《1》
日常系アニメこそが、至高のアニメジャンルである——それが
可愛い女の子達が、ひたすら平和な『日常』の中で、笑ったり、戯れたり、百合の一歩手前くらいの友情を育んだりする……ドラマチックな展開も、熱いバトルも、権謀術数も何も無いが、見ていて心がぴょんぴょんしたり癒されたりする、見る清涼剤。
それが日常系アニメ。
他ジャンル愛好家からは「美少女動物園」と揶揄され、海外での人気もいまひとつな日常系だが、常春はそのジャンルこそ人類の理想郷であると信じて疑わなかった。
日常系には、戦争も、災害も、飢饉も、疫病も、災いと呼べるものは何一つ存在しない。窃盗や殺人事件さえも起こらない。ただただ平和な『日常』だけが続く。
これが、これこそが、自分達人類が目指すべき理想郷なのではないだろうか?
ゆえに、常春は日常系を愛している。
アニメ専門視聴アプリの履歴はすべて日常系アニメ。着ているシャツは常に日常系アニメのキャラのプリントもの。実家の本棚にはスカートの下まで精巧に再現された美少女フィギュアがずらりと並んでいる。
生まれ変わったら、日常系アニメのキャラになりたいとさえ主張するヘビィっぷり。いや、いっそ現実が日常系みたいになってくれたらいいのに——
しかし、それが決して叶わぬ夢想であることが分からないほど、常春は子供でもない。
世界は日常系のように優しくは出来ていない。
領土的野心、資源の渇望、人種の相違、信仰の齟齬、過去の報復……そんな理由で、有史以来何度も平和をぶち壊してきた地球一愚かな生物。それが万物の霊長たる人間なのだ。
封建時代とは比べ物にならないレベルにまで科学が発達した現代においても、領土紛争や民族紛争は無くなっておらず、泥沼化の一途をたどっている。
今の人類が生きているのは、ギリシャ神話で例えるならば「鉄の時代」。無条件で平和な『日常』など望むべくもない。
鉄と火による力こそが正義であり、無力と廉恥は馬鹿を見る。
そんな修羅の世界なのだ。
そして、常春自身も、今まさに『日常』がぶち壊されていた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……! だ、誰か、助けてぇっ!!」
助けを切望する少年の叫びが、生暖かい春の空気に溶けて消える。
五月十五日午後五時三十分。うっすらと朱が差した夕空には、薄い朧雲がまばらに広がっている。その雲の裏側に隠れた夕陽が、ぼんやりとした茜色に光っていた。
池袋駅東口からやや遠く。明治通り北沿いに立ち並ぶ、大小さまざまなビルディング群。その間に伸びる寂しい路地にて、その少年——石蕗常春は必死の形相で走っていた。
最低限の手入れだけした無造作の黒髪が、一歩踏み出すたびに跳ねる。
簡素な春物のテーラードジャケットの下では、日常系アニメの金字塔的作品「お茶立て町のお茶目なお茶屋さん」のアニメ絵プリントTシャツが風圧ではためいている。
華奢な五体に鞭を打ち、常春はひたすら逃げ続けていた。
後から迫ってくる、一人の大男から。
「ほらほら、待てよぉ! 待ってくれよぉ! 大人しく捕まってくれよぉ! ハハハハッ!」
そいつは愉悦で高まった野太い声を上げながら、執拗に常春を追いかけていた。
珍妙な身なりの男だった。
輪郭の広いカエルじみた顔つきで、頭頂部で直径三センチほどの円形にのみ長い髪を残し、さらにその頭頂部の髪を三つ編みにしている。肩口を破ってノースリーブにした服に浮かび上がる胸筋腹筋の膨らみと、外に晒された太い両腕が、屈強さをアピールしていた。
さらに左手甲には、葛飾区の『葛』の字を変形させた紋章の刺青。
見るからに強そうで、ヤバそうな風貌の男。
いや、実際強いし、ヤバイ。
「邪魔だオラァ!!」
常春がパルクールよろしく跳び越えた迷惑駐車のスポーツバイクを、その三つ編み男は真下から蹴り上げた。
バイクは金属片を散らしながら天高く飛翔。ラブホテルの窓に直撃。中から響いた若い男女の悲鳴がコンクリートジャングルにこだまする。
「ひぃっ——!?」
常春は悲鳴を漏らした。なんだあの怪力は。本当に人間なのか、あいつは。
いや、そもそもなぜ自分は、あんな化け物に追いかけ回されなければならないのだろう。
自分は休校日である今日、池袋駅東口にあるアニメ専門店で予約した円盤を購入後、残った時間で東口周辺をぶらりと散策していただけだというのに。どうしてこうなっている。
せっかく買ったDVDも逃げる途中で落としてしまった。弱り目に祟り目。
「な、なんで僕を追いかけてくるんだよっ!?」
常春は、もう何度目かになる質問を再度投げかけた。
すると、これまた何度目かになる答えが返ってきた。
「決まってんだろぉ!? てめぇが『
わけがわからない! 共通認識が無いから会話が成り立たない!
——この男と会ったのは五分前。
もう夕方五時なのでそろそろ池袋駅から南にあるボロアパートへ帰ろうかなぁと思った矢先に、この男が通せんぼをしてきた。
「お前、どこの派閥のモンだ?」と男は問うた。
質問の意味は分からないが、「派閥」などという仰々しい漢字が付くものに所属した覚えが無い常春は「いえ、別にどこでもないですけど」と答えた。
するとこの三つ編み男はいきなり襲いかかってきた。常春は逃げ出し、そこから追いかけっこが始まり——今に至る。
やはり、これまでの経緯を振り返っても、追われる理由が思い浮かばない。
前世で殺し合った仲であるというオカルティックな説は論外。
では常春が嫌な思いをさせてしまった誰かさんの代わりに報復か? いや、それも考えにくい。そもそも常春は平和主義だ。他人と極力わだかまりを残さないよう気をつけてきたつもりであった。
では——では——では————逃走しながら頭の中でいくつも候補を挙げ、それら全てを「あり得ない」と切り捨て、結局「分からない」という結論にいきつく。
いや、待てよ。そういえば、聞いたことがある。『武功』という単語を、いつか、どこかで。
それはいつだっただろうか……ああ、そうだ。あれは確か八歳の頃——
「痛っ……!」
が、その先へ追憶を続けようとした瞬間、脳にヒビが入るような激痛が頭蓋内部に響き、常春の足がよろける。
——毎回こうだ。八歳から十歳までに至る記憶を思い出そうとすると、こんなふうに頭が痛くなる。
どん底であった僕の運命が劇的に好転した、大切な思い出のはずなのに……
「がはっ!?」
不意に、背中へ重々しい衝撃がぶちあたり、息が一瞬止まる。
後ろを一瞥すると、宙に浮いた50CCの原付と、両腕で投擲した後のポーズをしている三つ編み男。信じられない話だが、原付を投げつけられたようだ。
常人なら大怪我確定な衝撃だったが、常春はすぐに体勢を整えて走行を再開。体の頑丈さには自信があった。
しかし、今年の高校入学を期に池袋での一人暮らしを始めたばかりな常春は、この辺りの道にあまり明るくない。なので無秩序に走らざるを得なかった。
だからこそ、終わった。
「あ……」
行き止まり。
ビルの外壁に囲まれた袋小路。
逃げ道は、入ってきた一本道以外無し。
その逃げ道も、三つ編み男が立ちはだかってキープしていた。
血の気がさーっと足元へ下がる感覚。
「もう逃げられねぇよぉ? 弱小
今にも舌舐めずりしそうな嗜虐の笑みを浮かべ、三つ編み男が近づいてくる。
一歩近づいてくるたびに、常春は一歩退がる。それによって距離を保ち続ける。
しかし、常春の背中がビル外壁に付いた。相手が近づいてくるのみとなり、ジリジリと彼我の距離が縮まっていく。
「ぼ、僕を殺して、あんたに一体何の得があるっていうんだ!? 警察が黙ってないぞっ!?」
「はぁ? なんでぶっ殺さなきゃいけねぇよ? 俺はただ、てめぇの持つ武功の伝承と、てめぇという実験動物が欲しいだけなんだよ」
「さっきから何言ってるんだよっ!? 武功だの門派だの、何のことだかさっぱり分かんないよ!」
恐怖と苛立ちがブレンドされた語気でそう尋ねると、三つ編み男は何を言わんやとばかりに眉を持ち上げた。
「とぼけんじゃねぇぞボケぇ。てめぇの体の中に『
またしても意味不明ワードのオンパレード。
常春の混乱を無視し、三つ編み男は右手を臀部の方へ回した。今まで逃げるのに必死でよく見ていなかったが、男のベルトの後ろ側には、蛇の鱗みたいな外観をした白いロープが輪状に束ねられてぶら下がっていた。
右手でその白ロープを掴み出すと、ぴゅんっ! という鋭利な風切り音とともに輪が解け——そのロープの正体が鞭であることを明かした。
「これかぁ? こいつは四川省系の門派から奪った『
三つ編み男は訊かれてもいないのに説明すると、ぴゅおんっ! と右手の鞭を一振り。
次の瞬間、手近にある電柱の真ん中に斜線が走った。
電柱の上半分はその斜線を滑り、その重みで電線を引き千切りながら地面へと落下した。
千切れた電線が断面をスパークさせながら三つ編み男へと迫るが、白鞭が再び振るわれた瞬間、電線は空中で細切れとなって地に降り注いだ。
——鞭って、電柱斬れるもんだっけ?
脳が、眼前で起きた現象への理解を拒んでいる。
あまりに非現実すぎて、アニメの世界に来てしまったのではないかとさえ思う。
しかも日常系じゃない、バトルもの。自分の配役は悪党に戯れにいたぶられるモブキャラA。戦闘力5のゴミ。
「どうよ、この斬れ味? この電柱と電線みてぇに輪切りにされたくなかったら、黙って俺らン所に来いや。そっちの方が生存率高いんだからよ。っつってもまぁ五十歩百歩だがなぁ」
再び、一歩ずつ距離を詰めてくる三つ編み男。
両者の距離は、さながら常春のライフゲージのようなものだった。距離がゼロになって捕まれば、人生は終わる。わけもわからないまま殺される。そう断言できる直感があった。
常春の脳裏に流れるのは、今までの人生の道程。
三才の頃に重い病を患ったこと、それが判明してすぐに母が蒸発したこと、入院生活を十歳になるまでずっと続けていたこと……十歳になって嘘みたいに病気が治ったのは、八歳の頃に出会った『ある人物』との交流がきっかけで——
「痛っ……!」
頭が割れるような頭痛が襲ってくる。こんな時でさえ、『空白の二年間』のことは思い出せない。
せめて、それを思い出してから、死にたかったな——
「何をしている?」
声。
ガムランボールを転がしたような、甘く、煌びやかで、涼やかで、理性の冷気を帯びた、女の声。
音源は、三つ編み男の後方。二人がこの袋小路に入ってきた一本道だった。
そこには、黒い装束を纏った、白い少女が立っていた。
ラビットスタイルのツインテールに束ねられた、生え際まで真っ白な髪。
その下には、幼さが残る人形じみた美貌。背丈は女性の平均身長と比べても明らかに低く、幼い雰囲気をさらに助長させている。
その小さな体は、袖がベルスリーブとなった詰襟の中華服と、袴を彷彿とさせるデザインの長ズボンでゆったり包まれている。
衣服の色は上下ともに黒。
突然の乱入者に、三つ編み男が忌々しげに舌打ちをした。
「ちっ、『河北派』かよ。しかもその白い髪……『
その口ぶりは、まるでこの白い少女を知っているかのようであった。
「もう一度問う。——何をしている?」
ガムランボールを思わせる可憐で上品な声色が、再び同じ問いを投げつける。
三つ編み男は小馬鹿にするように鼻を鳴らし、両掌を真上へ翻した。
「決まってんだろ? いつもの「武功狩り」だよ。見ろ、そのガキを。『基骨』があるだろぉ? これからこいつを連れ帰って、こいつの持ってる武功の伝承を吐き出させる。それからは開発中の
実験台。その言葉に怖気を覚える常春の内心をよそに、白い少女は視線を三つ編み男から常春へ向け、抑揚に乏しい銀鈴の声で問うた。
「あなた、門派はどこ?」
「へ?」
「あなたの門派名を教えてほしい。あなたには身の安全のため、わたし達の仲間になることを強く勧める」
いや、いきなり仲間になれとか言われても……と内心でまごついていると、若干機嫌を損ねた声色で三つ編み男が口を挟んだ。
「おうコラ待てや。何しれっと勧誘してんだコラ。こいつは俺らの獲物だ。てめぇは引っ込んでろ」
「あなた達に配慮する必要性が?」
白い少女がそう反駁する。その声は先ほどよりもやや早口で、語気も少し鋭いように感じた。
三つ編み男の眉間に、シワが数本刻まれた。
「てめぇ……あんま調子こいてんじゃねぇぞ白餓鬼。この鞭で輪切りにされてぇか?」
常春へ背を向け、白い少女に向かって歩き出す男。その身振り手振りからは、静かな怒りが見て取れた。
まずい。このままじゃあの子が危ない。
電柱を真っ二つにするような鞭だ。人間が食らえばひとたまりもない。
助けないと、どうにかしないと——常春は自分の危機を忘れ、少女の身を案じていた。
でも、自分にいったい何が出来る?
自分は手芸が得意なだけの、ただのアニオタ高校生だ。あんな化け物と戦う手段なんて持ち合わせていない。ていうか、そんなものを持っていたらこんな風に逃げ回ってはいない。
何も出来ない。自分には。
目の前の女の子を助けるどころか、自分の『日常』さえ満足に守れない。
僕は、無力だ——
————いいか小僧。この俺が作った武功『
その時、頭の中に『声』が生まれた。
————武功の命は『内勁』だ。体内の『気』を意念、呼吸、体術でコントロールし、肉体内部を自在に操作して捻り出す「高度な力」。それが『内勁』だ。その内勁は、ただ重々しい力で相手を打ち倒すという性質のみにとどまらない。打った相手の体内に浸透する内勁、小さな一点に集中させて鉄板すら打ち貫く内勁、打った瞬間振動となって相手の脳を揺さぶる内勁、毒として相手の体内に長時間残って冒し続ける内勁……技によって、内勁の「形」はさまざまだ。そして、俺の『天鼓拳』の持つ内勁の基本的性質は、「圧倒的な破壊力」。
懐かしい声。
————しかし、天鼓拳には欠点がある。……使う技のほとんどの難易度がアホみたいに高いことだ。『気』の練り方がひどく緻密で複雑で難しく、普通に練功を積んでいたのでは実戦で使用できるようになるまで何年かかるか分かったものではない。
ややぶっきらぼうで、それでいてどこか親しみを帯びた老人の声。
————ゆえに『
忘れもしない。
これは『爺さん』の声だった。
病に伏せ、死を待つだけだった幼い自分を、生きる道へと軌道修正してくれた恩人。
自分に『武功』を教えてくれた、親愛なる師匠。
やっと、思い出せた。
ずっと思い出せなかった『空白の二年間』の1ピースが、今、ようやく埋まった。
————まずは、この技から教えてやる。こいつがうまく発動すれば、ブルドーザーや戦車だってひっくり返せるほどの強大な内勁を生み出せる。いいか、よく聞け、この『技』の名は————
「————————『
そう口にした瞬間、十メートルほど離れた位置にいたはずの三つ編み男の姿が、視界の中で一気にズームアップした。
近づかれた、と一瞬思い、違うと確信。男の足は少しも動いていない。つまり、近づいたのは常春だった。
足下が爆発して吹っ飛ばされたような勢いに導かれるまま、全身の形が正拳突きのソレへと以降していく。
細い右足の踏み込みでアスファルトが陥没。それとタイミングを寸分違わず噛み合わせる形で——三つ編み男の胴体のド真ん中に右拳が激突した。
「ごほ——」
男のかすかな呻きと同時に起こったのは、三つの現象。
突き出した右拳に、火傷しそうなほどの熱感。
常春を中心に全方位へ拡散した、台風じみた風圧。
雨天ではないはずなのに鳴り響いた『雷鳴』。
次の刹那、常春より頭一つ分以上大きい三つ編み男の図体が、ロケット花火よろしく盛大に吹っ飛んだ。
途中でビルの端にぶつかりコンクリを削り取ってなお飛び続け、およそ二〇〇メートルほど先でようやくビルの谷間に落下していった。
三つ編み男がいなくなった後も、『雷鳴』の余韻は続き、しばらくしてそれも空気に溶けて静まった。
「………………」
常春は、熱感の残る右拳を突き出したまま固まっていた。
驚愕すればいい出来事があまりに多すぎて、どれに重点的に驚けばいいのか分からず、混乱していた。
そんな風に静まり返った袋小路の空気を、
「——『
白い少女のその呟きが、静かに揺さぶった。
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