《5》

 五月十七日。


 午前中の授業が全て終わり、昼休みに入った。


 購買に行く生徒はぞろぞろと教室を出て行き、すでに昼食を持参してきている生徒は席に座って食べ始めている。常春は後者だった。


「今日、天気悪いなぁ。天気予報だと、午後から雨振るってさ。雷も鳴るかもしれないって」


 常春は窓際後方最後尾にある自分の席で手製の弁当をつつきながら、席を囲んで座る級友二人にそう何気なく問うた。


 しかし、その二人……イケメンの村田むらたとオトナ系美少女の鈴町すずまちは、常春のことを奇異の目で見つめるだけだった。


「え、二人とも? どうしたのかな?」


「どうしたのかな? はこっちのセリフなんだよなぁ……」


 村田の引き気味な発言に、鈴町が追従した。


石蕗つわぶき……あんたなんで普通に学校来てるわけ? 昨日、五階から落ちたのよあんた。普通、死んでるか、入院ものの大怪我してるはずなのに……」


「いや、昨日ちゃんと精密検査したよ? んで、どこも異常無しだった」


「お前……マジで人間?」


「失礼だなぁ。他のクラスメイトにも言われたけどさぁ。僕はいろいろあって、子供の頃から体が頑丈なんだよ。ダンプカーに激突されても平気だったんだから」


「それ頑丈ってレベルじゃないわよねぇ…………あーもう、いいや。異常無しだったのなら、もういいわ。考えるのやめた」


 鈴町はうんざりしたようにそう話題を打ち切った。


 なんだか釈然としないものを感じる常春だが、ふと疑問が浮かび、それを口に出した。


「あれ? そういえば市原いちはらさんが教室にいないね。購買かな」


「あ、そういやそうだなぁ。どこ行っちまったんだろ……」


「ああ、市原ちゃんなら、体育の授業中に保健室行ったわよ。あの子バレーの授業取ってて、サーブで着地した時に足首捻っちゃったんだって」


 鈴町の言葉に、男二人は目を丸くした。


 昼休み前の二、三限目は、体育の授業だった。


 体育の授業は、隣り合わせの奇数と偶数の2クラス合同で行われる。競技は、男女によって分けられる。


 ちなみに常春と村田はテニスの授業を選択した。ダブルスで組み、インドア派アニオタとは思えぬ華麗なプレーで周囲に喝采をさらったばかりであった。


 屋外競技であるテニスと違い、屋内でやるバレーを選択した市原の事情をすぐに知れなかったのは、仕方がないといえた。


 鈴町は不意に、押し付けるように言い放った。


「石蕗、その弁当食べ終わったら、保健室行ってやんなさい」


 常春はきょとんとした。


「え? そんなに酷いの? 捻挫」


「ううん、軽い。無茶しなきゃすぐ治るみたいよ。……そういう問題じゃなくて、気持ちの問題よ。石蕗が心配して駆けつけてくれたら、あの子きっとすごい喜ぶと思うから」


「そんなもんかなぁ」


「…………ダメだこれ。絶対気付いてないわこれ。あーあー、あの子もこんなアニオタ朴念仁のどこがいいのかしら」


 なんか、よく分からない理由で貶された。


「そういう奴なんだよ、石蕗って。頭の中にあるのは基本、日常系アニメ限定の番組表なんだよ。液晶画面の向こう側にこそ、こいつの世界があるのさ」

 

 村田もなんか酷いことを言ってくる。


 常春はジトッとした目でカップルを睨む。


「二人して、さっきから何の話してるのさー?」


 カップルは何も言わない。ただただ、遠くから我が子の苦難と成長を見守る両親のような微笑を浮かべるだけ。


 ……まあ、別にいいかな。市原さんが心配っていう気持ちは本当だし。


 常春の食後の予定が決まった。


「そういえば、保健室ってどこにあるんだっけ?」


「お、行くのか。……一階の廊下沿いにある。昇降口から入って、ずぅっと左に進んでればそのうち見つかるから、行ってきなよ。あ、市原に会ったら「君が心配でここにきたんだ」って必ず言うんだぞ? いいか、必ずだぞ」


「分かったって」


 やけに念を押してくる村田に、常春は謎の圧力を覚えながらもコクコク頷いた。


 弁当の中の料理を口に運ぶ箸の往復を、少しばかり速める。


 食べながら、常春は思考する。


 ——この感じだよ。これが『日常』なんだ。


 何気ないことに心配し、何気ないことに笑い合い、何気ないことに睨み合い……血の流れる暴力沙汰など一切無い。


 それこそが、この石蕗常春つわぶきとこはるの『日常』。


 そう、これでいいんだ。


 『武林ぶりん』だか『求真門きゅうしんもん』だか何だか知らないが、見るからに危なそうな連中だ。ああいうのとは、距離を置くのが一番だ。それこそが、日常系アニメのような『日常』を保つための心掛けだ。

 

 自分は確かに、すごい武功を教わった。


 それを教えてくれた『爺さん』——黎舒聞れいじょぶんも、とてつもなく強かったことも分かった。


 でも、だからといって、どうして自分が狙われなければならないのだろう。


 争いたい奴同士で、勝手に争っていればいい。


 平和な『日常』を送りたい人間を、ただ『力がある』という理由だけで争いに巻き込むのは、絶対に間違っている。


 そうだ。僕は戦いとは無縁の世界で、死ぬまで生き続けるんだ。


 米粒の最後の一粒を口に運ぶ。


 ごちそうさま、と言い、弁当箱を片付けようとした、その時だった。




 ばがっしゃぁぁぁん! という、けたたましい音が耳を衝いた。




 音源は、窓の外。


 常春を含む数人の生徒が、窓から外を覗き込む。


 この教室の窓から真っ直ぐ先に見える校門。その両開きの真ん中が大きく敷地内へひん曲がり、通り道が無理矢理作られていた。大きな力を強引にぶつけて開かれたのは、誰の目にも明らかだった。


 それほどの力で校門を破った原因を、常春は目視した。


 破られた校門へ片足を突き出した、一人の男。


 さらにその後方には、ざっと目算して十人ほどの人物が横並びとなっている。全員に共通しているのは、あらゆるデザインの仮面をかぶって顔を隠しているという点くらいであった。


「——っ!?」


 校門を蹴破ったであろう先頭の男を見た瞬間、常春は戦慄した。


 頭頂部の丸いゾーンのみの髪を長く伸ばして三つ編みにし、あとは全て刈り落とした、奇妙な髪型。


 獅子舞みたいな赤い仮面で顔を隠しているが、あんな変な髪型をした男は、一人しか思い浮かばない。


 一昨日おととい、自分が殴り飛ばした、『求真門』の葛躙かつりんという男である。


 葛躙を合わせた十一人は、学校敷地内へ無遠慮に踏み入ってきた。糾弾に出てきた用務員を一蹴りで沈黙させ、昇降口へと入る。


 クラス中がざわめく中、常春はただ呆然としていた。


 嘘、どうして、奴らがこんなところに……学校にまで、来るなんて…………こんなの、意味がわからない、どうすればいい、どうすれば——


 正解の出ない問いを頭の中で繰り返しているうちに、階下から絹を裂くような悲鳴が聞こえてきた。


 その悲鳴はどんどん階層を上がっていき、やがて五階にまで到達。


 とうとうこの一年二組の教室に、魔の手が迫った。


「おらガキ共ぉ!! 石蕗常春ってガキがこの教室にいるはずだ!! そいつを出しやがれ!! 素直に従ったほうが賢明だぞ!!」


 三つ編み男の葛躙が、胴間声で教室中を威嚇した。


 クラス中が跳ねるようにざわめいた。


 生徒達の視線が、自然に常春の方へ向く。


 その視線に導かれるまま、三つ編み男もまた常春へ向いた。


 葛躙は獅子舞仮面の奥でニヤリと笑う気配を漂わせながら、ズカズカと教室の奥へ歩み入ってくる。


「——よぉ、ガキぃ。一昨日ぶりだなぁ。あの時は死ぬほど痛かったぞぉ? てめぇという「大発見」をした褒美に極上の治療を受けなかったら、今も寝転がってウンウン悶絶してたかもなぁ。なぁおい、お前にあの痛みが分かっかよ?」


 その声には笑みの響きと同時に、微妙な怒りの響きも混じっていた。


 常春へと距離を詰めてくる葛躙だが、二人の間に割って入る人影があった。


 村田だった。


 葛躙は冷めた低い声で問うた。


「……誰だよ、お前よ」


「そりゃこっちの台詞ッスよ。あんたこそ誰だ? 勝手に学校に上がり込んできて、俺のダチにちょっかいかける気ですか? こいつと何があったのか知らねぇけど、あんたは立派な不法侵入者だ。正統性はこっちにあるんだ。オマワリ呼ぶぞ」


 村田のその豪胆な物腰は、社会的な正当性と、ボクシングの心得による喧嘩の強さが支えていた。


 けれど、常春は知っている。バイクをサッカーボールのごとく軽々と蹴飛ばす、この三つ編み男の化物ぶりを。


「ダメだ村田くん、退がっ——」


 止めようとしたが、遅かった。


 葛躙は親指の腹に中指の爪を押し付けて溜めた手形、つまりデコピンの構えを取り、


「お前、邪魔」


 村田の額を弾いた。


 ぺきゃん。


 落花生を割るような小気味良い音とともに、


 頸椎そのものの可動域を大きく超えた状態で、天井を仰ぎ見ていた。そのまま、しばし止まる。


 やがて村田の体は、仰向けに倒れた。


「………………え」


 それを発したのは、村田の彼女である鈴町だった。


 村田を見る。天井を仰ぎ見たまま、指一本も動かさない。


 顔を見る。直前まで浮かべていた、静かな義憤に駆られた勇ましい表情のまま、固定されていた。


 しかし——その瞳孔に、動きはなかった。


「……ねぇ、起きてよ」


 鈴町はしゃがみ込んで村田を揺さぶる。だが、返事はない。


「冗談やめてよ、あんなデコピン大したことないじゃん? ねぇ、そうでしょ? ねぇっ」


 返事はない。


「ほんとやめてよ。ねぇ、いい加減にしないと怒るわよ? ねぇったら、ねぇ、ねぇっ、ねぇっ」


 返事はない。


「起きてよ……ねぇ、お願いだからぁ! 起きて! 起きてよぉっ!!」


 返事はない。


「いやあああああああああああああああああああああああああっ!!」


 とうとう鈴町は絶叫した。絹を裂くような悲鳴とはまさにこれであった。心臓を鷲掴みにし、正気の世界から遠ざけるような、そんな貫くような絶望感にあふれた叫びだった。


 ——村田は死んでいた。


 デコピン程度で頸椎をへし折られ、即死したのだ。


 人が死んだ。殺された。


 『日常』とはあまりにかけ離れたその事態に、常春はさらに現実感が薄れていくのを感じた。


「うるせぇ黙れ雌猫」


「ごぴ」


 その潰れたような呻き声が、次なる犠牲者、鈴町の遺言だった。下顎めがけて葛躙の蹴上げが命中し、頸椎が折れて即死。彼氏と同じ死に様を見せた。


 あっという間に出来上がった二つの骸。首が折れた男女同士、寄り添うような死に様だった。


 死人が出た——それをとうとう確信したクラスメイトから、耳が痛くなるような悲鳴が発せられた。


「うるせぇって言ってんだろ!! 殺されてぇか!!」


 葛躙の怒声が教室をビリビリ揺さぶるのと同時に、ピタリと悲鳴は止んだ。しかし、クラスメイトたちは例外なく恐怖の表情を浮かべていた。


 常春はというと、表情一つ浮かべていなかった。——あの白髪の少女のように。


 あまりにタチの悪い予想外の連鎖に、心の動きが停止していた。


「おら、行くぞ。来いや」


 自分の腕を掴んで引っ張る三つ編み男の無骨な手にも、逆らえなかった。







 こんなの、現実じゃない。


 夢だ。夢なら早く覚めてくれ。


 もう危ない! ってところでパッと覚めてくれるのが夢のはずだろ? だったらもうとっくにそんなボーダーラインは超えてるんだ、だから早く覚めてくれ——


 夢にあらず。


 友達の首がへし折れた音も、心胆を凍えさせそうな鈴町の悲鳴も、校舎中に溢れる不安の喧騒も、この細い腕を引っ張る野蛮な引力も、全て現実である。


 階段を降りきり、一階へたどり着く。


 一階には購買があるので、昼休みは人が増える。けれど今、人の気配がまったくしない。


 その理由はおそらく——今通り過ぎた『首無し死体』に恐怖し、みんなどこかへ逃げたからだろう。


 顔は無くても、常春にはそれが購買のおばちゃんであることが分かった。


 首の皮に、絞ったような捻れ跡がある。捻じ切られたのだという分かりたくもない死因を嫌でも思い知った。おばちゃんの生首は、向かう先の廊下に転がっていた。


 ショッキングな光景に、猛烈な吐き気を催す。


「……なんで」


 だがそれ以上に、常春は言いたかった。


「なんで……こんな酷いことをするんだよ…………」


 涙をボロボロと流しながら、哀願するような口調で言った。


 どうして、こんな理不尽を平然と行えるんだ。


 こんなことをしたって、意味なんかないはずなのに。


 平和な『日常』が、壊れるだけなのに。


 どうして、どうして、どうして——


「お前のせいだよ、石蕗常春ぅ」


 答えは、ひどく単純であった。


「『雷帝』の弟子であるお前がこの学校にいるから、こういう不幸が起こるんだ」


 購買部のおばちゃんの生首を邪魔くさそうに端っこへ蹴り転がすと、葛躙は立ち止まって向き直った。今いる場所は、昇降口前だった。


「——これは「警告」なんだよ」


 仮面を少し持ち上げてニヤついた笑みを見せながら、葛躙はそう口にした。


 その顔は、これまで見てきた人間の表情の中で、一番恐ろしいものだった。


「警告、だって……?」


「そうさ。この葛躙様が馳せ参じた理由はただ一つ。石蕗常春、お前を我らが『求真門』へ連れていき、『雷帝』の遺産を手に入れること。だが、平和的に交渉したところで、お前は頷きゃしねぇだろぉ? だからこその「警告」だよぉ」


 葛躙は仮面を被り直すと、常春を掴んでいる右手とは逆の手で、廊下の端に転がる生首を示した。


「てめぇが俺達の誘いを断るたびに、俺達はこうやっててめぇのテリトリーを荒らす。それが嫌だったら、文句言わずに俺達のところへ来い」


「こ……こんなことして、警察が黙ってないぞ…………」


「チクればぁ? どうせ無駄だけど。『求真門』はいろんな国にあって、その国の大物と太いパイプがある。この国も例外じゃねぇよ。ナアナアで終わるだけだ。そもそも大事件もナアナアで終わらすのはこの国の得意分野だろぉ?」


 更なる驚愕を味わう時間を待たず、『求真門』の殺人鬼は選択を迫ってきた。


「で? どうするよ? 俺らに付いてく? 付いてかない? お昼のご注文はどっちぃ?」


 究極の選択なんてもんじゃない。どちらを選んでも最悪な、邪悪極まる二者択一だ。


 もし、「いいえ」と答えれば、この外道はもっと多くの人間を殺すだろう。それこそ、常春が膝を屈して「はい」と答えるまで、学校の人間を死体に変えていくだろう。


 だが、葛躙について行ったとして、どうなるだろう? こんなイカれた行為を平気でするような連中だ、まともな扱いはまずされまい。実質的な「死」の選択。


 どちらも選ぶことなどできない。


 常春が堂々巡りの考えを巡らせていた時だった。


「きゃああああああああああああ!!」


 またしても悲鳴。しかも、知っている声。


 見ると、


「市原さん……!?」


 右足首に包帯を巻いた市原が、四肢を怯えさせながら尻餅をついていた。保健室から出てきてしまったのだろう。彼女の前には、購買部のおばちゃんの首無し死体。


「つ、つわぶきくん……!!」


 震えた声で常春を呼ぶ市原。長い前髪の下から、涙ぐんだ眼が覗いた。


 葛躙が、ニヤァ、と粘度の高い嗜虐の笑みを浮かべる気配。二人が友人であると気づいたのだろう。


 気がつくと、常春は葛躙の頭頂部から垂れる長い三つ編みを掴んでいた。


「ぎゃっ!? て、てめっ、何しやがる——!!」


 無我夢中で引っ張った。葛躙が驚いた声を上げる。


 別に、計算があるわけではなかった。


 どうしていいか分からない。けど、市原は巻き込みたくない。そんな考えだけが突き動かした、無策な行動。


「市原さん、逃げて!!」


 そんな無策の行動に意味を持たせようと、常春は懸命に逃走を促した。


「この、クソガキがぁっ!!」


 葛躙の肘鉄が、常春の土手っ腹に突き刺さった。


「ぉえっ……!」


 高所から落下しても怪我一つ負わなかった常春だというのに、その一撃は痛く鋭く、胃袋を直接押されるような不快感を覚えた。全身が後方へ弾かれる。


 胎児のような姿勢のまま床を滑る常春。やがて止まったかと思うと、今度は遠くから市原の「きゃっ!? 嫌ぁっ、離してっ!?」という必死の声が聞こえてきた。


 胃袋の中まで押されたような不快感を吐き出すようにケホケホと咳き込みながら、常春は片膝をついて体を起こす。


 すると、遠くにいた二つの人影が、一気に迫ってきた。常春の前で止まる。


 葛躙と、その右手に胸ぐらを掴まれた市原。


 三つ編みの怪人は市原を叩きつけるように床にうつ伏せに寝かせると、その頭部に靴裏を乗せた。


 これからあの男が何をしようとしているのか、想像できてしまった。


「や、やめろっ!!」


「嫌だね。こいつは特別サービスだ。てめぇの答えが是であろうが否であろうが、この娘は殺す。この決定だけはどうあっても覆らねぇ!」


「やめてくれっ!! 頼むっ!! お願いだ!!」


 情けないと分かっていながら、敵に許しを請う。


 だが、聞く耳持たずとばかりに、頭部を踏む足に力を込める。だが、それが途中で止まる。


「けど、俺も鬼じゃねぇ。遺言を残す暇くらいなら与えてやるよ。さぁ、聞かせてごらんよお嬢ちゃん、涙と命乞いに溢れた情けねぇ遺言をよぉ!?」


 ——ふざけるな。お前なんか鬼以下だ。


 常春は憤激に駆られながらも、何もできない今の状況を悔やんだ。


 『頂陽針ちょうようしん』を打ち込んでやりたいが、すぐ近くには市原がいる。あの位置関係では、どうあっても市原を巻き込みかねない。


 助けも期待できない。


 こんな化け物に敵う人間なんか限られている。それこそ、『武林』の者でもなければ。


 ——何を考えているんだ。僕の方から、彼らの差し出した手を振り解いたというのに。


 八方塞がり。


 絶望的な気分となる。


 どうあっても、市原の運命は変わらない。


「……あ…………ああっ……」


 顔面蒼白になりながら、そんな呻きをもらすことしかできなかった。


 怖い。これから起ころうとしていることが、ものすごく怖くて仕方がない。


 けれど、被害者となる市原は、もっと怖いはずだ。


 葛躙の足に今にも潰されそうになっている市原の表情は、絶望と恐怖の表情で歪んで——いなかった。


 それどころか、微笑みさえ浮かべていた。


 こんな情けない自分へ真っ直ぐブレることなく眼差しを向けながら、みずみずしい微笑をたたえていた。


 まるで、自分の死の運命を受け入れて、最後の命を使って最愛の伴侶に尽くそうとしているかのように。


 市原は、澄み切った声で言った。




「常春くん、私————




 常春は瞠目した。


「覚えてますか? 私……中学生の頃、いじめられてたんです。それで、一年生の冬から二年生の夏まで、ずっと引きこもってました。私がいない間に同じクラスになった常春くんが、プリントとかお家に届けてくれましたよね。それで、そのたびに常春くん……プリントと一緒に、日常系アニメの原作四コマ漫画をくれましたよね。これ読んで元気出して、って。常春くんはそれを「布教活動だよ」って言ってはばからなかったですけど…………私、嬉しかった。すごく面白くて、すごくあったかくて、すごく嬉しかった。大嫌いだった学校に、私の事を気にかけてくれる人がいてくれたことが、幸せだった。常春くんがいてくれたから、私はまた学校に来ようって思えたんです」


 今にも死にそうだというのに、誰にも明かしたことのない宝物を明かすようなくすぐったい口調で、言葉をつむぎ続ける。


「私が学校に復帰した後も、常春くん、いつも助けてくれました。私をいじめた人達からも庇ってくれて、いじめっ子の彼氏に殴られても「ダンプカーに比べれば優しいよ、いやマジで」って笑ってくれて、そんなふうにいじめに立ち向かうところを見たクラスの人達も味方になってくれて……私のいじめはなくなりました。あなたのその明るさと優しさが、私を救ってくれたんです、常春くん」


「いち、はら……さん……」


「そんなあなたを好きになっちゃうのは……当たり前じゃないですか。いつも楽しそうで、自分に恥じることなく、堂々と人に当たっていくあなたに、私はどうしようもないくらい憧れて、恋して……だから私、両親に無理を言って、常春くんと同じ学校に入ったんです。ずっとあなたの側にいたかったから。ただそれだけでした。でも、ただそれだけのことが……すごく、幸せでした…………」


 葛躙の足に、下向きの力が籠る。


 痛いはずなのに、市原はなおも笑顔だった。


 まるで、常春を元気付けようとしているように。


「もう一度言います。常春くん……私はあなたが好きです。大好きです。ああ……もっと、早く言いたか」


 ぐしゃ。


 その呆気ない音が、二人を生者と死者に分けた。


 葛躙の足は床面まで踏み抜かれ、周囲には真っ黒な血や肉片や骨片、脳漿の破片が散らばっていた。


 あの愛しい笑顔が跡形もなく消え去ったその光景を、常春は余すところなく見せられた。


 その胸には、とてつもない喪失感と、自分への強い呵責が渦巻いていた。


 ——何が『日常』だ。何が平和だ。

 ——何が、日常系アニメのような生活を送りたい、だ。

 ——送れていないじゃないか。

 ——僕の『日常』は、こんなにも脆い。

 ——それもこれも、僕が弱いからだ。

 ——力が、じゃない。心が弱いからだ。考えが足りないからだ。


「けっ、つまんねぇ。せっかく良い命乞いが聞けると思ったのによぉ」


 心底つまらなそうに吐き捨てられた葛躙の発言を耳にした瞬間、常春の意識が現実に引き戻された。


 ————今、こいつ、なんて言った?


「でもま、これで分かっただろ? 俺らは本気だぜ? もしもまだなお聞き入れねぇってんなら、もっともっと殺すぜぇ?」 


 ————人の命を、なんだと思っているんだ。


 常春の心に、どす黒いものが宿る。


 今までの能天気な人生の中で、一度も感じたことのない、毒々しく、禍々しく、黒々とした激情。


「おら、なんとか言えよ? 早くしねぇと、今度はセンセを誰か一人——」


「——『頂陽針』」


 気がつくと、その技の名を口にしていた。


 その名に凝縮された精緻な体術が、自動的に行われる。暴力的な推進力を宿した拳が、体ごと爆速で突き進んだ。


 耳をつんざくような『雷鳴』。猛烈な風圧。廊下を大破壊が駆け抜け、ドアというドアが外れて吹っ飛び、ガラスというガラスが破砕した。


 しかし、以前のような手応えはなかった。


「危ねぇ……技名叫ぶやつじゃなかったら、またイイの食らってたぜぇ」


 葛躙は、避けていた。


「こりゃ、ちぃとばかし、お仕置きが必要かねぇ?」


 ニヤついて問うてくる葛躙に対して、


「————


 常春は、生まれて初めて抱いた、剥き出しの殺意を言葉にした。 

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