《4》
その後、
いったいこんな小柄で細い体のどこにそんな力があるのか、少女は常春の体を片手でひょいっと軽々持ち上げ、そのまま歩き出したのだ。……足裏が地面に吸い付くような、安定した足取りで。
「
やがて近くの公園にたどり着くと、常春はそっと地面に下ろされた。
「質問。これからわたしがあなたを
抑揚に乏しい口調で繰り出された突然の選択肢に、常春は戸惑う。
本音を言うならノーだが、言ったところで解穴——今までの文脈から察するに、この「言えず」「動けず」の症状を治す処置のようだ——してはもらえないだろう。
イエスと答えて解穴してもらってから「きゃーふしんしゃー」と叫ぶという手もあるが、そうしたらまた同じ状態に戻されてしまう可能性が高い。
それに、常春も本音では知りたかった。
自分を狙っている者達の正体と、その目的を。
追いかけ回されるのは嫌だが、何も知らずにビクビク生き続けるのはもっと気持ちが悪い。そんなもやもやした気持ちではマトモな『日常』は送れないだろう。
「うー、うー」
常春の返事を聞いた瞬間、白髪少女はしゃがみ込み、常春の体を二回叩いた。
……次の瞬間、舌と体の自由が戻る感じがした。指も腕も動かせる。立ち上がった。
まったく不思議な技術だ。しかしどんな不思議テクを見せられても、警戒を緩める理由にはならない。アメちゃんでホイホイついていく小学生じゃないのだ。常春は一歩退き、どう来るかを警戒する。
白髪少女はそれを気にする素振りを一切見せず、おもむろに懐から何かを取り出して常春へ差し出した。
「これ、僕の財布……やっぱり、君が拾ってたんだね」
おずおず受け取ってから、中身を確認する。一円も取られてはいない。学生証もキャッシュカードも、アニメ専門店のポイントカードも、以前面白半分で入店したメイド喫茶のスタンプカードも健在だ。
白髪少女は変わらず抑揚に乏しい口調で、
「
「警察に電話していい?」
「否。そのスマートフォンをしまって欲しい。この件に関しては伏して謝罪する。あなたのことを……どうしても逃すわけにはいかなかったので、保険のために止むを得ずしたこと。とはいえ、犯罪であることは変わらない。申し訳ない」
そう言って、本当に頭を下げて謝罪してくる。虚礼ではなく、腰をしっかり折って頭を垂れている。
ここまでしっかり謝られると、怒る気持ちが引っ込んでしまう。常春は頭を掻きながらバツが悪そうに言った。
「……もういいよ。ところで、僕の名前はもう知ってるよね? 君の名前も知りたいんだけど」
白髪少女は頭を上げると、自己紹介をした。
「わたしは
「よろしく。その名前から察するに、君は中国人なの?」
「
「そうなんだ。それで……『河北派』って?」
「この日本における『
武林。派閥。これらはいずれも、あの三つ編み男から聞いた言葉だ。
いろいろと聞いてみたいことはあるのだが、常春がまず知りたいのは、一つだ。
だがその問いをぶつけるまでもなく、白髪少女——藩随静がそこに言及してくれた。
「石蕗常春——あなたは狙われている」
しかし、その抑揚に乏しいきらびやかな声で告げられたその言葉は、それに内包する意味以上に常春の心を寒からしめた。
「狙われてるって……誰に?」
「『
「なにそれ?」
「現在の武林における最大派閥」
「だから武林って何さっ? あいつも君もそればっかり!」
常春はやや語気を荒げた。あいつというのは昨日の三つ編み男のことだ。
無表情な随静の瞳がぱちぱちとまばたきした。表情は変わらずとも、驚きを感じていることはなんとなく分かった。
「武林とは、中華武功を身につけた武術家達の集う、『裏の社会』」
「裏の社会……? ヤクザみたいなもの?」
随静は「似て非なるもの」と簡潔に答えてから、続けた。
「中華武功は、人間の生物としての潜在能力を引き出し、人のまま人を超えた高次元の存在に自己を高める究極の武術。最初は単純な剣術や槍術などから始まり、悠久の歴史を重ねて発展していき、今の形に到った。……けれど武術家という存在は、いつの世も国家転覆の種になる危険な勢力。朝廷はそんな武術家の存在を快く思わず、歴史の中で多くの弾圧を加えた。武術家は日陰者になるが、その『日陰』の世界で自分たち独自の「社会性」を構築していった。——その社会こそが『武林』。武術家達は中国史の裏舞台で、武を練り継承しながら、時に争い合い、時に手を取り合い、たくましく生きてきた」
息継ぎなのか、話題の矛先の変化なのか、一瞬の間を置いてから随静は再び語り口を再開した。
「——けれど結局、中国大陸にそんな日陰者達の居場所はなかった。六十年代に中国で行われた文化大革命で、中華武功は「迷信に修飾されたケンカの道具」「封建的師弟関係を墨守し続ける危険分子」といったレッテルを貼られ、厳しい弾圧の対象となった。——ほとんどの武功門派が大陸に見切りをつけ、外国へと移住した。彼らはこの日本を含む様々な国に腰を落ち着け、現地の人間に細々と武を教え、細々と伝承をつなげていくだけの日々を送るようになった。武林は大きく衰退こそしたものの、世界各地へその範囲を広げ、長い間敵のいない平和な日々を送っていた」
再び間隙が生まれる。だが随静の無表情には、気のせいか、少しばかりの強張りが感じられた。
「そんな平和な武林に巨大な暗雲が訪れたのは、五年前。武林に突如として『求真門』という派閥が現れた。奴らは門派の象徴たる武功を持たなかったが、代わりに他の門派から技や秘伝書を次々と略奪し、急速に勢力を伸ばしていった。長い間平和に過ごしていた門派のほとんどは零細化していて、数の優位を誇る求真門に次々と鏖殺された。あるいは、武功の実験台となって惨たらしく苛め殺された」
『求真門』の代名詞である「奴ら」という言葉を口にするときに口調がやや尖っているのが、常春には印象的であった。
「……『求真門』の目的は、主に二つ。世界中に散らばった武功をすべて奪い尽くし、その中身を解析すること。そして、もう一つは——」
「ちょ、ちょっとまったー!」
さらに続きそうになった話を、常春は強引に打ち切らせた。
「なるほどね、確かにこの世界の裏側には、『武林』というもう一つの社会があります! それまではいい! あんなとんでもない技を次々見せられたら、そういう社会もあるんだなと信じるしかない。でも! どうして僕が狙われなきゃならないんだ?」
「あなたが『
きっぱりそう告げられた。
「——
常春は少なからぬショックを受けた。
ぶっきらぼうだが気遣いに満ちた性格の『爺さん』に、そんな修羅な過去があったことを、信じたくなかった。だから首を横に振りながら否定した。
「馬鹿馬鹿しいっ。何を根拠にそんな憶測を……」
「否。憶測ではない。なぜならば昨日、あなたの拳から『雷鳴』が轟いたから」
常春は息を呑んだ。
「打った瞬間に雷鳴が鳴る拳……これは、武林に悪名高き最強の武術家『雷帝』の技しかあり得ない。あなたは間違いなく、『雷帝』の教えを受けた唯一の人間」
反論できなかった。
なぜなら常春が現時点で思い出せている『爺さん』の情報は、ほんのわずかだけなのだ。『爺さん』から多大な恩を受けたというのに、その恩人のことを全く知らないという、奇妙な状態。
そんな中途半端な人間が、この白い少女の持つ情報量を論破できるはずがないのだ。
「さらに悪い報せを、あなたに伝えなくてはいけない。昨日、あなたが殴り飛ばしたあの男——
随静は一区切りもうけてから、今までと変わらぬ平坦な口調で、残酷な結論を発した。
「もう一度言う——石蕗常春、あなたはすでに『求真門』に狙われている。もし捕まれば、あなたは死ぬよりも辛い仕打ちを受けることになる。だからあなたは、今すぐにでもわたし達『河北派』の一員になるべきと提案する」
「河北、派……?」
現実感を薄れさせながらも、常春はどうにかかすれた声でその疑問を発した。
「是。先ほども説明したけれど、『河北派』とは中国河北省に起源を持つ複数の武功門派同士が連合を組んだ派閥。わたし達『龍霄門』を含む個々の門派は零細と呼べる規模しか持たず、一門だけの力では『求真門』という巨人に一瞬で踏み潰されてしまう。ゆえに団結し、一つの勢力となることで、求真門の侵略に対する安全保障としている。求真門は世界各地に拠点を持つけれど、日本拠点の勢力だけで言えば『河北派』と伯仲している。こうしてわたし達と求真門は、長い間睨み合った状態を五年間続けている。ぶつかり合えばどちらか片方が潰れる——そんなリスクが、双方に二の足を踏ませる抑止力となっている」
話が進むにつれて、どんどん話の内容が常識から乖離していく。
『日常』から程遠いものになっていく。
そう。彼女らが過ごす世界は——『非日常』。
自分の『日常』とは、全くの対極に位置する世界だ。
その『非日常』の話に進んでいくことが、今の常春はたまらなく気持ちが悪かった。虫唾が走った。
「……つまり、こういうことでしょ。『求真門』に生活を脅かされたくなければ『河北派』に入れ、って」
「是」
あっさり肯定した。
それが腹立たしかった。
語気が自然と荒くなる。
「それって……もし仮にその求真門が攻めてきたら、一緒に戦えってことでしょ。だから安全保障ってことでしょ。相手は平気な顔して人を殺したりするような連中なんだ、某サムライアニメの
「是。否定はしない。自分を殺しにきた連中を殺さずに無力化することがどれほど難しいことであるかは、武に通じるわたし達だからこそよく知っている。だから、戦うなら——わたしは必ず相手を死なしめる」
「ならお断りだよ」
常春は吐き捨てた。
気持ちが悪い。心からそう思った。
この『非日常』の住人と同じ空気をもう吸いたくない。常春はきびすを返した。
制服ブレザーの裾を、随静がそっとつまむ。
「待ってほしい」
「なんで? もう話は終わったでしょ? 君が勧誘して、僕がそれを断った。これでおしまい」
「本当に危ない。あなたも求真門に——」
「世の中甘く見ちゃダメだよ。この日本は一応法治国家で、ここは人口過密都市の東京都なんだ。誘拐や殺人なんて目立つ事、そう簡単にできやしない。人気のない寂しい場所には近づかない。それで安心。君たちの手なんか借りる必要は、ないよ」
それらしい理屈を言い募ってから、随静の手を振り払い、早歩きで要町駅を目指す。
もう随静は、追ってこなかった。
しかし翌日、常春はこの選択を心の底から後悔することになる。
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