《9》
中国人というのは、異国の地において、同胞同士の『コミュニティ』を作ることが多い。
コミュニティの基軸は、同じ中国人である、というだけではない。同じ地域、同じ方言、同じ省など、さまざまな基軸でコミュニティを作る。
近代中国の秘密結社が盛んに生まれたのは、福建省や広東省などといった中国南方だ。苦力も南方出身者が多数を占めていた。同郷で、なおかつ方言も同じくしている者同士、力を合わせて苦境を乗り切っていたのである。
そういった考え方は、昨今の『
『
だからこそ、日本を含む世界各地の小規模門派は『派閥』を結成した。寄り集まって塊となることで、『求真門』に手を出しにくくするためだ。
河北省出身門派——そんな共通点を「団結の軸」にして生まれたのが『河北派』という派閥である。
ただ寄り集まっただけではない。河北省とは、昔から武林における激戦区だった地域だ。ここで数多くの門派と技が生まれ、多くの門派間抗争が起き、多くの血が流れた。そんな荒々しい土地柄によって磨かれた河北の武功は、他の地域のものに比べて飛び抜けて実戦に強い。
ゆえに『河北派』は個々の力が優れていて、単純な戦闘力だけで見れば『求真門』にも引けを取らない。もし双方が開戦となれば、どちらか片方が壊滅する……その事実が抑止力となり、求真門もうかつには攻められない。
常春が今から入門しようとしている『
その『龍霄門』の拠点であり、
池袋駅北口から真っ直ぐ北上した先にある平和通り。その両端から伸びる脇道へ入って少し進んだ所で、随静の足は止まった。
「ここ」
という簡潔な一言で示された場所は、どこにでもありそうな鉄筋コンクリートの二階建てであった。「Closed」という札の掛かったガラス張りドアの上には、『万年青堂』という大字入りの扁額が構えられていた。
「えっと……マンネンアオ堂?」
「
「何かのお店?」
「
随静は言うと、ガラス張りのドアに入らず、建物の後方へ回り込んだ面にあるもう一つのドアの前へ来た。
こちらはガラス張りではなく金属で、インターホンもある。どうやらこちらが「家」としての玄関のようだ。ドアを開いて中へ入る随静についていき、常春も入る。
途端、生活感が匂いとして鼻腔をくすぐった。
フローリング張りの床を靴下でひたひた歩く。
広い家ではないが、狭さや歩きにくさは不思議と感じない。不必要なものが置かれていないからだろう。良く言えば無駄が無い、悪く言えば殺風景。
唯一飾り気を感じるものといえば、廊下の壁に貼られた写真くらいか。やや古い写真から新しい写真まであり、それらに写っているのは、いずれも麗慧を中心に据えた集合写真だった。
「この写真って?」
「『龍霄門』の門人の集合写真」
随静の簡潔な答えを聞いてから、常春は立ち止まってそれらへ視線を走らせた。
常春が探しているのは、随静の写った写真だ。
……あった。今と全く変わらない幼くちっこい無表情の随静が、師父の隣にくっついて写った写真。
右下に書いてある年は、今から四年前。随静が麗慧に師事したのは五年前だから、師事して一年後ということになる。
その写真を一番左端に置き、そこから右へいくたびに写真の撮影年月がさかのぼられていく。
——あれ?
常春はあることに気づく。
右端にある一番古い写真は、三十年前のものだ。
それら全ての写真に全て写っている麗慧の姿は——三十年間全く変わっていない。
三十年もあれば、多少老けたりするものだろう。しかし写真の中の麗慧は、その美貌を不朽に保っている。シワひとつ浮かんでいない。
明らかに「若々しい」という言葉では片付けられない。これではまるで——
「……ふああぁ、随静、帰っていたのか…………あふあふ」
それ以上の思考を、横合いからかけられた欠伸混じりの声が打ち切らせた。
知っている声だ。ここの主……麗慧の声である。
「あ、おはようございま————」
常春は振り向いて挨拶しようとして、脳味噌がフリーズした。
そのブラウンがかった長い黒髪にはややボサボサ感があるが、その下にある知的で親しみやすそうな美貌から、彼女が『龍霄門』の
問題は、その顔から下が、黒いショーツ以外衣服らしきものを何一つまとっていない状態だったことだ。
「おぉ、君か、常春。しばらくだねぇ……って、会ってないのは三日だけか、ははは」
一方、麗慧はそれに気づいていないかのように、明るく笑った。
「見てはだめ」常春の視界を、随静の手が遮る。けれどもその手指の間から、均整の取れた肢体とか柔肌とか膨らみとかが見えてしまう。
「……師父、今起きた?」
「あふあふ……まぁねぇ。昨日ヨソでちょっと飲み過ぎたせいかな。体が重たくてねぇ」
「前から言っているけれど、家の中で半裸で動き回る癖は直したほうがいい。まして、今日は『
随静の声は、普段のように平坦ではなく、微かにだが柔らかさがあった。親しい間柄であることが伝わってくる。
麗慧はかんらかんらと笑った。
「私は気にせんぞ。もう精神的にはババアだからなぁ。思春期男子のスケベ心にも理解があるつもりだ。少年も、視姦する程度なら許そうじゃあないか。お触りはダメだがな」
「……遠慮、しときます。あと、服は着るべきかと」
「ふんむ。では仕方ないな。しばし掛けて待っていたまえ」
麗慧はそう言ってきびすを返そうとして、
「師父、その左胸の絆創膏は?」
随静からその問いをかけられ、止まった。
ちっちゃい手指の間から見える(見えてしまう)麗慧の半裸。その左の乳房——常春と随静から見て右——の上部に、確かに大きな絆創膏がべったりと貼ってあった。
麗慧はぴくっと反応すると、恥ずかしそうに乳房を隠した。……なんで裸であることじゃなくてソコを恥ずかしがるんですか、と常春は心の中でつっこみを入れた。
「ああ、昨日ちょっと虫に刺されてしまってね」
「大丈夫?」
「平気だよ。ありがとう、随静」
にへらと笑うと、麗慧は今度こそきびすを返して部屋の奥へと戻っていった。
常春は随静にリビングへ案内された。ダイニングテーブルを囲う椅子の一つに遠慮がちに座り、これから自分の師となる人の着替えを待つ。
しばらくしてやってきた麗慧は、最初に会った時と同じ黒衣をまとっていた。ぴっちりして体の線が浮かぶ詰襟の中華服と、足首まで丈のあるスリット入りのロングスカート。ブラウン混じりの長い黒髪も櫛を通されて綺麗に整えられていた。あと、右手に一つの紙袋をぶら下げている。
常春は質問を投げかけた。
「その黒服って、やっぱり制服か何かですか?」
「まぁ、正解かな。これを着ていれば、同じ河北派であることが分かる。無論、仲間であるか否かを区別する方法はこれだけではないが、こういう共通の服装を作っておいた方が仲間意識を多少は助長できる。もともと河北派は異なる武功門派同士の寄り合い所帯だから、掲げている戦闘思想も、崇める先師も異なる。そういった「違う個性を持つ者」同士をうまく固着させるアイデアの一つだよ」
常春は随静と麗慧の黒服を見比べてから答えた。「それにしては、服の形がそれぞれ違うみたいですけど」
「デフォルトのデザインを大きく逸脱しないのなら、多少の改造は認められているんだよ。私が今着ているのと随静の制服は、両方とも私が改造したものだ。……見てごらん、うちの随静ちゃんを。「
「急におっさんみたいなノリにならないでくださいよ…………まぁ、確かによく似合ってますけど」
常春のおずおずとした答えに、随静はやはり淡々とした口調で「ありがとう」と返した。ちょっと恥ずかしい思いをして褒めたのに、なんか悔しかった。
「ところで「唐装」ってなんですか?」
「今私達が着ている、垂直に紐の
「は、はぁ……」
話がよくわからない常春は、とりあえず生返事くらいはしておく。
「そして、これが君の分」
麗慧は、手に持っていた紙袋を差し出してきた。
受け取ると、中には黒服の上下セット。
「これって……」
それらを広げてみると、それはやはり河北派の制服であった。詰襟で長袖の「唐装」に、長ズボン。……これが「デフォルト」なのだろう。
「三時になる前に、これに着替えておきたまえ——いよいよ君と我々が、家族として正式に結ばれる時だよ」
中華武功の伝承制度は、祖先崇拝を基準とした儒教的観点をベースに構築されている。
先師を崇め、師を「親」とし、弟子を「子」とする。そんな擬似的親子関係を構築し、強固な繋がりを作り出す。
このような関係性を作る理由は、その門派の伝承を守るためだ。
その門派に伝わる武功は、単なる「技」ではない。
先師や、そのまた先師が、血と汗と苦痛と苦悩の末に編み出した、掛け替えのない『財産』なのだ。
そのため、師はその技を正しく弟子に伝え、弟子はその技を正しく受け継ぎ次世代に継承していく責任を持つ。
だからこそ、単なる習い事のような軽い関係性ではなく、儒教精神に基づいた強固な関係性が求められるのである。
そんな儒教的師弟関係を正式に結ぶ儀式こそが、これから常春が行う『拝師式』なのである。
師の前で誓いを立て、家族の契りを結ぶ。幾星霜も武林で続いてきた由緒ある儀式。
常春はアニメTシャツ&ジャケット&ジーンズといういつもの格好から、河北派の制服へと着替えた。さらに、靴も伝統的な布靴(ブーシェ)を履く。
式を行う場所は、『万年青堂』の地下にある大広間。いつもは弟子達の修行の場として使われている。その入り口は、二階へ続く階段の裏側にある。
河北派の黒服を身にまとう兄弟子姉弟子たちがその入り口へぞろぞろと入っていく——驚くべきことに、二十人はくだらなかった——のをリビングのドアの隙間から見送ってから、常春も随静の手を取って地下へと向かった。
『拝師式』には、「
小さな手に導かれるまま、常春は地下への階段を降り、階の床を歩き、その大広間へとたどり着いた。
幅十メートル弱、奥行き約十五メートルの空間。
剣や刀が掛けてある掛け台、木剣や木刀が幾本も傘のように入れられた木刀入れ、「正宗龍霄武功」という大きな漢字が縦書きに刺繍された垂れ旗などが、コンクリート壁を飾っていた。
常春が入ってきた両開き扉から真っ直ぐ奥へ向かって、『龍霄門』の門弟達が左右に列をなして道を作っている。その道の終わりには祭壇がある。木の小机の上にクロスを敷き、その上には果物がたくさん入った籠と、生米が山盛りとなった碗が置かれている。
生米の山には中国特有の長い線香が刺さっていて、細い煙を立たせていた。その祭壇の後方の壁には、意味がわからない漢詩の書かれた紙が何枚か貼り付けてあった。
常春から見て祭壇の左端で、麗慧はスツールに座っていた。
この部屋に来る前に随静から教えられた作法をなぞるようにして、常春は動き出した。
右拳を左手で握る
一人になった常春は、祭壇と、麗慧と向かい合う。その顔は少し前までの人好きしそうな顔つきではなく、おごそかに引き締まったソレであった。
一瞬、どうすればいいのか忘れかけるが、すぐに思い出し、それを実行した。
再び右拳左掌の抱拳をし、待つ。
麗慧が北京語で言った。
「
頭を下げて戻す。
「
頭を下げて戻す。
「
頭を下げて戻す。
麗慧はそのおごそかな表情を崩さずに、その表情と同じくらい厳しい声音で問うた。
「
「はい」
「君は『河北派』の一員として、邪悪な『求真門』から、武林と、その周囲の平和と安全を守護に尽力することを誓うか?」
「はい」
常春は、ただ「はい」とだけ答えた。
そうして、式はさらに過ぎていき、常春は無事に弟子入りを終えたのだった。
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