第二十二話:そして始まりの鐘の音は鳴り響く
禍。白き災厄。
災害という現象の具現としてナタナエルと呼称された存在は、目の前で起きた爆炎の嵐に嗤った。
獣の如きその異様に不釣り合いなほど、上手くいったと嘲笑う姿には確かな知性……理性が垣間見えた。
命中はしていない。
だが、どうやら全部撃ち落とされたようだが……それで十分。
変生を経て禍へと転じた火島。
その実際はほとんど人としての部分は上書きされて残っておらず、ただただ暴れまわるだけの災害としての本能に塗りつぶされている。
だが、全てではなかった。
火島本人の資質によるものか、あるいは変生したてだからだろうか。
とにかくナタナエルの中に溶け切っていない意識の部分だけがどういうわけだか残っていた。
祝福を得て以来どうにも感情的な部分が多かった部分は鳴りを潜め、本来の火島は冷徹に連続殺人をしてきただけあって危険に敏い慎重さが獣としての危機本能と混ざり合いその判断を下したのだ。
敵が右腕に力を集めた瞬間、
ナタナエルの感覚がそれを危険だと判断した瞬間、
禍の攻撃本能を上回って逃走という判断を取った。
あれは危険だ。
食らうわけにはいかない。
それだけは確かだった。
だが、ただ恐ろしい力に怯えて逃げている……というだけでもない。
ナタナエルはわかっていた。
まだ力が目覚めている最中で完全に目覚めることが出来れば今のようなやられっぱなしの無様など晒さない。
だからこその一時撤退。
純粋な禍ならばまずしないであろう行動。
攻撃本能で暴れるだけの獣だからこその意表。
故に目の前の黒き怨敵はそれに釣られるように追い、その僅かな隙をつくように反転し放った無数の炎弾の雨を受けることになってしまった。
相手より上空を取りばら撒いたのが功を奏した。
あるいは相手の速さなら回避も出来ただろうが、そうなれば炎弾の雨は地上へと降り注ぐことになる。だからといって必ず守るかは確実ではなかったが地上にはあれだけ守ろうとした少女が居る。
可能性は有った。
そして、賭けに勝った。
漆黒その身体から無数の光線のようなものが放たれ、全てを撃墜されたようだがそもそもあれで仕留めるつもりはなかった。
もはや微かにしか残ってない火島としての意識だが確かに覚えていた。
目の前の敵は難敵だ。
特にこちらの動きを全て読んでいるかのような動きは捉えることすら難しい。
どれだけ爪や尾で攻め立てても虚しく空を切るだけ、火炎による攻撃もまるでその予兆を察するかのように出だしを潰される。
だが、そんな相手も一度だけ無防備に攻撃を食らった時があった。
公園での戦いの時、自爆に等しい炎で周囲を埋め尽くした瞬間だ。
奴は確かにあの時、こちらの動きを察知出来ていなかった。
まるで全本位を常に見ているかのように反応して戦っていた相手が、たかが爆炎程度でこちらを見失っていた。
詳しい理屈はわからない。確証があるわけでもない。
それでも、火島の犯罪者として幾たびも危機を乗り越えてきた経験からの勘はいつだって逃走のための最善の行動を弾き出していた。
同じ状況を再現し、再度こちらを刹那の時間とはいえ見失うことになれば相手はどう動く?
その隙をつかれ手酷い攻撃を受けてしまった経験は真新しいはずだ。咄嗟の反射として防御を固めようとしてしまうだろう。
そう――今のように。
隙をついて一気に全力をもって距離を突き放す。
この一瞬によって得られた間合いは絶対的な有利へと働く、仮にすぐに全力で追走されたところですぐに潰せるアドバンテージではない。追いかけっこに持ち込めば時間を稼ぐという目的は達成できるからだ。
「――アぁあああァァあヒひヒぃぃ!!」
笑う。哂う。嗤う。
全力で逃げながら勝ち誇ったかのように声を上げ、
「……あェイ?」
ぎしり。
世界が歪む気配にナタナエルは咄嗟に振り向いた。
爆炎と煙の立ち込める向こう側。
そこにはこちらをしっかりと捉え、巨大な光の弓矢を構える黒き騎士の存在と目が合った。
「終わりにしよう。我は――――」
――初めてかも知れない。
素直にそう思う。
悠那にとって自身の星託の力は呪われたものだった。
可能性世界を覗ける力など持たないに越したことはない。
どれほど可能性があったかなんて知ったことで進める世界は一つ。
別の可能性世界もあったなんて知ったところで心の重荷になるだけだ。
家族を亡くした時も滅びの未来についても……知らなければもっと普通に生きていけたのかもしれない。
だからこそ、自分の意思で使うことなんてもう久しくしていなかった。
疲れたのだ。
世界というのは幸福も不幸も紙一重の薄氷の道でしかないというの否応でも知ってしまうことに。
だって恐ろしい。
恐ろしい未来がもし見えてしまったらどうしよう。
幸福の未来が見えてもそこにもし辿り着けなかったとしたら……ずっと後悔しながら生きることになる。
ならば最初から知らない方がマシなのだ。
何も知ろうとせず。終わりの日まで何も見ようとせずに。ただ一人で生きて死ぬ。
それでいいと思っていた。……思っていた。
――そんなわけない。大嘘だ。強がっていただけ。最後の最後に気付いて……そして助けられた。諦めていた未来の先に私は居る。
だからこそ。
悠那は力を使うことに躊躇わなかった。
地上に出て見上げた空に輝く蒼く輝く星。
降り注ぐ紅き雨を受けた尊の助けたいという偽りのない一心で。
「――我は識る。希望の星を」
瞬間、世界が明滅し色を無くす。
力の制御などしたこともないが故に膨大とも言える可能性世界の情景が次々に悠那の中に流れ込んでくる。
頭が割れそうに痛み、パンクしてはち切れそうになる。留まることなく莫大な情報量に、いつの間にか鼻や眼から紅いものが流れ出していたことに気づいた。
――構うものか。
悠那は笑った。
笑いながら力の行使を全開で行い続ける。
ぽたり、ぽたりと零れるように落ちた紅色の雫が地面を濡らしていることに気付いた。
――構うものか。
世界が赤く染まる。明滅して意識がどこかに飛んでいきそうになるのを必死に耐え……そして、耐えきった。
時間にして数秒にも満たない間、洪水といっても過言ではない情報濁流を喰い縛り、そしてその中から確かに尊の手助けをするための最善手を見つけ出した。
「先輩! 相手は―――――――――」
空の向こう。
天を舞うヒーローに向けて届かせるために渡された端末。その中のシリウスへ悠那はありったけの思いを込め……告げた。
「……シリウス」
『――術式起動』
返答はない。
だが、何よりも雄弁に尊は行動で応えた。
世界が軋む音が聞こえた。
『方位格固定。殲滅術式起動準備オールグリーン。アルケオス、砲撃形態に移行』
シリウスの機械的な音声が加速した尊の意識の中に淡々と響く。
その誘導に従うようにアルケオスの左腕から光の弓が現れる。
それはアルケオスの総身すら超える巨大な金色に輝く光の弓、番えるのは極限まで圧縮された蒼き雷光を纏いし破界の一矢。
『術式安定。射出準備完了』
その術式は雷光の一撃。
極限の先まで圧縮した
殲滅術式の名に相応しく、手加減の余地など存在しないただ滅ぼすだけに特化した術式。
だからこそこれを撃つタイミング。そして状況については細心の注意を払う必要があった。
「一瞬とはいえ見失ったのにはヒヤッとした。狙ったわけじゃないだろうが……」
その高い殲滅力が故に砲撃形態に移行しなければ十分な形で射出することが出来ない。
だからこそ意表をつくかのような行動には驚愕した。
そして、咄嗟にどうするかも悩んでしまった。
だけども……。
「――ふん、泣き虫の癖に」
加速する世界の中。
センサーは未だに完全に直っていない。爆炎と煙も晴れてはいない。
それでも尊はその声を聞いた瞬間に速やかに行動を開始を指示した。
確証なんてのはない。
――無いのだけれども。
矢を番えて構えを取る。
空の上であるというのにまるで地面があるかのように踏みしめ引き絞る。
爆炎と煙の向こう側。
その先に居るであろう相手に向けて。
「……見えた」
『対象をロック』
白き災禍の獣。
ナタナエルは果たしてその弓矢の切っ先の彼方に確かに居た。
天空を翔けるようにその姿は遠ざかっていく。
「さっきのは上手くしてやられたが……お前が上を取ってくれているのはこっちとしてもありがたい」
――気にすることなく全力で撃てるからな。
そんな尊の心の声が聞こえたわけではないだろう。
だが、何かを察したかのように振り向いたナタナエルと何故だか目があった気がした。
「終わりにしよう。我は――――」
それには何かの意味が有ったのか。
それとも何の意味も無かったのか。
尊は澱みなくこの戦いを終わらせるための最後の一射を解き放った。
「――砕く。蒼き雷霆を以て」
『術式発動――メリアグロスの裁きよ』
放たれるのは蒼き雷光の奔流。
天去の空を割るが如く轟音と共に突き進むのは裁きの名を冠した滅びの一矢。
それは外れることなく白き災禍の獣を呑み込み――そして一つの事件は終わりを迎えた。
天去の空の下。
二人組の人影は空を見上げながら言った。
「何だったんだアレは……っておい! 待て」
「待たない! こんな大事件、急いで向かわなきゃ来た意味ないでしょ!」
「状況もわかっていないんだ。せめて応援がくるまで――」
「待たなーい!」
「ああ、もう。……クソっ!」
別の場所で人影は言った。
「ああ、始まったんだね」
そして遠く離れた闇の底で人影は言った。
「面白い結果になった」
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