれ、民族意識が生まれ、帝政が生まれ、共産主義が生まれ、民主主義が生まれたのだ。

 そして、そのどれもこれもが上手くいった試しがない。必ず何らかのほころびが生まれ、そこからどんどん亀裂が広がり、やがては崩壊する。そして闘争が起こり、新たな社会システムが生まれ、それもまた壊れて別のものに生まれ変わる。蛇の脱皮のごとし。


 「恒久の平和」というものは、日常系アニメの中だけのものなのかもしれない。


 いや、その日常系アニメの世界観だって、その世界の「平和な時期」だけを切り取って描いているだけなのかもしれない。

 その世界観の「平和な時期」さえも、過去におびただしい屍山血河しざんけつがを積み上げた果てに得たものなのかもしれない…………これ以上の考察はよそう。日常系アニメが嫌いになりそうで怖い。アイデンティティクライシスはもう御免だ。


 いっそ、人間は皆、独りぼっちの方がいいのかもしれない。


 一人しかいないのなら、他人とケンカすることも、殺し合うこともない。

 実現できるかは別として、誰もいない世界に逃避するというのは、ある意味では究極の自己防衛だ。味方はいないが、敵もいないのだから。


 ——けれどそれでは『平和』は手に入っても、『日常』は手に入らないだろう。


 『日常』とは、平和なだけではない。隣で一緒に笑い合ってくれる大切な人がいるからこそ、『日常』なのだ。それは人に溢れた世界でないと決して手に入らない。


 一方で、人だらけの世界だと、その『日常』を壊そうとする人間も出てくる。


 ならばどうすればいい? 決まっている。『日常』を守れるくらい、強くなればいいのだ。


 それは、永遠には続かないのかもしれない。単なる延命措置なのかもしれない。永遠に続いたモノなど歴史上一つも存在しない。代表的なものが社会体制だ。千年以上の歴史を持つとされるこの日本でも、過去に何度も社会体制の変化を起こしている。


 けれど今この時、手を繋いでいる人達のことだけは、守れるはずだ。『日常』とは社会体制ではなく、人同士の繋がりそのもののことなのだから。


 一度失われたそれをまた取り戻し、今度こそ守ることこそが、『河北派』に入った理由なのだから。


「……よし!」


 自分の目的を再認識し、気が引き締まる思いをした。


 ならこれから行うべきは、先ほどの稽古のおさらいだ。


 武功はまだ学んでいない。見取り稽古のみだ。けれど常春はきちんと「得た」。


 『しき』。


 武功の鍛錬を通して「ミクロ体内の認知」を高め、それによって「マクロ外界の認知」を高める。そうして得ることのできる「情報から世界を把握する能力」。


 常春だって八歳から十歳まで、ずっと武功の修行を続けてきたのだ。

 その記憶はまだちょこっとしか戻っていないが、それでも「『気』と肉体の操作」という工程を何度も繰り返したという事実は、「体の記憶」として残っているはずだ。


 つまり『識』を得るための「土台」はすでに持っている。


 上り屋敷通りの線路沿い。線路と通りを隔てるフェンスを背にして立ち止まり、常春は目を閉じた。

 まぶたが降りて、真っ黒になる世界。

 しかし、耳は、皮膚は、依然として「外界」を知覚している。


 ——風。冷たいけど、冬ほどではない風。ややぬるめ。春の風。

 ——洪水のような音が背後を横切る。金属の擦れる音。ごとん、ごとんという木箱が落ちるような音がリズミカルに聞こえる。電車の音。その音源は左から右へ、つまり池袋駅に向かっている。

 ——電車が去る。残響。微風。それらも消える。静まり返る。

 ——またも風が吹く。けれど先ほどの風とは風上が違う。電車も、自動車も通っていない。しかし風が吹く。不自然な風の流れ。

 ——その不自然な風の流れは、高速で移動している」が、空気を掻き分けて生まれている風。




 ——その「塊」は、




「っ!」


 常春は目を閉じたまま、今まさに衝突しそうな「塊」の延長線上から飛び退いた。

 地がビリリと微かに震えると同時に、一瞬前に常春の立っていた位置の空気を、「塊」から俊敏に突き伸ばされた「拳」が穿ち抜く。


 「拳」。


 つまり「塊」ではなく「人」。


 目を開けた。


 


 そこには、腰を盤石に落として正拳を突き出した、一人の麗人の姿があった。




「あんたは……馮英璘ひょうえいりん…………!?」


 暗くても分かる。鋭く整った美貌の横顔、ぴっちりした河北派の黒服が描き出す細くしなやかな曲線美、隙の無い雰囲気。


 英璘はふんっ、と不快げに鼻を鳴らす。


「覚えていてくれて大変結構。あの世で貴様の師への土産話になるからな」


 その言葉を合図にしたかのごとく、建物の影から人影が次々と出てきた。


 一人、二人……いや五人、六人!


 常春はあっという間に、英璘を含めた合計七人の黒服に囲まれた。


 全員『河北派』である。


 多勢に気圧された常春だが、震えた声でどうにか質問ができた。


「……こんなに人数集めて、僕をどうするつもり…………?」


 英璘はあっさりと、酷な宣言を言い渡した。


 あまりに軽く述べられた死刑宣告に、常春の中の怯えは憤慨ふんがいに変わった。いくらか饒舌じょうぜつになれた。


「何馬鹿言ってんだよ! 僕たち、同じ『河北派』じゃないか! 『求真門きゅうしんもん』と戦うために、力を合わせて戦うための仲間じゃないのかよ!? こんなこと、していいと思ってるのかっ!?」

「思わん」


 またもあっさりとした返答。


 だったら——と反論しようとした常春の機先を制する形で、英璘が再び言った。


「だが、貴様が河北派の「危険分子」であることもまた事実。我が師父、霍槍傑かくそうけつの見解は正しいのだ。——貴様の人格がいかに善良であったとしても、貴様はやはりあの悪名高き黎舒聞れいじょぶんの弟子。奴は河北派の中の門派だけでなく、『山東派さんとうは』『南少林みなみしょうりん聯盟れんめい』加盟のいくつかの門派からも遺恨を買っている。河北派の中に貴様が存在しているだけで、内憂と外患を同時に作ってしまうだろう。……とはいえ、師父も河北派の秩序を保つべく、味方殺しを肯定するわけにはいかない。だからこれは『八極はっきょく震遥門しんようもん』の総意ではない。


 英璘の表情から、容赦の色が抜け落ちた。


「『求真門』の刺客による急襲——それが貴様の死因だ石蕗常春つわぶきとこはる。恨み言なら、あの世でいくらでも貴様の師にたれるがいい。——片付けろ!」


 英璘の号令とともに、包囲網が一気に縮まった。


 今なお納得がいかないが、応戦しないわけにはいかなかった。


 常春はフェンスに沿って横へ思いっきり走った。目指す方角は池袋駅のある北。平和通りにある『万年青堂』まで戻るためだ。あそこは『龍霄門りゅうしょうもん』の本拠地であるため、逃げ込めばこの連中も殴り込めやしない。


 しかし、黒服二人が素早く先回りし、退路を塞いだ。


 後方からは、英璘ら残り五人が押し迫ってくる。


「こんの——『頂陽針ちょうようしん』!」


 発声。その技の名に内包された『気』の練り込みが自動で行われ、膨大な『内勁ないけい』を宿した拳が突き進む。空気を爆速で圧し、壁のごとき風圧と『雷鳴』を前方へぶちまけた。


「うあっ……!」


 空気の壁に押され、後方へまとめて流される五人。


 この調子で北を塞ぐ二人も吹っ飛ばしてやる——そう思って振り向いた時には、すでに拳が常春の胴体の薄皮一枚の距離まで急迫していた。


 速い! しかし「拳が来た」と


 その拳は、残光のごとき常春の残像を打ち抜くに終わった。常春はそんな彼の真横に立っていた。——『閃爍せんしゃく』。弾丸だろうが雷だろうが、「知覚」さえできていればそこからの回避が間に合う「最速の一歩」。

 

 今度は二人目の攻撃がやってきた。大地にたがねを打つような深い踏み込みに付随して打ち出される肘。それも『閃爍』で瞬時に回避。


 吹っ飛ばされた五人が、猛スピードで戻ってきた。その五人も、常春への攻撃に加わった。


 拳、掌、肘、蹴り、あらゆる攻撃が不規則にあちこちから飛んでくる。さすがは同門、ハエのように密集しながら技を出しても、味方を間違えて打ったりはしない。ごちゃごちゃに攻めているようでいて、調和がとれている。


 けれども常春には当たらない。


 攻撃を知覚し、『閃爍』で避ける。


 それだけで、断続的に続く打撃すべてに空を切らせた。


 いける。


 確かに数の上では不利であるが、『閃爍』の回避能力はその不利すら埋め合わせている。このまま回避に徹すれば、逃げ切れる。


 もう何度目かの『閃爍』で、回避と同時に敵の集まりの中から抜けた。そのまま北へ向かって走り出そうとした。


「させんっ!」


 しかし、英璘が鋭く腕を振り上げた瞬間、常春の右足に何かが絡みついた。


「うわ!?」


 常春は右足を引っ張られてつんのめる。右足には、先端に小さな分銅ふんどうがついた細い縄が巻きついていて、その縄は英璘の腕と繋がっていた。


 早くほどかなきゃと右足へ両手を近づけた次の瞬間、


「が————」


 巨岩に寄りかかられたような衝撃が、常春の土手っ腹にぶちこまれた。


 深く踏み込みながらの肘。放ったのは黒服の一人だった。


(重いっ…………!!)


 今まで食らった中で、一番強烈な内勁だった。

 打たれた瞬間、全身の血液が一気に沸点に達し、血管が急膨張したような感じがした。痛みを通り越した「気持ち悪さ」。


 常春の小柄な体が大きく跳ねた。飛んだ先の建物のコンクリート外壁にぶつかってバウンドし、地面にうつ伏せとなった。


 起き上がろうと四肢に力を込めるが、うまく立てない。……痛過ぎる。体にうまく力が入らない。気力を削り落とされた気分だ。勝手に涙が目に浮かぶ。


 うつ伏せの常春の元へ、英璘は音も無く歩み寄りながら言った。


「『八極』は「全世界」を、『震遥』は「彼方まで震わせる」を意味する。『八極震遥門』はその名にたがわず、長い間中華随一の内勁の威力を誇ってきた門派だ。……貴様の師が現れるまではな」

 

 起きなきゃ。起きて何とかしなきゃ。常春はジンジンと脈打つように痛む全身に鞭を打ち、震えながら立ち上がった。しかし、痛みのせいで途中でよろける。


 そんな風に足掻こうとする常春へ、英璘は憐憫の目を向け、


「恨みたければ恨んで構わん」


 腰を落とし、右拳を脇に構えた。


 前に構えた左手の指先を照門代わりに、常春を真っ直ぐ見据える。


絶招ぜっしょう——」


 『絶招』。常春はその意味を、帰る前に兄弟子達との会話で聞いていた。


 必ず殺す技。切り札。死の呪文。形勢逆転の奥義。マダンテ。……あらゆる代名詞を持つ技。


「——『雷殛拳らいきょくけん』」


 死んだ。


 そう思った。




「絶招————『太極盤転たいきょくばんてん』」




 その時、もう一つ「声」が聞こえた。


 稲光を幻視させるほど凄まじい蹴り込みで瞬時に接近し、アスファルトに広いひび割れを形成するほどの踏み込みに交えられた英璘の拳。

 山のような重さと光のような疾さ。そんな矛盾を兼備したその拳の先に待ち構えていたのは、胡蝶のように構えられた小さな両掌。


 英璘の拳は、通常ならばその両掌を打ち砕いて無数の肉片にするはずだった。——しかし、そうはならなかった。


 その両掌に込められた内勁は、まるで巨大な綱を数千本もの繊維に分解するがごとく、英璘の莫大な内勁を


 『雷殛拳』は完全に力を失い、両掌は傷一つ負わぬまま拳をしっかり捕まえていた。


「……間に合って、よかった」


 両掌の主——藩随静はんずいせいは、やや安堵のにじんだ銀鈴の声で独りごちた。


 一方、奥の手を無効化された英璘は、目を見開いていた。


「馬鹿な……なぜここがわかった?」


「常春が起こしてくれた『雷鳴』のおかげ。それで場所が分かった。それが無かったら、わたしは今なお師父の晩酌の酒探しをしていて、弟はあなたに挽肉にされていた」


 随静は両掌を解くと、英璘の頬へ平手打ちをした。


「これは明らかな不正行為。即刻しかるべき場へ報告して、厳正に対処してもらう。徹底抗戦も辞さない。——可愛い弟に手を出されて、わたしは今、大変怒っている」


 怒っていると告げた随静の顔は、やはり無表情であった。




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 ごちうさ世界、WW2の枢軸国サイドが勝った世界線説。

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