6、父の懺悔

前編

 神様。僕はずっと、毎日がそれなりに上手くいっていると思っていました。


 確かに今まで沢山の失敗をしてきました。大学受験では失敗をして浪人をしました。就職活動も上手くいかなくて、ニートになりました。せっかく就職できた企業もブラックで、退職せざるを得ませんでした。本当に僕のキャリアはボロボロで。何度も見えない明日に震えたものです。


 プライベートも順風満帆とは言い難いものでした。大学生まで一度も恋人ができたことがありませんでした。社会に出てから出来た恋人にもすぐ振られました。初めての結婚もヒステリックな彼女とは上手くいかなくて、破綻してしまいました。大した趣味もなく、人との関わりが薄れていく毎日は本当に味気ないものでした。


 でも。それでも、僕は幸せになれたのです。神様、あなたのおかげで。沢山の紆余曲折を経ながらも、ようやく定職に就くことが出来ました。二度目の結婚は上手くいって、可愛い子供にも恵まれました。今思えば、直面してきた困難は今の幸せのためにあなたが僕に課した試練だったのでしょう。僕は本当にあなたに感謝をしているんです。


 しかしまあ、こんなことを誰が予想したでしょうか。全てを見通すあなたなら知っていたのでしょうが、凡人にすぎない僕は十八年越しに知った事実に大変驚きました。そして、すべて上手くいっていると信じ込んでいた自分を恥じました。僕はずっと、自分の幸せばかりに囚われていたのです。気づくべきことに気づかず、守るべきものを守らなかった。


 そう。僕は罪深いのです。神様。僕に「もう一人、娘がいた」だなんて、この十八年間知りもしなかった。そして、知らなかったとはいえ、守り、慈しむ役目を放棄し続けていたのです。無知とは罪なのですから、僕は立派な罪人です。


 ああ、神様。僕に失望したでしょうか。でも寛大なあなたの前で、今一度言い訳をさせてください。一度目の結婚は、僕にとってはトラウマだったのです。そのころはブラック企業に勤めていたこともあって、あの時は毎日生きるので、精一杯だったのです。仕事場でも、家庭でも怒鳴られ、蹴られ、理不尽に振り回され、僕は疲れ果てていた。正直、その三年間のことは今もぼんやりとしか思い出せない。それくらい、僕にとっては辛い記憶だったのです。


 僕はあの場所から逃げ出しました。逃げて逃げて、忌まわしい過去を忘れようと努めました。でも、それがいけなかったのですね。あの過去にしっかりと向き合い、戦うことがあなたの御意志だった。あなたの御意志に背いたせいで、あんな悲劇が起きてしまったのだから、僕はもうあなたに許されないのかもしれません。


 でも、この罰は僕が背負うには重すぎるのです。神様。僕は既にあなたに見放されているのかもしれません。しかし、もうあなたの力をお借りするしか、僕には道が残されていないのです。だから、ここで。あの日の悲劇のことをお話しさせてください。


 あの日。僕にもう一人の娘がいると、家庭調査員から話を聞いて、知ったあの日。僕は彼女に会いに行くと決意しました。何と言っても、前の妻はとても出来た人間とは言えなかったからです。いえ、僕自身も人間的に出来ているとは思いませんが、彼女は一言で言えば、とても「傲慢」な人間だったのです。そう、自らが神であるかのように不遜に振る舞い、他者の愛を貪り尽くす悪魔のような人間でした。


 そんな彼女が果たして娘をちゃんと育てられているでしょうか。僕にはとてもそうは思えませんでした。そもそも家庭調査員が入ったということは何かしらの問題を抱えていたからに違いありません。だから、僕は彼女に会いにいくと決めました。僕はとても臆病で、前の妻に会うのは怖くてたまらなかったのですが、それでも娘の存在を知ってしまった以上は見て見ぬフリをすることは出来ませんでした。


 娘に会ったのはとても寒い冬の日でした。空が不気味なほどに晴れ渡り、白い太陽の光が眩しい日でした。調べた住所は二十年前に僕たちが暮らしていた場所からさほど遠くない場所にある、ボロボロのアパートでした。家賃は三万円。築五十年の建物で、窓はひび割れて、周囲には無造作に雑草が生えていました。インターホンは壊れているようでした。しかし、鳴らす必要には迫られませんでした。彼女とは……娘とは、アパートの前でばったりと出くわしたのです。


 一目見ただけで気づきました。ちゃんと食べているのか不安なくらいに華奢な手足。休みの日のはずなのに着ている制服。そして何より、母親そっくりの美貌。瞳の色素の薄いところだけは僕譲りなのかもしれません。彼女が僕の娘であることはすぐにわかりました。


 彼女はアパートの前で立ち尽くしていた僕を感情のない瞳で一瞥し、そのまま通り過ぎようとしました。僕は思い切って、彼女を呼び止めました。


 彼女は知らない男に自分の名前を呼ばれて、一瞬、驚いた様子でした。しかし、それだけでした。彼女は目を丸くして、僕を一秒ほど見つめた後、再びそのまま通り過ぎて、彼女の住む六畳一間の部屋のドアを開けました。


 僕は当然のように慌てました。まさか何者であるかも聞かれずに、そのまま無視されるとは思わなかったのです。僕は不躾とわかっていながらも、部屋の中に消えようとする彼女の腕を掴みました。そして、話を聞いてほしいと懇願しました。


 彼女は僕が腕を掴んだ瞬間、大きく震えました。それから、強く振り払うと、敵意に満ちた声で「触らないで」と叫びました。ようやく僕を映した瞳には恐怖が見えました。


 ああ、きっととんでもないことが起こっている。こちらを威嚇する彼女を見て、僕は直感的にそう思いました。僕は彼女に素直に「ごめん」と謝ると、名刺を差し出しました。怯える彼女に話を聞いてもらうには、まずは自分が怪しい者ではないと示す必要があると理解していたからです。


 彼女は僕の差し出した名刺を恐る恐る覗き込むと、「何の用?」とつっけんどんに尋ねてきました。彼女が警戒を解く様子は一向に見られませんでした。このままでは扉を閉められてしまうと思った僕は、率直に切り出すことにしました。「僕は君の父親だ」と。


 これにはさしもの彼女も驚いたようでした。名前を呼ばれた時よりも人間的な、年相応の少女的な驚きの表情を見せました。でも、それもやはり長くは続きませんでした。僕は彼女の動揺が収まってしまったら、もう話は聞いてもらえないだろうと踏んで、矢継ぎ早に言葉を紡ぎました。「中に入れてほしい」との要求を。


 彼女は迷うように僕から視線を外しました。それは何かを計算しているのか、考え込んでいるようでもありました。それから、彼女は「少し待っていて」と言うと、一度ドアを閉めました。


 部屋の外に一人、取り残された僕は不安になりました。果たして彼女は僕の話を聞いてくれるだろうか、と。なにせ十八年間も彼女のことを放置していたのです。彼女が僕に対して、「なんで今まで何もしてくれなかったのか」と怒ったとしても、無理のない話でした。


 それでも辛抱強く部屋の外で待っていると、中から囁き声が聞こえました。それは彼女が誰かに言い聞かせているような声でした。それに応えるような女の子の声も聞こえます。どうやら、彼女は一人でここに住んでいるわけではないようでした。僕はそれを想定していなかったのですが、それでも彼女から話を聞かねばならないと思い、覚悟を決めました。


 しばらく待っていると、やがて話し声が止みました。代わりに、足音が近づいてきて、扉が開かれます。彼女は相変わらず警戒を解いていないようでしたが、それでも「入って」と中へと促してくれました。


 部屋は散らかっていました。それから、鼻が曲がりそうな異臭が立ち込めていました。机の上には酒やタバコが当たり前のようにあり、床にも脱ぎ捨てた服や靴下、ペットボトルが散乱していました。彼女はこの部屋の惨憺たる有様に慣れているのか、気にも止めていないようでした。僕は散らかっているのにも関わらず、がらんとした印象を受ける薄暗い部屋をしばし呆然と見ていました。しかし、いつまでも突っ立ったままなのを、彼女に不思議がられると、我に返りました。僕は彼女に促されて、ちゃぶ台を挟んだ向かい側に座ると、改めて名を名乗りました。


 彼女は僕の名を興味なさげに聞き終えると、彼女の方も一応と思ったのか、僕が事前に聞いていた通りの名を名乗りました。それから、しばらくの沈黙が流れました。


 僕は彼女の僕を見定めようとする視線に緊張して、部屋の中の様子へと再度視線を走らせました。そういえば、部屋に入る前は女の子の声がしたのに、部屋の中にその姿はありません。いったいどこに行ったのだろうと思って、僕は彼女に尋ねました。「そういえば、小さい女の子の声がしたけれど、ここにはいないの?」と。


 彼女は何も答えませんでした。それどころか、僕の質問などなかったかのように、ただ「何をしにきたの」と質問で返してきました。僕は彼女のペースに惑わされながらも、「君の様子を見に」と答えました。それから、「これからのことも話し合いたい」とも言いました。すると、彼女は「そう」とうなずきました。彼女が何を思っているのか、僕にはまるでわかりませんでした。瞳は確実に僕を映しているはずなのに、まるで遠くを見ているようでした。無感動で、それでいて深遠な瞳に、僕は囚われていました。


 「それなら」と、彼女は言いました。何と答えが返ってくるのか、僕は咄嗟に身構えました。しかし、彼女の言葉が続くことはありませんでした。


 不意にガラリ、と押入れが開きました。僕と彼女は反射的にそちらを向きます。すると、中から女の子が出てきました。二、三歳ほどでしょうか。彼女は色素の薄い瞳に涙を浮かべ、子供ながらに整った顔立ちをくしゃくしゃに歪めながら、押入れから飛び出してきました。「ママ!」という叫びと共に。


 女の子が飛びついたのは僕の娘であるはずの彼女でした。僕はそのことに驚きを隠せませんでした。高校の制服を身に纏った彼女が「ママ」だって? そう思わずにはいられなかったのです。


 しかし、女の子に抱きつかれた本人はというと、それに相応しい慈愛に満ちた表情をしていました。女の子の頭を優しく撫でながら、「どうして出てきたの?」と少し咎めるように聞いています。女の子もそれに甘えるように彼女に頭をすり寄せていました。


 「ばあばが怖かったの」と女の子は答えました。ばあば? それは僕の元妻のことだろうか。僕は混乱する頭で、なんとかそんな結論にたどり着きました。そして、元妻は今どこにいるのだろうなどと、今更ながらに考えます。僕の視線は自然と女の子が出てきた押入れの中へと向きました。


 すると、目が合いました。こちらを向いた魂を失った虚ろな目と。


 「見ないで!」と、突如彼女の鋭い声が飛びました。同時に、ぴしゃりと押入れの襖が閉じられます。しかし、僕は忘れられませんでした。腐り始めた肉に覆われた頭蓋と目が合ってしまったことを。


 今のは? 今のはきっと……いや、そんなまさか。そんなわけがない。でも、え? あれはなんだろう。ばあば? そう女の子は言ったっけ。ああ、確かにどこかで見たことがある気がする。でも、まさか。まさかだ。どうしよう。そんなはずはないのに、気分が悪い。


 僕は、押入れの前に立ちはだかる彼女の顔を見上げました。彼女は息を切らせながらも、冷たい目で僕のことを見据えていました。僕はその視線に射止められて、動けなくなっていました。


 「今見たものは忘れて」と、彼女は僕に命じました。「こいつはこの子を殴ろうとした。必要なことだったの」と、彼女は淡々と言いました。僕にはそんな彼女が恐ろしく見えました。彼女の表情に罪悪感など、後悔など、欠けらも見当たらなかったのです。ただ、そうするべきだったと、さも当然のように話すのです。僕にはそれがとても理解できませんでした。


 怪物だ。僕の中には身勝手にもそんな言葉が浮かびました。この部屋で十八年間、悪魔に育てられたものは怪物だったのだ。そんな結論に至ると、僕はもうその場に居られませんでした。もつれる足で、必死にその場から逃げ出そうとしました。


 「ねえ!」と、部屋を飛び出そうとする僕の背後から、そんな声が追ってきました。僕は無我夢中でした。彼女は、僕の娘は「必要だから」自分の母親たる女を殺しました。なら、僕は? 彼女の犯罪の一端を知ってしまった父親である僕も殺す「必要」があるのではないでしょうか。そう、その瞬間は信じていたのです。


 僕は逃げました。脇目も振らずにひたすら逃げました。そこからどうやって、家に帰り着いたのかさえ覚えていません。今日ここで懺悔するまで、ずっと恐怖に囚われて、閉じこもっていることしかできませんでした。


 ああ、神様。僕はなんて罪深いのでしょう。僕の罪が怪物を育ててしまったかもしれないのです。いえ、こうして懺悔している今は、それが恐ろしいのではありません。冷静になった今ならわかるのです。僕は悲しいのだと。


 僕は何も彼女にしてあげられなかった。だから、彼女はきっと追い詰められたのです。彼女は一等大切なものを守るために、手を汚すしかなかった。彼女は生まれてからずっと地獄にいた。なのに、これ以上どう地獄に落ちるというのですか。だから、彼女には罪の意識がないだけなのです。彼女は地獄以外を、地獄の外の世界で生きる術を知らぬのです。


 そしてそれは、悲劇でしかない。これは誰が悪いわけでもないのです、神様。強いて言うのなら、僕とあの悪魔が背負うべき十字架なのです。


 だからああ、お許しを。彼女と、彼女の娘に祝福を。あの場から逃げ出してしまった僕にそれを祈る資格はないのかもしれません。でも、これから僕も僕なりの戦い方をします。それを、あなたにも見守っていて欲しいのです。彼女たちに救いを与えて欲しいのです。そのためになら、僕は地獄に堕ちたって構わない。


 どうか。どうか。彼女たちにあなたの愛をお与えください。

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