《3》

 やけに真剣な面持ちの救急隊員にいろいろ訊かれ、なんだか本当にマズいんじゃないかと思った常春とこはるは内心でビクビクし始める。


 だが、病院に運ばれ、精密検査を受けまくった果てに告げられた「まったく異常はありません」という検査結果を聞き、とりあえずホッと胸を撫で下ろした。


 しかし、救急隊員やお医者さんからはイタ電扱いされ「今度こんな事をしたら警察に言うからね」と睨まれながら怒られた。電話をかけたのはクラスメイトなのに、理不尽だと思った。


「まあ、なんともなかったならよかったじゃないか」


 へこむ自分をそう励ましながら、常春は病院の自動ドアから外へ出た。


 というか、冷静に考えれば、常春はあの程度の衝撃ではビクともしないのだ。


 十二歳の頃は居眠り運転のダンプカーに撥ねられている。


 十四歳の頃はリードを線路に引っ掛けて動けなくなっていた犬を助けて代わりに電車に撥ねられている。


 しかしいずれも無傷だった。


 今回もまた無傷だった。


 幼い頃——三歳から九歳までに比べれば、驚くべき壮健ぶりである。







 常春は三歳の頃、難病を患った。


 日進月歩の現代医学でも手の施しようがない、不治の病だった。


 母親は常春の病気を知ると、途端に行方をくらました。息子が弱っていくところを見たくなかったのか、ただのお荷物と化した息子に見切りをつけたのか、あるいはその両方か。


 残された父は、常春のために必死で頑張ってくれた。お金を稼ぐことはもちろん、病院でいつもひとりぼっちな常春を寂しくさせまいと毎日お見舞いに来てくれた。


 しかし、そんな献身を裏切るように、常春の容態は年月を重ねるごとに徐々に、確実に悪化していった。


 常春は齢八つにして死を覚悟していた。父は「お前は死なない」と会うたび言ってくれたが、自分の体のことは自分が一番分かっていた。


 自分は死ぬ。もうすぐ。


 そう思っていた時だった——『爺さん』に出会ったのは。


 退屈しのぎに、夜の病院の敷地内をこっそり歩き回っていた時、出会った。


『——小僧。貴様、ずいぶんと『気』が弱々しいな。今にも死にそうだ』 


 それが、『爺さん』の第一声だった。


 小柄な老体の中から、活火山じみた強烈な生命力を感じさせる人物だった。

 華奢で小柄な体つき以上の「巨大な何か」を連想させた。弱者である子供の本能で分かった。只者ではないと。


 普通の子供なら恐れただろう。


 しかし、常春は全く恐れなかった。「恐れ」という感情は、生への執着からくるものだ。死を覚悟しながら生きている常春には、その感情は無かった。


 『爺さん』もそんな常春に興味を示したのか、歩み寄って話しかけてきた。そのまま病院の花壇の煉瓦に腰を下ろし、二人は会話を弾ませた。


 常春は気がつくと、自分の身の上を自然に話していた。自分が近いうちに死ぬこと、それゆえに「死」を恐れないことを。


 すると『爺さん』は、


『もしも……、お前はどうする?』


 と尋ねてきた。


 考えたこともなかった。


 どうせ死ぬ。そう考えて生きてきたから。


 だから「分からない」と答えると、


『なら、考えてみろ。お前が生きることで、生き延びることで、喜んでくれる「誰か」がいるかどうかを』


 一人、いる。


 お父さん。男手一つで、僕をここまで生かしてくれた、たった一人の家族。


 もしも、万が一、億が一、自分が病を克服できたとしたら、父はとっても喜んでくれるに違いない。


『もう一度聞く。——生き延びられる好機が目の前にあるとすれば、お前はどうする?』


 ——僕は、それを掴む。


 そう答えたことは、そのまま『爺さん』への弟子入りをしたことになった。


 その日以来『爺さん』は毎夜、教えてくれた。


 『中華武功ちゅうかぶこう』を。


 人体の可能性を極限まで突き詰め、練り上げることで、人をして人を超えた強さを身につけられる、中国大陸発祥の究極の体術を。


 その数ある中華武功の中でも、最高峰の攻撃力を誇るという武功『天鼓拳てんこけん』を。


 ——まず、一番最初に行ったのは『基骨きこつ』の習得。


 生物には、その肉体の潜在能力を余すところ無く活用できる「骨の形」がある。人類もまたしかり。それを『基骨』と呼ぶ。


 人間も産まれたての赤ん坊の頃は、骨格が『基骨』であった。しかしそれから年齢を重ねるにつれて、骨格はいくつもの余計な生活習慣を通して「歪み」を得てしまい、肉体が持つ本来の能力が使えなくなるのだ。


 武功の修行ではまず最初に、その骨格を『基骨』に修正——復元と言っても良い——する修行から始めなければならない。


 『易骨功えきこつこう』という体操によって徐々に骨の位置を修正していき、やがて『基骨』を得るのである。


 常春が三ヶ月かけてようやく『基骨』を手にした。


 肉体が『基骨』へと整った次の瞬間、常春は自身に訪れた「変化」を実感した。


 ——「『気』の活性化」である。


 中華哲学には『気』という言葉が頻繁に登場する。


 『気』とは、エネルギーのこと。


 風や水の流れ、重力、地球の自転と公転、火の燃焼、落雷、地震……のことを、『気』と総称する。


 『気』は、外界だけでなく、生物体の内側にも存在する。


 五臓の活動、血流、筋肉の伸縮、骨格の動き、全身の重み……それらの生命活動をつかさどり、なおかつ宇宙の法則のごとく調和させているのもまた、『気』というエネルギーである。


 体内の『気』の流れが弱いと、生命活動も弱々しいものとなる。常春も『気』が極端に弱かったがゆえに病に苦しんでいたのだ。


 『基骨』となって肉体を整えたことで、身体のあちこちで詰まっていた『気』の流れが活性化された。それによって、常春の身体の不調が大きく減った。以前よりも体が軽くなり、活力が湧いてきた。


 しかし、これはまだ序の口。武功習得のスタートラインに立ったに過ぎないのだ。

 

 次は、体内の『気』を操り、それを通して肉体を思い通りに操作する技術を学んだ。


 『気』は人体の活動をつかさどるエネルギー。それを操作するということは、肉体そのものを操作するということである。


 『気』を意識・呼吸・体術でコントロールし、それによって肉体内部を緻密にコントロールし、『内勁ないけい』という高度な力を練り上げ、それを相手にぶつけて打倒する——これが武功の技の基本的な流れである。


 けれど常春はまず、『気』の操作を用いたを課せられた。


 『天鼓拳』の技は、どの中華武功よりも激烈で凄まじいものである。だがそれゆえに、使い手にも相応の「頑丈さ」が求められた。


 内蔵や筋骨を頑丈にしなければ、たとえ技を練っても若いうちに体を壊して死んでしまう。もともと病弱な常春であればなおさらだ。


 『爺さん』直伝の肉体強化法によって、常春は自分の体を日に日に強化していった。


 その修行が『爺さん』的に「よし」と言える段階になった時には、すでに常春の病は完全に治っていた。九歳になってすぐのことだった。


 父は泣くほど喜び、医者は奇跡と舌を巻いた。


 常春にもそれなりの感動と、『爺さん』への感謝の気持ちはあった。しかしその時の常春の中では、もっと『天鼓拳』の「先」を知りたい、という気持ちが強く燃え上がっていた。


 『爺さん』もその気持ちにこたえ、常春に技を教えた。


 武功には、拳法、剣術、槍術、刀術、鞭術と様々な技法が存在するが、その全ての基本となるのは「拳法」だ。どの門派でも、武器はすべて拳法の技術で振るう。なのである。


 火山の噴火のごとき圧倒的な内勁を用い、相手を問答無用で打ち崩す——それが『天鼓拳』の技の主な特徴。


 けれども、『天鼓拳』の技の修行は、今までのどの修行よりも難しかった。


 うまく動かぬ体、内勁の宿らぬ拳、分かっているのに繰り返される注意や指摘……普通の子供ならべそをかいて投げ出すであろう、難解な修行だった。


 しかし、常春は普通ではなかった。病に打ち勝とうとし、それを成し遂げた気骨があった。いくら失敗しようと、誤りを指摘されようと、泣き言一つ言わず鍛練に没頭した。


 そんな不屈の努力と、子供特有の吸収力の高さ、師の教育の巧さ……それらが相乗し、十歳になる頃には、天鼓拳の技全てを習得していた。


 こうして常春は、健康で頑健な肉体と、『爺さん』の全伝を手に入れた。


 そして——

 

 





「——痛っ……!」


 そこで、


 脳に亀裂が入るような頭痛で我に返り、病院の入り口で今なお立ち止まっていたことを自覚。前から来た中年くらいの女性が迷惑そうに横を通り抜ける。


 ——以上が、昨日ようやく思い出した、『空白の二年間』の一部である。


 だが、思い出せたのは一部のみだ。『爺さん』と出会い、『基骨』を構築し、肉体を頑丈に練り上げ、技を学んだ…………そういう「大まかな思い出」しか思い出せておらず、その細部を思い出そうとするとまたお馴染みの頭痛がやってくる。


 この頭痛に、常春は一種の「作為」を感じずにはいられなかった。


 自分の八〜十歳までの思い出は、いつから『空白の二年間』となった? 


 思い出しはしたものの、大筋までしか思い出せず、その詳細までは踏み込めない。まるで、見られたくない情報に「セキュリティ」をかけられているみたいである。


 先ほど狭っ苦しいMRIで写真を撮り、医者からは異常無し綺麗な脳味噌ですねと太鼓判を押されたばかりだ。事故でどこかやっちまった可能性は皆無だろう。


 ブラックゴースト的な組織に脳味噌をいじくられた経験も無い。


 この記憶喪失の正体を考えても、頭痛は来なかった。だが、真実も浮かばなかった。


 考えても仕方がないと思い、常春はいつのまにか立ち止まらせていた足を再び動かし、病院の敷地外目指して歩き始めた。


 奇跡的に無傷であったスマホで位置情報を調べると、ここは要町駅から少し離れた所にある総合病院であった。


 学校にしてもアパートにしても、歩いて帰るにはいささか遠いため、電車を使った方が楽で速い。スマホ内のキャッシュ残高が残っていることは幸運であった。


 時刻は午後三時。もう授業も終わっているだろうし、家に帰ろうと思った。


 村田達に無事である旨のメッセージを送りつつ、病院敷地内から出た。


「——げっ」


 そして、遭遇した。


 白髪ツインテール、黒い中華服、幼さが残る人形じみた美貌、常春よりも頭ひとつ分ほど小柄で華奢な体付き。


 現在常春が逃げたい人物ランキングトップ3に食い込む要注意人物が、病院の表札の前で待ち伏せしていた。


「な……なんで、ここに」


「あなたが救急車で運ばれることを耳にした瞬間、わたしは池袋にいる「同門」達に、この辺りの病院すべてに張り込むよう頼んだ。わたしも病院の一つに張り込んだ。そしてわたしが当たりを引いた。大当たり」


 昨日聞いたのと同じ、銀鈴の響きを持った抑揚の少ない口調。


 脊髄反射の赴くまま常春は逃走——


「ふぎゃぷ!?」


 ——しようとした瞬間、錯覚に陥り、さらに次の瞬間に地面へうつ伏せに倒れた。


 どうして倒れている? 転んだのか? いや、それにしてはつまづいた感じが無かった、まるで急に体が浮いたような……そんな混乱を押し殺して立ち上がろうとした常春の脇腹に、細い何かが食い込む感覚。振り返ると、それは白髪少女の指だった。


「あいおううぁ!! あ!?」


 何をする、と発したつもりだったが、


 それから何度も糾弾の言葉を発しようとして、やはり舌や唇がうまく動かず失敗する。


 いや、口がきけないだけじゃない。体が全く動かない。指一本動かせない。


「無駄。あなたの『経穴けいけつ』を突いた。わたしが解穴げけつしない限り、今のあなたは喋ることも逃げることもできない」


 銀鈴のような声で告げられた言葉に、常春はさーっと血の気が引く。


 そんな常春を安心させようとするかのように、白髪少女はやや性質をやわらげて告げた。


「手荒な真似をしたことを謝罪する。だけど『わたし達』は、昨日あなたを襲った外道どもとは違う。どうか、少しでいいから気を許して欲しい」


 気を許そうが許すまいが、今はこの少女のなすがままになるしかなかった。

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