8、僕の幸福論

前編

 僕にはどうしても幸せにしたい人がいる。とっても強くて、弱い人だ。とっても綺麗で、泥まみれな人だ。そして、とっても優しくて残酷な人だ。


 僕の母のことだ。こう言えば、マザコンだと思われるかもしれない。けれど、僕は母にとても感謝している。この世に僕を産み落とし、女手一つで育て、とびきりの愛を注いでくれた人だから。


 もちろん、面と向かってそんなことが言えたことはない。だってやっぱり照れ臭い。男っていうのは見栄っ張りでどうしようもない生き物だ。僕もその例にもれなかった。


 見栄というつまらないものを覚えたのは小学校五年生の参観日の時だった。俗に言う反抗期の始まりだ。あの時から僕は俺になった。きっかけは本当に些細なことだった。その時、僕には好きな女の子がいた。今となっては、もう顔さえ覚えていない。でも、教室の中でもあまり目立たない方だった僕にも、積極的に話しかけてくれる優しい子だった。その子は参観日で来校した、僕の母を見て言った。


「怜くんのお母さん、とっても綺麗な人だね。いいなぁ、あんな綺麗なお母さんがいて。羨ましい」


 そんなことを言われたのは初めてだった。母の顔なんて僕自身にとっては、毎日つき合わせている見慣れた顔だ。テレビを見て、このアイドルは可愛いなとかは思ったことはあるにせよ、母を綺麗だとか、そうじゃないだとか、そういう目で見たことがなかった。だから、僕はなんて答えていいのかわからなかった。そして、好きな子に話しかけられて、多少パニックにもなっていた。唐突な気恥ずかしさから返した言葉は今思い出してみても、散々な言葉だった。


「そんなことないよ。最近じゃおばさんくさくってさ。家じゃだらしない格好ばかりだし」


 ケンソンという背伸びをするつもりが、気がつけば母を貶す言葉が口を突いて出ていた。本当なら伝えなくてもいいことだった。女の子も僕の普段なら口にしない醜い言葉に驚いていたのだろう。その顔立ちなどほとんど覚えていないのに、気まずそうに目を瞬かせていたのを覚えている。僕はそれを見て、己の失言を悟った。背後で母が悲しそうな顔をしていたのは予想できていたけれど、振り返って謝ることができなかった。僕はただ、自分が振りかざした言葉の刃に怯えていた。


 その時からだ。母に顔を合わせる度、どこか気まずい思いを拭えなくなったのは。僕はいつもと変わらぬ笑顔で「おかえり」と言ってくれる母の優しさに甘えていた。



 甘えて、甘えて。いつしか中学生に、高校生になった僕は母に対してひどい言葉を吐くのが日常になっていた。「クソババア」だとか、「近づくな」とか、そんな言葉をかざしては母を遠ざけるくせ、母がいなければ生きていけないような、そんなどうしようもない奴に成り下がっていた。しかし、この頃には母も反抗期の息子の対応には慣れてしまったようで。僕の言葉にいちいち傷ついたような顔をすることもなくなっていた。しかし、それは裏目に出た。そんな母の様子に僕は罪悪感というものを忘れた。身勝手な反抗は更に酷くなった。聞くにたえない言葉を躊躇いもなく吐き出すようになった。母はそうなっても平気なふりをしていた。きっと、心では傷ついていたはずなのに。


 母と僕。二人の生活は時にギクシャクしながらも、破綻することなく、母の忍耐によってなんとか成り立っていた。母が僕を捨てないでいてくれたから、僕は青春を謳歌できていた。その頃には愚かにも、ちっとも気づかなかったことだったけど。



 けれど、そんな盲目的な反抗期にも、終わりは訪れた。いや、今でも母にとっては僕なんて馬鹿で阿呆な、迷惑な息子かもしれないけれど。それでも、今までの俺はなんて酷い息子だったのだろうと気付かされる出来事があったのだ。


 母が倒れたのだ。僕が高校三年生の、受験を間近に控えた冬のことだった。原因は過労。思えば、その頃、母はやけに疲れた顔をして帰ってくることが多かった。僕はどうせ歳のせいだろうと思って、楽観的に構えていたけれど、そうじゃなかった。母は毎日命を削って働いていたのだった。片親だから、自分が働かなきゃ息子を大学にやることができないんだと言って、人よりもたくさん働いていたそうだ。


 確かにうちは片親だ。母は父親のことを幼い頃から頑なに話さなかったし、僕自身もそれだけはタブーなんだと思って、どんなに酷い喧嘩をしても、その言及だけはなんとなく避けていた。でも、それが母はきっとずっと申し訳なかったのだろう。病室に母を見舞いに現れた僕に、母は頭を下げていた。


「ごめんねぇ、迷惑かけて。今は受験の大切な時期なのに、倒れたりして情けない。私がしっかりしなきゃいけないのに。大丈夫、心配しないで、あんたは勉強しな。大学のお金のことだって、母さんがなんとかするからさ」


 母が口にするのは自分の身体のことよりも、僕のことばかりだった。もう十分に大変な思いをして、働いていたはずなのに、倒れた自分を責めるばかりだ。その目はどこか虚ろで、今にも消えてしまいそうに、いつの間にか小さくなってしまった肩を震わせていた。そんな母の姿に、僕は打ちのめされた。母が僕を思うはずの言葉が痛くて、気づけば病室だというのに、大声で怒鳴っていた。


「何馬鹿なこと言ってるんだよ、母さん! 今は俺のことなんてどうでもいい。自分の身体のこと考えろよ!」


 シンとあたりが静まり返った。同じ部屋の患者やその家族が驚いたように、僕を見ていた。若いナースは僕を注意しようとして、口を開くも、隣にいたベテランのナースに止められていた。


 その中で、僕は母さんを見ていた。じっと睨み付けるように。母さんは呆気に取られたように僕を見上げていた。


「いい加減にしろよ。俺はいつまでもガキじゃねぇ。なのに、いつまで俺を甘やかしてんだよ。いい加減、怒れよ。もう我儘言うな、大人になれって。言えよ。なんでそうやって、自分ばっかり我慢しようとするんだよ! なぁ!」


 我ながら酷い言い様だった。ずっと母に我慢を強いていたのは僕だ。子供のままでいたいと幼稚に甘えていたのは僕だ。なのに、それを棚に上げて、尚も自分の身勝手は母のせいだと言う。これじゃあ、何もやっていることがそれまでと変わらない。本当に僕は馬鹿な子供だった。


 僕は叫び続けた。


「お前に……母さんに死なれるのが一番迷惑なんだよ! 大学に行けなくなるより、ずっと!」


 自分の愚かさはわかっていた。でも、こうでも言わないと、母は最後まで自分を大切にしてくれない気がした。このまま僕を置いていってしまいそうだった。それが怖くて、声が震えた。


 僕は母の手を握った。その手はもうしわくちゃで、指先がぞっとするくらい冷たかった。僕はその内に眠る体温を探るように母の手を額に当てた。


「だから……だから、もう、休んでくれ。俺もできることを探す。なんなら、高校卒業したら働くから」


 本当は大学へ行きたかった。そのために勉強はそれなりに頑張ってきた。それで、良い会社に勤めれば、母ももう文句は言わなくなるだろうと思って。多分、無意識のうちに、僕は母を助けたかったのだと思う。母は僕の唯一の家族だから。でも、もし大学へ行きたいという願いが母を安心させるのではなく、目の前から連れ去ってしまうものであるとするのなら、別に叶えられなくてもよかった。将来の安心よりも、目先の母の命の方を僕は優先したかった。


 僕はじっと待っていた。母が死に、僕が生きるのではなく、苦しくても一緒に生きてくれる道を選んでくれるのを待っていた。果たして、僕の言葉は届いているのだろうか。今までずっと、母を傷つけてきた僕の言葉はまだ母の心に突き刺さるのか、僕にはわからなかった。


 そうして、どれほど経っただろうか。僕には永遠にも感じられる数秒だった。不意に母の手がポンと僕の頭の上に乗せられた。そして、それが撫でるように頭の上を動く。


「バカだねぇ」


 声音は底抜けに明るかった。これまでの沈黙が嘘みたいに、溌剌と響いた。それでも、僕はまだ顔を上げられなかった。僕に握られた手に、涙が落ちてきたから。まだ、不安で顔が見られなかった。


「あんたはバカだよ。ただの睡眠不足さ。ご飯をしっかり食べて、眠れば全部元どおりだよ。平気さ、あんたが心配することは何もない」

「でも」

「怜、私はあんたを残して死んだりはしないよ」


 僕はそこでようやく顔を上げた。母は笑っていた。涙で顔をくしゃくしゃにしながらも、綺麗な顔で笑っていた。母はそこに生きていた。母の、優しい体温が僕を包み込んだ。


「そりゃあ、死ぬタイミングなんてわかりゃしない。けど、それでもできる限り生きて、いつでもあんたが帰って来られる場所になるために、そう簡単に死んでやったりはしないさ。それは約束するよ、絶対に」


 僕は母の腕に数年ぶりに包まれて、思い知った。僕がこれまで当然のように享受してきたモノは、このボロボロの手によって差し出されてきたモノだったのだと。僕は、それを知って、母とおんなじように泣いた。明るい声で、笑って、涙を流す。


「母さん、僕を育ててくれてありがとう」


 それが反抗の終わりの合図だった。

 


 それからは、少しずつ僕の態度はマシになっていった。やっぱり照れ臭さはあって、時々は喧嘩もしたけれど、それでも以前ほどは酷くはならなかった。多分、ちゃんと会話をするようになったからだと思う。それまでは意識もしていなかった手伝いをするようにもなって、買い物の荷物を持つようにしたり、風呂掃除をするうち、自然と母との会話が増えていったのだ。


 そんな中で、母の仕事のことも教えてもらった。母はどうやら、営業として働いているようで、勤めている会社は小さな会社ではあるものの、その中での営業成績はトップだそうだ。倒れてしまった時は、その期待故にちょうど大きな取引をいくつも抱えていたようで、忙しい日々が続いていたのだとか。正直、あの時は精神的にも辛かったと、後から少しおどけながらも、正直に話してくれた。


 僕はその後、大学を受験し、なんとか合格した。入学してからは母にもう少し楽をしてもらいたいと思って、奨学金をもらい、バイトにも励んだ。だから、交友関係は少し疎かになってしまったけれど、それでも新しい出会いもあって、念願の彼女もできた。彼女を母に紹介した時は驚かれたけれど、とても喜んでくれた。幸いにして、彼女とは今もうまくやっている。



 そして、今日という日を迎えた。荷物は全て車に積み込んだ。二十年以上過ごしてきた部屋にはもう何も残っていない。古いアパートはいつも隙間風が冷たかったけれど、不思議と居心地は良かった。だが、こうして何もない部屋を改めて眺めてみると、僕の知らない部屋に見えた。隣に立つ母は心なしか涙ぐんでいる気がする。僕ももらい泣きしそうになりながらも、なんとか堪えていた。


「もう、行っちゃうんだね」

「ああ」


 僕は今日、家を出る。この母の元を離れて、一人暮らしを始めるのだ。


 この決断をするには勇気が必要だった。一人残していく母が心配だったのだ。けれど、ここでためらうのは母に失礼だということもわかっていた。


 母はかつて倒れた後、言った。うちはひとり親ではあるけれど、それだから何かができないだとか、そういう風に何かを諦めてしまうことは、私が許さない。あなたがあなたらしく生きてくれることが一番の親孝行だからと。それが初めての腹を割った対話だった。


 母のその言葉に何か思わなかったわけではない。でも、母がそう言うのなら、それを信じようと僕は思った。なにせ、僕は元から出来た息子ではない。なら、母の言うことにそのまま耳を傾けてみてもいいんじゃないかと、そう思ったのだ。


 だから、僕はこの家を出るという選択をした。自分の成長のためであることはもちろん、母の自由のためにも、だ。母には、いい加減僕以外の幸せも見つけて欲しかった。僕中心の人生なんて、きっと楽しくない。こんな馬鹿息子に振り回されるなんて、僕なら真っ平ごめんだ。僕は母には幸せになって欲しかった。


「母さん」

「うん?」

「今までありがとう」

「うん」

「僕は今まで幸せだったよ」

「……うん」

「だから、母さんも幸せにね」

「……」

「元気で」


 僕は最後の荷物が入ったリュックを背負って、部屋を出た。母の顔は見られなかった。母の顔を見たら、僕は泣いてしまいそうだった。情けない僕は、やっぱり何一つ変わっていなかった。


「ねぇ、怜」


 母が呼びかけてくる。僕は足を止めた。


「生まれてきてくれて、ありがとう」


 もうだめだった。頬に涙が伝った。僕は降参して振り返る。そして、笑った。


「こちらこそ、生んでくれてありがとう」


 振り返った先に立つ母は、僕とおんなじ表情をしていた。やっぱり僕たちは親子だった。巣立ち、道は分かたれても、それだけは変わらない。僕と母は別の道を、それぞれが幸せになれるように。歩き始めたのだった。

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