《8》
五月十七日、都立
その後の展開は、次の通りである。
常春が『河北派』に入門すると決まるや否や、『求真門』の一団は旗色が悪いと判断し、全員まとめて学校から離脱した。
総数十人——最初は十一人だったが、死亡者が一名出た——に達するその集団は、職員室の教職員に通信機器の使用を止めさせていた。それでもこっそりスマホで警察に連絡しようとしていた勇敢な体育教師は、首と胴体を分断されるという末路をたどった。
そんな集団が消えたことで、教職員はすぐさま警察へ通報。
あらゆる
生徒達も怯えきっていた。特に、クラスメイトを二名殺害された一年二組の生徒の怯えは輪をかけていた。
二組生徒の一人は言った。「犯人は、
その男子生徒、
説明はされた。しかし『『求真門』っていう、武術家だけのテロリスト集団がいる。素手で人の頭を吹っ飛ばしたり、鞭で電柱を輪切りにできる連中だ』という荒唐無稽な主張を信じられるかどうかとは、また別問題であった。
警官は石蕗常春を「同級生を殺されて錯乱している可哀想な少年」と認識した。非常識な事態に遭遇した時、自分の中の常識に沿って物事を判断したがるのが人間の性である。警察機関であればなおのこと。
サッカーグラウンドにあった遺体は、さらに奇怪だった。
腰から上下に分断された遺体が横たわっていたのは、瓦礫と化したコンクリートブロック壁の中にあった。まるで超巨大な重機が倒れ込み、それに人間が巻き込まれたかのような死に様と大破壊であり、ますますこの案件の不可解さを助長させた。
犯人グループの行方は不明。
突然舞い込んだ、警察上層部からの圧力。
その襲撃事件は大きくニュースになったものの、犯人が逮捕も特定もされることなく、のちにお蔵入りして忘れ去られることとなる。
実は、サッカーグラウンドの死体を作った犯人は常春だ。けれど、パンチでブロックを半壊させ、男の胴体を潰して真っ二つにした、などという与太話を誰が信じるだろう。——少なくとも、人智を超えた武技を身につける者達の世界『
だがそれを言わなくても、二組の生徒達が常春へ向ける視線は、これまでのものとは百八十度違う種類のものに変わっていた。別世界の人間を遠くから見るような目。少なくとも、好意的な視線でないことだけは確かだった。
常春はその視線を、無理からぬことだと甘んじて受け入れた。それに、自分がもう別の世界の住人であることは、ある意味では本当なのだから。
その後、学校は一週間の臨時休校となった。
休校となってから三日後——五月二十日。午前十時。
池袋駅南口から先。上り屋敷通り付近に、そのアパート「はるかぜ荘」はちんまりと建っていた。
よく言えば年季の入った、悪く言えばボロっちい二階建てアパートである。
家賃は格安だが、部屋の質も値段相応。強く床を踏んづければ階下に響き、同棲カップルがハッスルすればその声が隣の部屋まで漏れ聞こえ、ちょっと部屋を汚しただけでゴキブリが遊びに来てくれる。おまけに鍵穴は防犯意識の低いディスクシリンダー。
常春の部屋は、そのボロアパートの二階にあった。
六畳間の一部屋は、新品のちゃぶ台を中心に、必要最低限の家具が置かれている。
男の部屋にしては整頓されているが、その分やや飾り気にかけて殺風景だった。唯一の飾りらしい飾りは、ちゃぶ台の端っこに置かれた和装の美少女フィギュア。お気に入りの日常系アニメ「お茶立て町のお茶目なお茶屋さん」の主人公「やぶきた」の1/8フィギュアである。入学早々立ち寄ったフィギュア専門店で一目惚れして購入した逸品。福沢諭吉が七人ぶっ飛ぶくらいの高値だったが、買って後悔は一切していない。
やぶきたフィギュアはいつも笑顔。
しかし今、そんな笑顔の前にあるのは、常春の廃人のような表情であった。
常春はちゃぶ台の上に置いたノートパソコンで、ひたすらアニメばかり見ていた。
お気に入りの日常系アニメ「お茶立て町のお茶目なお茶屋さん」の一期から三期までの一気観賞。見終わったら再び一期一話にリターンし、また三期最終話まで視聴するという無限ループ。
夜になったら狭い風呂に入り、それからコンビニへ行き、必要最小限の食事を食べ、そのまま就寝。目覚めたらパソコンを起動してまたアニメを見る——あの事件以来、常春はそんな生活を惰性で続けていた。
遮光カーテンも常に閉め切っており、外へ出るか、パソコンで日にちを確認するかしないと、今が朝か夜かも分からない。
液晶画面の向こう側では、二次元美少女達が平和に戯れている。
その姿が、今の常春にはとてつもなく遠くに感じられた。
だって、自分は、友達を助けられなかったから。
愛すべき友達と『日常』を失ってしまったから。
そんな自分の過失を、常春は今なお許せずにいた。
いや、一生許せないかもしれない。
確かに常春は、『河北派』となり、いつか新たな『日常』を作り直そうと決意した。しかし、それが失ったことへの慰めになるかは別の話だ。
失ったものは、返ってこないのだ。
あのカップルとの楽しい駄弁りは、もう二度とできない。
自分をずっと想ってくれていた女の子への返事も、もう返せない。
それらはもう、失われたのだ。だから、返ってこないのだ……
再び自分を責めそうになったところで、インターホンの鳴る音が聞こえた。
むくりとおもむろに立ち上がり、玄関のドアへ向かう。この部屋の玄関にはドアスコープが無いため、ドアを小さく開けてその隙間から外を確認する。
誰もいない。
「ピンポンダッシュかよ……」
「——
不意に視界下部から声が聞こえ、びくっとしながら視線を下げる。常春の胸くらいの位置に、ラビットスタイルのツインテールに束ねられた白髪頭があった。生え際まで真っ白である。
尋ね人の背がちっこくて、気づかなかったらしい。
「君は……
「
「あ、姉? ……まあいいや、立ち話も何だし、部屋に入らない? お茶くらいなら出せるよ」
「是。お言葉に甘えさせていただく。おじゃまします」
相変わらずの無表情で了承を告げると、随静は開かれたドアの中へちょこちょこ入ってきた。面白いくらい足音がしない。それに、なんだか足が磁石みたいに床に吸い付く感じの歩き方。
そういえば、葛躙も、求真門六人も、随静の師匠——今は自分の師でもある——の
「もしかして、『
「是。もしかして、気付いていなかった?」
「う、うん……僕、武林に関しては世間知らずだから」
「これから覚えていけば良い。大丈夫」
言いながら、随静はちゃぶ台の端にちょこんと正座した。
その座り姿勢は背筋に鉄筋が通ったように整っており、育ちの良さを示唆している。ずっと窓を開けずに淀んだ空気の中、彼女の周りの空気だけが清浄化されているような不思議な雰囲気がある。
そんなお行儀の良い座り姿勢をちらちら見ながら、常春はカーテンを全開にし、空気を入れ換えるべく窓を開けた。それからポータブル冷蔵庫の緑茶のボトルを取り出し、お客さん用グラスに黄緑色の液体を注いで随静の前へ置く。
「マジで粗茶ですが」
「ありがとう」
ツインテールを揺らして小さくおじぎすると、お茶をこくこくと飲む。グラスの中身を半分くらい減らしてから、ことんと置いた。
常春も少し間を開けた位置へ腰を下ろし、改めて随静を見る。
彼女にはあの事件後、事前にこのアパートの部屋を教えてある。なのでここを知っていること自体は別に不思議なことではない。
疑問は、
「どうしてここに来たの?」
であった。
すると随静は膝を引きずって這うようにこちらへ近寄り、ずいっと顔を間近へ近づけた。
近くから見ると、余計にその美貌の非凡さが分かる。
セレナイトのように白くツヤのある肌、静謐で澄んだ黒瞳、瑞々しい桜色のリップ。
それらの極上のパーツが、緻密に計算された人工物のように完璧な配置に整えられているさまは、まるでビスクドールのようであった。
不気味なほど端正。今みたいに幼い顔つきではなく、もう少し大人っぽい顔つきだったら、どぎまぎしてまともに顔を見れなかったかもしれない。
そんな彼女は相変わらずの無表情。しかしどことなく、頬をぷっくら膨らませて怒っているような、そんな雰囲気が感じられた。
「あなたに要件を何度もメッセージで送信した。けれども未読のまま応答が無い。だから直接乗り込んだ」
「メッセージ?」
常春はハッとすると、部屋の隅に放り投げたきりほったらかしにされたスマホを確かめる。バッテリーが切れていた。
なので充電器に繋いでから起動すると、確かに「藩随静」からのメッセージが届いていた。届いた日時は五月十九日午前十時……つまり昨日。
「えーっと、なになに……『
またも膝を引きずって寄ってきた随静が答えて曰く、
「武功門派が、新たな門人を正式に迎えるための儀式。あなたはわたし達『
「そうなんだ……」
常春がのほほんと納得すると、再びずいっと随静が顔を近づけてくる。
「常春。わたしは今、ちょっと怒っている。せっかく、わたし達が「家族」になる日だというのに、あなたは家で何をしているの」
怒っていると言う割に、その幼い美貌は変わらず能面みたいな無表情。声にも抑揚が乏しい。
「ご、ごめん……って、え? 家族になる? どゆこと? なんかの比喩?」
「否。比喩ではない。そのままの意味。武功門派というものは、一つの家族と同じもの。師という「父」と、弟子という「子供達」。師父は弟子を教え導き、弟子は師父を敬い教えを賜る。そんな義理の家族。文化大革命ではこの伝承システムを「封建的だ」と批判された。けれどわたし達は今なお構わずその伝承システムと、門派の教えを守り続けている」
「ってことは……君がさっき言ってた「姉」っていうのは……」
「是。わたしはあなたの姉弟子……つまり「
「え、いや、でも……君ってどうみても僕より年下じゃ——ふご」
常春は不意に鼻先をぷにょんと人差し指で押され、豚鼻にされる。
「否。年齢は関係無い。先にその師に就いているなら、五歳児だとしても姉。それにわたしはこう見えて二十歳」
「……リアリィ?」
「是。わたしは二十歳。酒類も口にできるし、車の免許も持っている」
「そ、そうなんだ……」
「わたしは二十歳」
「ごめんって。分かったから、お姉様。これからは「姉さん」って呼ぶから」
人差し指が離れ、豚鼻が元に戻る。見た目と年齢の食い違いは、この新しい姉にとっての地雷ネタなのだろうと脳内メモ。
「……よかった。少しだけ、あなたの顔色が良くなった」
「え?」
「先ほどの呼び鈴に出た時のあなたは、もっとやつれたようなひどい顔をしていた。それが、今では少し瑞々しくなった」
常春は虚を突かれた気分になった。
ここ三日間、自分の顔をまともに見ていなかったが、そんな風になっていたのか……
「やはり、あの事件のことを、気にしている?」
図星だった。しかし、それを彼女の前で認めるのはためらわれた。
「むぎゅっ……」
すると、両方のほっぺたを、随静のもみじみたいな手がそっと挟んだ。
「強がらなくてもいい。弟の弱音くらい聞いてあげる。……何度も言う。わたしは二十歳で、あなたの姉なのだから」
その銀鈴の声は、少しだが優しい響きを持っている気がした。澄み切った黒い瞳に、常春の顔が映っている。——確かにひどい顔だ。
「だ、大丈夫だよ」
そんな自分の顔から目を逸らし、常春はことさら明るい声色を作った。
「ぼ、僕って、結構図太くて、根性たくましいんだから! 好きなアニメが最終回を迎えたって、次に進めるタイプなんだから! だから……別に、大丈夫、だから…………!」
こみ上げてくる感情を、心中で押さえつけながら。
今、彼女の優しさに寄り掛かりたくない。
自分はこれから、修羅の道を歩む。
痛い思いだってするだろうし、人だってまた殺してしまうかもしれない。こんなことで、落ち込んではいられない。強くならなくてはならない。
もしここで彼女に寄りかかってしまったら、そのまま縋り付いてしまいそうで怖い。
三日前の決心をさせた自分を、失ってしまいそうで怖い。
弱くなってしまいそうで、怖い。
しかし、常春の涙腺は、痩せ我慢を放棄した。
一瞬で瞳を涙で満たし、次の一瞬ではぼろりと大粒の涙滴をこぼした。
せめて表情だけは笑顔にしようとするが、下手な泣き顔よりも見るに堪えない、歪な笑みになっていることだろう。
その顔を見られまいと下を向きかけた時、常春の頭が随静の両手に優しく抱き寄せられ、薄い胸板へと押し付けられた。
「泣けるなら、素直に泣いておいた方が良い。——わたしはその悲しみと絶望を、八つ当たりに使うことしか出来なかったから」
常春は涙目を見開いた。
その気配を察知したように、随静は言った。
「わたしも、あなたと同じ。五年前……『求真門』に両親を惨殺されて、『龍霄門』に流れついた身」
「姉さんも……?」
是、と頷き、随静は続ける。
「きっかけは、たった一冊の古文書だった。——『
常春の頭を抱く随静の手が、一瞬震えた。
「押しかけてきて「『易筋経』を渡せ」と要求してきた求真門の武術家に拒否を示した瞬間、お父さんの腰から上が無くなった。その男が使ったのは、今は滅亡した
「そう、だったんだ……」
「是。だけど、わたしは愚かな子供だった。両親を失った悲しみと絶望、何も出来なかったことへの悔恨、そしてそんな負の感情をいつまでも引きずっている自分への強い苛立ち……こんなふうに髪の毛が真っ白になるほどのストレスを扱いかねたわたしは、周囲の人へひたすら発散した。少しでも苛立つとすぐに癇癪を起こしたり、テーブルを蹴り倒したり、花瓶を投げつけたり、兄弟子や姉弟子に馬乗りになって殴りかかったり……そんなとんでもない問題児だった」
今の落ち着き払った彼女からは、想像がつかなかった。
「だけど、師父は……蘇麗慧は、そんなわたしに愛想を尽かすことはなかった。どれだけ口汚く罵られても、どれだけ暴れられても、わたしを抱きしめ続けてくれた。だから……わたしは新しい『日常』を手に入れられた。『龍霄門』の門人であり、蘇麗慧の娘として過ごす日々という、新しい『日常』を」
子供をあやすような口調で、随静はささやいた。
「あなたにもできる。わたしのように、新しい『日常』を築き上げることが。そのために、今はいっぱい泣いて喚けばいい。そうしたら、あなたはわたしの仲間であり、家族。手を取り合って、一緒に戦う。もうこれ以上、奪われないために」
限界だった。
常春は随静の背中に腕を回し、涙腺を決壊させた。
みっともなく号泣した。
随静はそんな常春の頭をひたすら撫でながら、寝物語を聞かせるように言った。
「あなたの名前、わたしは素敵だと思う。石蕗常春、という名前。植物の「
常春は自分の名前の由来を知らない。自分を捨てた母親が名付けたらしいから、知りたいとも思わなかった。だから、随静の言葉は想像の域を出ない。
けれどその想像が、常春はたまらなく嬉しかった。
心の垢を全て洗い流すように、常春はしばらくの間、涙をこぼし続けたのだった。
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