7、老人の戯言

前編

 お嬢さん、お嬢さん。どうしたんです、そんなにぼうっとして。まるで魂を抜かれたみたいな顔をしていました。まぁ、ここではそんな顔も大して珍しくはありませんが。あなたもここには慣れましたか? 今日は空が青いかどうかを見ているくらいしか楽しみの無い場所でしょう。本当、病院なんて来るもんじゃないですねぇ、全く。


 おやおや、これは失礼しました。こんな老人に話しかけられて、さぞお嬢さんは戸惑われていることでしょう。何、どうせここでは退屈でしょう。どれ、一つこの老人の昔話とやらに付き合ってはくれませんか。もちろん、無理にとは言いません。老人の戯言だとでも思って、聞き流してもらって構いません。ただ、私は誰かに話を聞いてもらいたいのです。哀れに老いた人間の身の上話を、ね。


 私はね、昔役者を目指していたんですよ。舞台の上で、色んな人物になりきるアレですよ。子供の頃から、目立ちたがりの性分でね。役者という職業を知った時から、俺は将来役者になってやるんだと思っていました。


 だから、中学生になると、当然のように演劇部に入りました。とても小さな五、六人しかいない部でね。その中で、男は私一人。だから劇をするとき、私は必然的に舞台に上がっていました。ある時は、ロミオ。またある時は、ピーターパン。大抵ヒーローの役が多かった。私は舞台の上でいつも英雄だったんです。あの頃はとても演劇が楽しかった。いや、皆の視線を一身に集めて、声を張り上げるのがたまらなく気持ちよかったんです。それは例え、見ているのが半ば強制的に集められた生徒たちと、保護者であってもね。ただただ、舞台の上での全能感に酔いしれていました。


 それで味をしめた私は、高校になっても演劇部に入りました。その高校の演劇部は中学までのものとは比べ物にならないほど大きくてね。県内でも有数の実力を持った演劇部でもあったんです。入る前、私はとても楽しみにしていました。なんたって、そんな演劇部に入ったら、きっともっと視線や歓声を集められるだろうと思っていたからです。胸を期待に踊らせて、入部しました。


 しかし、現実は違いました。大きな部となると、さすがに舞台に上がれる人間は限られていました。中学でも演劇をやっていたと言えば、多少は実力があると見てもらえたのか、初めは何度か舞台に上げてもらえました。しかし、人数の都合で舞台に上がっていただけの私はそれまで切磋琢磨しあえる相手もいなかったせいで、実力はそう素人と変わらないものだったのです。それはすぐに見抜かれてしまいました。次第に脇役に追いやられて、しまいには裏方しかやらせてもらえないようになりました。


 まぁ、そこで正当な努力ができればよかったのですけれどね。中学で大勢の視線を集めていた私は途端に見向きもされなくなったことに腹を立て、腐りました。要は、自分の実力不足を周囲のせいにしたのです。皆、俺の実力がわかっていない。俺を舞台に上げないなんて、どれほどこいつらは無能なのだろうと、憤るだけで、何も努力しなかったのです。それは卒業公演のオーディションに落ちても尚、続きました。


 自分の間違いに気づいたのは、大学の演劇サークルに入った後でした。長い長い時間がかかりました。青春時代を丸ごと無下にして、私はようやく気づいたのです。大学でも私の演技が通用しないとわかって、ようやく。舞台に上がれなかったのは環境のせいではない、私に実力がなかったせいなのだと。その時はさすがにショックでした。


 それからは流石に努力しました。先輩から学べることはなんでも学んで、アルバイトのお金は根こそぎプロの演劇を観に行くことにつぎ込みました。台本はしわくちゃになるまで読み込んで、寝ても覚めても演劇のことを考えました。その結果、私はなんとか舞台の上に返り咲くことができました。毎回主役というわけではありませんでしたが、それでもコンスタントにオーディションには受かり、何度か主役を張ることもありました。


 大学を卒業してからは、プロの役者になると決めました。もちろん、親には猛反対をくらいました。あの時代で、せっかく大学まで出してやったのに、役者になるなんて何事かと。でも私は家を飛び出て、劇団に入ったのです。絶対に大物になって、親を見返してやると思っていました。


 まぁ、この時はなってやるつもりだったんですけどね。現実ってのはどうもうまくいきません。私は劇団に入ってから、何度も苦汁を嘗める思いをしました。大学のサークルという狭い世界ではある程度うまくいっていた私も、プロの世界ではどうも実力不足でした。基本的に裏方に回ることが多く、やれても脇役。そもそも、劇団の劇に観客が少ない時もあって、苦しい状況が続いていました。


 でも、そんな時に私は恋に落ちたのです。彼女はその劇団でいつもヒロインを演じる女優でした。彼女はいつも生き生きとした演技で、観客を魅了した。私も彼女のその姿に魅了されたうちの一人でした。


 彼女とは縁あって、お付き合いをしました。ある時、子供もできて、結婚もしました。でも、若く貧乏だった私たちには子供を養えるだけのお金がありませんでした。だから、私は決意したのです。舞台で輝く彼女に代わって、私は夢を諦めて、真っ当に働くと。そうして、私は実家に戻りました。家出同然で家を飛び出したので、出戻った私に親は激しい怒声を浴びせましたが、それでもどうにか職を手配してくれました。そうして、私は夢を諦めて、ただのサラリーマンとなったのです。


 私はその時の選択を後悔しているわけではありません。しかし、舞台の上でキラキラと輝く妻を観ていると、それを叶えられなかった自分が酷く惨めに思えました。あそこに自分も立てていたのかもしれないと思うと、心にぽっかりと穴が空いた気分でした。その感覚は何をしていても、私につきまといました。


 それがきっかけだったのでしょう。私はその穴を埋めるために、しょっちゅうふらふらしていました。酒、タバコは体に合わなかったので、ギャンブルにハマりました。中でもパチンコ、競馬をやることが多かったですね。これが強いか弱いかというと、私はとても弱かった。競馬では大穴にかけて、一発逆転を狙うタイプでした。なので、当たる時は大金を手に入れたけれど、外れる時の方が圧倒的に多くて、借金が膨らむばかりでした。阿保みたいでしょう。お金を作るためにサラリーマンになったのに、その稼いだお金は子供のためではなく、ギャンブルに注ぎ込まれ、挙句マイナスになったんですから。私はギャンブルに酔いしれながらも、いつも罪悪感に苛まれていました。必死に借金を隠している自分が嫌いでたまらなくなりました。


 ある時、私はついに首が回らなくなりました。限界を迎えたんです。お金も、心も、何もかもが。妻には当然バレました。子供にも呆れられました。でも、彼女たちはそんな私を見捨てませんでした。彼女たちは私に「どうしようもないなぁ」と言いながらも、やり直すために動いてくれたのです。妻は舞台を降りて、働きました。娘も学業をやめて、働きました。私はギャンブル依存症と診断されて、三ヶ月病院に入院することになりました。


 初めは苦戦しました。皆慣れないことに慣れるので、精一杯でした。私もギャンブルが頭から離れなくて、辛い思いをしました。でも、せっかく妻と娘がくれたチャンスです。私はもう二度とギャンブルなんてするもんかと強く決意しました。


 でも、そう決めていたのに、私は失敗したのです。退院後はしばらくギャンブルとは無縁の生活をしていたのですが、ある時パチンコ屋を見て、ふともう一回だけやってみようと思いました。馬鹿なことをとお思いですか? でも、私は安心したかったのです。今ギャンブルをやっても、もう同じようにはならないと自分で実感したかったのです。


 案の定、それがきっかけで私はまたギャンブルにはまりました。本当に、自分でもどうしようもないと思います。それで、再び行き詰った私は自殺を図りました。もう、これ以上家族に迷惑をかけないためにはこうするしかないと思ったのです。暗い自分の部屋で、私は天井に杭を打ちました。そこに縄を引っ掛けて、輪を作りました。椅子をその下に持ってきました。首に縄を通しました。あとは椅子を蹴って、倒してしまうだけでした。それさえできれば、私は死ねたのです。


 でも、それが妻に見つかりました。どうして、と泣かれてしまいました。私は死ねないまま、今度はこの精神病棟に連れられました。死なないように見張られる日々が始まったのです。


 私は、それで今ここにいます。妻と娘に生かされて、ここにいるのです。私は酷い夫で、酷い父親です。家族に迷惑をかけるだけで、何にもできないのです。なのに、ここにいる。生きてしまっている。


 あなたには、この気持ちがわかるのではないでしょうか。噂によると、あなたは人を殺したようですね。それも、自分を産んだ母親を。自分が産んだ娘を守るために、あなたは母親を殺した母親だ。娘を犯罪者の子供にしてしまった気分はいかがですか。死にたいでしょう。私と同じだ。私もずっと妻と娘を殺そうとしているのです。金を貪り取ることで、間接的に。だから、私とあなたはとてもよく似ている。


 どうです、もう一人殺してみませんか。例えば、私とか。きっと、何も変わりませんよ。殺した人数が一人から二人に変わったところで。あなたは綺麗な女性のままだ。人殺しの母親のままだ。何も、何も変わりやしない。


 きっと、綺麗な顔をしたあなたに殺されるその絵はドラマチックだ。どんな演劇よりも残酷で、美しくて、人の心を奪うはずだ。私はかつて、人の心を動かすことを諦めた。だけど、今なら、あなたに殺されることができたなら、私は最後にもう一度、誰かの心を動かせるかもしれない。諦めたはずの夢を掴むことができるかもしれない。


 ここに一つ、小さなフルーツナイフがあります。見舞いに来た家族からこっそり盗み取ったものです。とても小さなナイフだけど、人の命を奪うには十分でしょう。


 さぁ、私を殺してください。乱暴に、一瞬で。私の物語を終わらせてください。


 それが、私の願いです。さぁ、それで幕引きにしましょう。

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