後編
朝日はまだとても低い位置にあった。白く、寒々しい太陽は私の目を刺すように眩く輝いている。私はその光に照らされた我が家を見上げ、ふうと大きなため息をついた。
たった一日帰っていないだけなのに、家が随分と懐かしいものに見えた。別に、家に帰らない日は今日が初めてではない。あの人が怖くて、家に入れなかったことが何度もある。
家出をした後の気分はいつも最悪だった。家出をした日の翌日は酷く打たれることを恐れて、いつも家の前でぐずぐずしていた。胸の内を満たすのはただひたすらに恐怖だった。あの人は帰らなかった私をちっとも心配しない。それどころか、帰ってきた私を見て、落胆したように、冷たい視線を投げかけ、ひたすら殴るのだ。どうして帰ってきた。居なくなって清々していたのに。まだ私の人生を邪魔するのか、このゴミが。そんな言葉と共に。
流石に高校生になってからは、そうなることをわかっていたから、家出は極力しないようにしていたけれど、それでもどうしても家に居たくない日はアゲハさんの店に泊めてもらうこともあった。無駄だとわかっていても、時々逃げ出したくなるのだ。だから、家出は慣れっこだった。
しかし、今日ばかりはその心持ちが違った。今の私の胸の内を満たしているのは驚くべきことに、一抹の寂しさだった。あれだけ嫌だったはずのこの家を見て、まさかこんな気持ちになるとは自分でも思いもしなかった。
馬鹿みたい。私は自嘲した。自分のこの感情がとても愚かしく思えた。ずっとずっと、この家を出ることを夢見ていた。この家が嫌いで嫌いでたまらなかった。なのに、今更こんな気持ちになるなんて。
それでも、いざドアノブに手をかけると、心臓がドクドクと早い脈を打ち始めた。そのことに私はどこか安心する。それから、そっと震える手に力を込め、ドアを開けた。
薄暗い玄関はとても静かだった。カチャリというドアを開ける微かな音が嫌というほどに響く。玄関の廊下の向こうにはリビングに続くドアがもう一枚ある。そこからは明かりが漏れていた。
珍しい、と思う。病院を出た時はまだ六時半ごろだった。けれども、あの人が起き出してくるのはいつも八時くらいだ。間違いなく、まだ起きるのには早い。だが、今日は運の悪いことに、彼女は起きているようだった。まぁ、今日で最後と思えば、きっと平気だ。多少揉めても、逃げ出せばいい。これであの人の暴力に耐えるのは最後になる。私は覚悟を決めると、中へ入り、リビングに続く扉を開けた。
中をそっと伺ってみれば、あの人は確かにいた。ダイニングテーブルに向かって座っている。しかし、上半身はテーブルの上に倒れていて、どうやら座ったまま寝ているようだった。その側には酒瓶とグラスがある。昨夜はどうやら晩酌をして、そのまま寝てしまったらしい。
私は足音を立てないように気をつけながら、彼女の様子を伺いつつ、キッチンへ入った。いつ彼女が起きてくるかわからない状況にビクビクしながらも、手早くいつものように床下の収納を開けると、これまで貯めてきたお金や荷物を取り出した。こんな環境で生きてきたせいか、あまり持ち物は多くない。それが幸いして、すぐに全てを取り出し終えて、立ち上がることができた。彼女はまだ寝ている。ここまでくれば、あとは逃げるだけだ。私は彼女へ背を向けると、元来た扉の方へと歩き出した。詰めていた息をそっと吐き出し、ドアノブに手をかけたところで。
「ねぇ」
不意に彼女の方から放たれたその声に、私は大きく震え上がった。走らなければ、と思うのに長年支配されてきたその声に、私は恐る恐る背後を振り返ってしまう。しかし、彼女は相変わらず、机に突っ伏したままだった。
では、今のは空耳だろうか。私がそのまま呆然と動けないでいると、再び声がした。
「ねぇ、お父さん」
お父さん。私は彼女の言葉にハッとする。
「どうして、死んじゃったの」
それは寝言だったのだろう。しかし、彼女のその声は悲痛だった。普段、私が耳にしたことのない声だった。当然だ、彼女は私の前ではその話をしない。だって、彼女のお父さんは、つまり私の祖父は、彼女の一番の心の傷だから。そして、その傷を作ってしまった原因は間違いなく私だった。
祖父は五年前に他界した。原因は過労死。元々、そんなに心も身体も強くない人だった。けれど、筋は通す人で、とても優しい人だった。だからなのだろう。母が入院してしまった後、私を引き取り、育ててくれた。祖母と彼女を説得して、多いとはいえない賃金しか出してくれない会社で必死に働いてくれた。それがどれほど大変なことだったのか、私も知っている。毎日朝も晩も働いていた。家に帰ってくると、妻や娘に私のことで責められていた。それでも、私に大丈夫だよと微笑んでくれた。
だから、その娘である彼女は、きっとそれが気に食わなかった。私が彼女から彼女の受けるはずだった愛情の分を奪ってしまったから。私が来なければ、祖父はもっと家にいてくれただろう。微笑みかけるのも彼女にだけだっただろう。それに、夢も諦めずに済んだかもしれない。彼女の「都会の専門学校に行ってパティシエになる」という夢は私の養育費のために潰れてしまったのだ。だから、私はこんなにも憎まれている。
私はそれを知っていた。でも、それを知っていたからといって、何もできることはなかった。私はのうのうとこの家で生きていく他なかった。私が存在していても、良いことなんて何一つない。なのに、他人の人生を踏みにじりながらも、惨めに生に縋っていたのだ。彼女のストレスのはけ口になることをせめてもの贖罪にして、私は図々しくもこの屋根の下に寄生していた。
そして今。私はその唯一の務めさえ放棄して、自分一人逃げ出そうとしていた。散々搾取した挙句に、自分だけこの場所から逃げ出そうとしている。全く酷い人間だった。
私は彼女にそっと歩み寄った。酒瓶の横に広げられているのは几帳面な字で書かれた家計簿と何枚もの紙。紙はクレジットカードの明細だった。元から少ない貯金は底をつき、今や借金までしている。それでも支出として出ていくのは、祖母の入院費だった。祖母は祖父の死後、介護が必要な身体になってしまって、現在は老人ホームだ。彼女はこの片田舎で最低賃金のパートをして、仕事の合間に祖母の世話をしている。多分それは、彼女が私と同い年の頃、夢見ていた生活とは真逆のものだろう。結婚もできず、一人世話のかかるゴミ人間を養い、介護と仕事に追われる日々。全て私が彼女に強いたものだ。
寝ている彼女の顔は涙に濡れていた。起きている時はいつもしかめ面に歪められたその表情は、今はどこかあどけなく見える。私はそんな彼女の側で、膝をついた。冷たいフローリングの上に、いつもそうしているように額を押し当てる。
「今まで申し訳ございませんでした」
いつも恐怖と痛みに追い立てられるように、頭を下げていた。多分、この人のために頭を下げたことはほとんどなかった。けれど、今だけは素直な気持ちで頭を下げていた。彼女には……叔母には本当に酷いことをした。もちろん、彼女を憎む気持ちがないわけではない。私は散々彼女に暴力を振るわれてきた。けれど、今日この日まで生きてこられたのは、野望を叶えようと思えたのは叔母のおかげなのだ。今日という日が、叔母と私の人生が交わる最後の日なのなら、私はこうしておきたかった。
「瞳さん、今までありがとうございました」
叔母は目を覚まさなかった。もうそろそろ起きるはずの時間だ。なのに、彼女は身じろぎ一つしなかった。
私はゆっくり立ち上がると、荷物を持って、リビングを出た。履き潰したボロボロの靴に足を突っ込んで、外へと出る。太陽は家に入った時よりも少し高い位置にある。見慣れたいつもの冬の朝だ。
私は乾燥した空気に今更思い出したように、咳き込む。そろそろ胸が痛い。呼吸が苦しい。腕も痛いし、疲れ果てている。コンディションは最悪だ。けれど、そんな今日が、私の旅立ちの日だった。
私はいつもの通学路を歩き出した。駅は通学路を半分行った後、一本道を外れたところにある。
中途半端な田舎町。毎朝愛でたこの光景は変わらず私の視界に映る。たまにすれ違う人の顔も、アスファルトの間に生えた植物も、頬に吹き付ける風の匂いでさえ、全部全部知っている。これまでの私の世界の全てだ。大嫌いなこの街の色だ。
よろよろとした覚束ない足取りでは中々駅につかない。なのに、時は簡単に過ぎてゆく。時の流れが私をこの街から追い立てる。十五分で行ける道のりを三十分で歩いて。それでも、感じた時はほんの刹那で。私は泣きそうになった。駅がいつの間にか目の前にある。
私は自動券売機に千円を飲み込ませて、切符を買った。電車には乗り慣れていない。だから、ただそれだけのことにも緊張した。周囲の人間はICカードを素早くタッチして、改札を素早くくぐり抜けていく。私だけが切符を握っていて、アナログだった。
私は手の中にある、新幹線が止まる駅の名前とそこまでの運賃が書かれた切符を見つめた。これを改札に通してしまえば、私はもうこの街に戻れなくなる。そうすると決めている。
私が覚悟を決めて、切符を改札に押し込もうとした、その時だった。
「れい……ちゃん?」
不意に掠れた声が耳に入った。私は反射的に顔を上げて、その声のした方へと視線を向ける。すると、そこには。
「虎」
改札を抜けてやってきた強面の彼がいた。かつて、私の目の前から逃げ出した彼だ。彼の姿を見るのはいつも夕暮れ時か、夜で、朝日の中で彼の姿を見るのはどこか新鮮だった。私はまさかこんな早い時間帯、しかもこんなタイミングで彼に会うとは思わなくて、思わず目を見開いた。
「虎、どうしてここに?」
「いや、昨日繁華街で女子高生が巻き込まれた事件があったって聞いて、もしかしたら、その、怜ちゃんも巻き込まれたんじゃないかって」
彼のいつもの自信ありげな態度は今日、すっかりナリを潜めていた。それどころか、しどろもどろで話す様子は、もはや怯えているようでもある。私はそれを放っておくわけにもいかなくて、一度改札の前から離れて、虎の目の前に立った。
「そう。聞いたんだ」
遅かれ早かれ、虎の耳に入るだろうとは思っていた。この街は小さい。だから、非日常なあの事件のこともすぐに知れ渡ってしまう。きっと、心配をかけただろう。でなければ、こんな時間に虎がここまで来るはずもないのだ。今も包帯が巻かれた腕に視線が釘付けになっている。
私はその視線を受けて、どこか居心地の悪い気分を味わいながらも、頭を小さくさげた。
「ごめんなさい、心配をかけて」
「まさか本当に、巻き込まれたのは怜ちゃんだったのか。腕、痛むか?」
「まぁ、それなりに」
「そう……そうだよな」
虎は自分自身の言葉に呆れたように呟いた。互いの間に流れるギクシャクとした空気に、会話がそこで途切れる。私も虎になんて別れを告げればいいのかわからなかったし、虎も何も言いたげに口をモゴモゴと動かすだけだった。
しかし、いつまでもそうしている訳にもいかないのも事実だった。別に急ぐ旅でもない。私はこれからずっと一人なのだし、時間はたっぷりある。とはいえ、この駅にはうちの学校の生徒がたくさん降りてくるのだ。クラスメイトや先生の中でも電車を使っている人がいるかもしれない。私は残りわずかな高校生活を捨てる気でいるから、そういう人たちに会うのは少し気まずかった。
私は一度改札の向こう側を見てから、再び目を伏せる虎を見た。そして、ゆっくりと口を開く。
「ねぇ、虎。私、これからこの街を出ようと思うの」
「この街を、出る?」
私がそう告げると、虎は弾かれたように顔を上げた。それから、私の荷物を見て、私の言葉が本気であることを悟ったようだった。それでも、俄かに信じがたい気持ちがあるようで、彼は私に近づくと、肩を掴んだ。私はその突然の動作に驚いて、一歩離れようとする。しかし、虎の力はとても強くて、抜け出せない。それで、昨日の黒い三日月型の笑顔のことをふと思い出した。鳥肌が立って、気分が悪くなった。今の虎は怖かった。それなのにも関わらず、虎は手を離してくれない。彼は必死の形相で問いかけた。
「どうして? まだ高校の卒業まで時間はあるだろう?」
「うん、そうだけど、もういいの。出席日数は足りているし」
「でも、でも。瞳さんは? バイト先の人は? 知っているのか? 先生や友達だって心配するだろう? こんな、突然」
虎のその質問はもはや質問とは言いがたく、縋るようだった。私を見失うことを恐れているかのように、強い眼力で私を見つめている。けれど、私はあえてそれを冷たく見返した。
「虎、瞳さんは心配しないよ。私が疎ましいもの。バイト先の人は、私がずっとこの街を出たがっているのを知ってる。だから、納得してくれる。多分、先生もそう。私の考えをなんとなく察してる。友達は……いないしね。気にする必要はないよ」
なんて残酷なことを言わせてくれるのだろうと、私はやさぐれた気分だった。虎は何にもわかっちゃいないのだ。まぁ、当然だ。虎は私の一部分しか見ていない。ただ、私が母に似ているという極々一部分しか。そして、疑わない。盲目的なのだ、彼は。ずっと母の亡霊にすがりついている哀れな男だ。正直に言えば、今や私は彼を見下していた。それまでは数少ない私に優しくしてくれる人間だったから、好きだったはずなのに、今は。あの時、私の前から逃げ出した彼を見てからは、正反対の方へと気持ちが傾き始めていた。
「ねぇ、虎。ママは死んだんだよ」
私はそれを知っている。目の前ではっきりと見ている。母が汚く、血溜まりの中に沈んでいたのを。母の綺麗なところしか見ていないこの男とは違って、私はこの眼でしかと見たのだ。一人の人間の終わり、というのを。
「虎、私をあの人と同じにしないで」
私はああはならないと、そう決めたのだ。あの牢獄のような病室で決意したのだ。だから、この街を出る。母とは違う道を歩むために。
私が突きつけた現実に、虎は打ちひしがれたような顔をした。まるで、行き先がわからなくなった迷い子のようだった。でも、私の肩を掴んでいた手は大きな大人のものだった。私はすっかり力を失ったそれを乱暴に振り払う。
「いつまでも母に囚われないで。いい加減に自分で歩いて。私はそうするって決めた。十八の私ができて、あなたができないはずがない」
「でも、怜ちゃん」
「聞きたくない、言い訳なんて。とにかく、私は行くって決めたの。それだけだから」
私は虎の言葉を遮って、一方的に言い放った。虎は何かを呟いていたようだったけれど、私は聞こえないふりをして、改札を目指して歩き出す。虎はついてこなかった。
私は切符を改札に通す。ホームへ続く、階段を降りる。電車がちょうどやってくるところだった。速度を落とし、止まった電車のドアの向こうには同じ学校の制服を身に纏った男子生徒が立っていた。彼はイヤホンを耳から抜きながら、電車の中から私を見ていた。ドアが開く。私はその子と入れ違うようにして、電車に乗り込む。彼は私をチラと振り返ったけれど、何も言わなかった。
中途半端な田舎なだけあって、車内は空いていた。私が適当に近くの空いていた席に座ると、プシューと音を立てて、扉は閉まった。電車がゆっくりと動き出す。
窓の外を見た。幾度も見てきた駅前の風景だ。よくわからないモニュメントが飾られた、小さなロータリー。そこと線路とを隔てる鉄網のフェンスの側には私を見つめる男の姿があった。私が突き放した、虎という男だ。彼は寂しげな目をして、私に手を振っていた。私は振り返していいのかわからなくて、どんどんと遠ざかっていく彼を見つめることしか出来なかった。
電車はどんどんと速度を増し、故郷の風景は流れていった。小学校、中学校、高校、通学路、家、病院、公園、スーパー。見知ったそのどれもが遠ざかっていく。田舎らしい田んぼや山々の風景に飲み込まれていく。窓の外に私の知る風景がなくなるのはとても早かった。私はそれくらい小さな世界で今まで生きていたのだ、と今更ながらに思い知った。
私は窓の外を眺めるのを止めた。このまま眺めていたら、目眩がしてしまいそうだった。不安と、期待とに押しつぶされてしまいそうだった。そんな中、虎の最後の言葉が頭の中でこだました。
「でも、怜ちゃん。俺は大人になっちまったよ。もう変われなくなっちまったんだよ」
それは呪いのようだった。もう子供とも言えなくなってしまった私にも降りかかってくるようでもあった。私はギュッと目を瞑る。
「大丈夫」
根拠のない独り言だった。でも、そうでも言わなきゃ、私はまた同じことを繰り返すような気がしていた。息ができなくなりそうだと思った。だから、自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
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