《12》
午後七時に稽古が終わり、
武功の上達のコツや武林のシキタリなどといった話だけでなく、好きな食べ物とか、好きな音楽とか、好きなVtuberとか、そういった平凡な話題も普通に出てきた。
こうして話していると、彼らもやはり「普通の人」なのだと実感する。
ここ数日落ち込んでばかりだったが、久しぶりに常春は楽しい思いをさせてもらった。
彼らとなら、仲良くできるかもと思った。
この『龍霄門』という新天地で、また『日常』を築けるかもしれない。そんな期待を抱いた。
しかし、やはり今常春が関わって世界は、『
確かにこうして師兄弟と楽しくやっているが、やはり彼らとは『武功』というモノを中心にして繋がっている。
であれば、常春の『日常』を揺るがすものもまた『武功』なのである。
兄弟子姉弟子らに別れを告げ、『万年青堂』の一階に上った常春は、玄関の方向から聞こえてくる「怒号」を耳にした。
それは、『武林』という社会がいかに一筋縄ではいかないものかを、常春に思い知らせるものだった。
「一体何を考えているのだ貴様はっ!? あのような危険な男の弟子を、勝手に『
屋内の壁がビリビリ震えるほどの太い怒鳴り声が、玄関の方から聞こえてくる。
「その言い方は少し誤っているかな。私は『河北派』という派閥に『
それをやんわりと諭す声は、麗慧のものだった。
「それを屁理屈だと言っているのだ!! 貴様は派閥の利益というものを軽んじているッ。自分の権利ばかりを主張し、あの餓鬼を迎え入れるという行為の危険性から目を背けているではないか!!」
怒鳴っている声は男の声だ。老いつつも若者にも負けぬほどの精気を保った、そんな響きを持っている。どことなく『爺さん』……
「いや、さっきから何度も言っているじゃないか。危険なのは彼の師父であって、その弟子である彼自身はいたって善良な子なんだってば。河北派制服にアニメキャラの刺繍を入れちゃうような可愛いアニオタだよ」
普通の人なら萎縮させられそうなその声をぶつけられても、返す麗慧の言葉はやはり柔らかかった。
そんな彼女が話している内容は、明らかに常春のことだ。
他人事ではないと感じた常春は、部屋の曲がり角での盗み聞きをやめ、玄関に近づいた。
「あ、あのー……」
おずおずと呼びかけたアニオタを、上がり
ひっ。
常春は怯えそうになる。三人中二人、つまり玄関の外に立つ二名の男女の視線が、すさまじく厳しいものだったからだ。
かたや、骨太で大柄な老人。かたや、線が細く長身な美少年……いや、綺麗な女性的輪郭を描く胸の膨らみとくびれ、臀部から察するに、女性か。
そんな二人の共通点は、いずれも『河北派』の黒い制服を着ていたことだ。
まず老人の方は、常春よりも頭一つ分くらい背が高かった。
その頂点に乗っかっているのは、険しい表情を形作る深いシワが傷跡のごとくいくつも刻まれた、精気溢れる顔立ちである。
天に向かって炎のごとく逆立った白髪に、鋭角的な輪郭の顎。真っ白な口髭と顎髭は剣のごとく尖っていた。
フォーマルな『河北派』の黒衣に包まれた体は一見細身に見えるが、その細い中にぎっしりと詰まったような、奇妙な威圧感のようなものを感じさせ、見た目以上に大柄に感じられた。
もう一人の女性の方は、常春と同い年か、少し上くらいの年齢だった。
「美少女」ではなく「麗人」という言葉の方がしっくりきそうな、ユニセックスな容貌。
ブラウンのショートヘアの前髪を右こめかみから分けており、その鋭く凛とした美貌をあらわにしていた。しなやかさと強靭さを感じさせる豹じみた曲線美をくっきり浮かび上がらせているのは、ぴっちりとしたサイズの河北派制服。中華服というよりもビジネスパンツスーツを連想させる。
「あ。ちょうど良かった。今、君の話をしていたところなんだよ」
麗慧は井戸端会議の途中で横切った息子に声をかける主婦みたいな軽いノリで、常春へ呼び掛けた。手招きまでしている。
けれど常春は、できれば関わりたくはなかった。
客人二人は明らかに、自分に対して敵意剥き出しな視線を送ってきている。
しかし常春の靴は彼らのいる玄関だ。外へ出たければまず玄関を通過しなければならない。そんな常春を、彼らは逃してくれなそうな気がした。
それに、彼らは自分のことを話していたのだ。
ここまで来たら、何の話をしているのか気になるのが人の性だろう。
「…………貴様が、
老人の方が、何かを押し殺したような声でそう問うてきた。
——えっと、これって……正直に名乗ったら、殺されたりしないんだろうか? いや、大丈夫か……だって、同じ『河北派』っぽいし。
「はい。そうですけど」
そう肯定すると、
常春に注がれていた二人の視線が、レーザー光線のごとくその圧と熱量を強めた。
「ほらほら、圧を出すな、圧を出すな」
だがそこで麗慧が割って入り、二人のメンチビームを代わりに受け止めてくれた。
「師父……この人達、誰ですか…………?」
常春はすがるように尋ねた。
麗慧は「ああ、まだ紹介してなかったな」と手を叩き合わせると、言った。
「彼らは『河北派』所属門派の一つ『
女性の方——馮英璘は、女性としてはやや低めな声で反発した。
「我が師を侮辱するか! 貴様だって『
「……構わん。いちいち噛みつくな」
老人——霍槍傑が低く命じると、英璘は「はっ! 申し訳ありません」と鋭く返事をし、それから一言も発さなくなった。
槍傑はさらに続けた。
「……話を戻そうか、蘇麗慧。その小僧が、あの畜生の武功を身に宿しているというのは、本当の話か?」
「おうとも。この子は紛れもなく、黎舒聞の弟子だよ」
麗慧がそう軽やかに肯定すると、目の前の老夫はさらに気迫を強めて、低く唸るような声で言った。
「もう一度言おうか——貴様、気は確かか?」
「確かだとも。ボケは少しも入っちゃいないよ槍傑。そのおっかない顔でどう凄まれても私の意志は変わらない。この子は、石蕗常春は我々にとって必要な存在だ。『
「戯言をッ。こんな餓鬼に我らが劣ると言いたいのか。このような餓鬼の力を借りずとも、河北派は我らの力のみで守ってみせる」
「でも、強い戦力は一人でも多い方がいいはずだろう? 我々だって、いつポックリ逝っちまうか分からない。戦いで死ぬことがなくとも、お互いにもういい年だ。確実に若い連中より早く寿命で死ぬ。だからこそ、前途ある若き力は必要だとは思わないかな」
「ふん、河北派をみくびるなッ。そんな小僧より武才にあふれた若者など、たくさんおるわい。貴様は河北派を信じていないのか?」
「もちろん、他の若者も信じているさ。うちの可愛い
「……ああ言えばこう言いおってからに。口の減らない女め。とにかく、儂の意見は依然変わらぬ。——その小僧を『河北派』に迎え入れるのは反対だ」
常春はようやく、口論の方向性が読めた。
彼らは、確かに同じ『河北派』だ。しかし彼らはどういうわけか、常春が河北派に加わることを拒否している。
いかに大派閥『河北派』といえど、見方を変えれば複数の異なる武功門派の寄せ集めだ。門派が違い、崇める先師が違う以上、思想面や認識面で差異が生じるのも無理からぬ事かもしれない。
だが、それだけでは、常春の河北派入り反対の理由にはならない。
わざわざ麗慧の家に押しかけてまで反対を表明したのには、「それなりの理由」があるはずだ。
その「理由」は、麗慧が肩をすくめながら答えてくれた。
「……槍傑、君の意見はこうだったな。『黎舒聞に恨みを持つ門派は、武林に山ほど存在する。『河北派』の中にも、黎舒聞に遺恨を残す門派が多い。そんな黎舒聞の弟子を『河北派』に招いてしまえば、派閥内に亀裂を生み出すだけでなく、他の派閥による『河北派』への反発心も強まり、敵を増やしてしまいかねない』だろう? けど、本当にそれだけが理由かい? ……君自身の「私怨」も、秘めたる理由の一つなんじゃないかい?」
驚愕で息を呑む常春を一瞥してから、目の前の老師は黒いモノを押し殺したような低い声で言った。
「…………ああ、否定はせぬッ。儂は確かに黎舒聞が憎い。あの
あらゆる意味で衝撃的な内容だった。
『爺さん』が武勇伝を作り上げた犠牲者の弟子が、今目の前にいるというのも驚きだが、それ以上に——
「黎舒聞の師匠が……あなたの師匠っ?」
「そうだよ常春。君の師匠は……もともとは『八極震遥門』で武功を学んでいたんだ。その武功をもとにして、今君が使っている『天鼓拳』という武功を作り上げたのさ。つまり、槍傑と黎舒聞は師兄弟——」
「同列に並べるなぁっ!!」
雷が落ちたような槍傑の怒号に、常春は跳び上がりかけた。
「奴はその粗暴な人格ゆえに、儂が入門する前に『八極震遥門』を破門されている! ゆえに儂に
落ち窪んだような瞳の奥に光る
そうだ。黎舒聞……『爺さん』は、多くの武術家を試合で殺してきたんだ。『爺さん』に恨みを持つ人が、いないわけがないのだ。
今まで常春は、黎舒聞の武芸の強大さばかりを聞かされてきた。
けれど今、初めて、黎舒聞という武術家の「負の遺産」を見せつけられたのだ。
——数多の憎しみという「負の遺産」を。
「だが、それだけではない事もまた事実ッ! この小僧を『河北派』に迎え入れれば、戦力と技術を手にする代償として、派閥内に決して小さくない損害をもたらすことになりかねん。だから儂は反対する、断固としてなッ」
なおも反対を強く口にする槍傑。
それに対して麗慧が向ける表情は、諦観のような感情がにじんだ微笑だった。
「……確かに君の意見はもっともかもしれん。しかし、私も自分の意見を曲げるつもりはない。この子は『河北派』の未来のために必要な存在だ。我々とて、永遠に『河北派』を守れるわけではないのだからね。……すまないが、この辺でお引き取り願いたい。ここの家主は私だ。その意味が分かるな?」
その有無を言わさぬ口調に、槍傑は眉間のシワを数本増やす。
ギリギリと握り拳を作りながら「……また来るッ」と
ずっと沈黙を守っていた英璘も、その後に付き従う。だが彼女は首を振り返らせると、刃物の切っ先を想起させる
ひっ、と怯んだアニオタを見て多少
二人の後ろ姿が見えなくなると、麗慧が済まなそうに言った。
「すまないね。お堅いが悪い奴じゃあないんだ。ただ……君の師匠と因縁があるみたいでね」
「そう、ですか……」
常春は数秒置いてから、再び、弱音を吐くようにボソリと言った。
「やっぱり、『爺さん』は……たくさんの人に恨みを買っているんですね」
「……ああ、残念ながらその通りだ。『雷帝』は確かに最強だったが、その「最強」に人格が伴っていなかった。私や槍傑のように『雷帝』と直接関わった世代の武人は日に日に少なくなりつつある。が、儒教的なタテの徒弟制度は、技だけでなく、師の憎悪さえも伝承してしまうことが多い。君を快く思わない門派は、きっと少なくはないだろう」
「僕は……ここにいて、いいんでしょうか」
「いいんだよっ」
ごしごし、と、麗慧は常春の髪を乱暴に撫で回す。
「安心したまえ。誰が何と言おうと、君はもう立派な『龍霄門』の門人だ。誰にも文句は言わせないさ。君は安心して、自分を高めることに専念しなさい。いいね?」
そんなことさらに明るい態度を見せる麗慧に、常春はようやく微かな笑みを取り戻し「……はい」と口にした。
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