後編
「いたずらな運命だよね。本当に」
そんな呟きが耳に入った。悲哀に満ちた、切ない声だった。その低くも優しい声には聞き覚えがある。それまで暗闇を揺蕩っていた私の意識はその声に導かれるようにして、急激に浮上した。
意識が覚醒すると同時に襲いかかったのは、凄まじい痛みだった。右腕が焼けるように熱く、私はたまらずうめき声をあげた。目を開けようとするのに、涙が滲むばかりで視界が定まらない。
痛い。誰か助けて。
心の中でそう叫ぶ。痛みには慣れていたはずだ。しかし、今回のそれは今までに経験したことがないほどの堪え難い痛みだった。しかし、私は涙を流しながらも、この痛みの理由を確かに理解していた。
ああ、こんなに痛いのは生きているせいなのだ。
私はあれだけ死にたいと願っていたくせ、今ここで生きている。それが情けなくて、悔しかった。死に際、生きたいと思ってしまったことが、無様で、腹立たしかった。私はいなくなるべき人間だ。ここにいたって、誰かに何かを与えることなど出来ない人間だ。それなのに、それなのに。私はここで生きている。
「ああ、くそ」
口汚い言葉が口をついて出る。他人には決して見せない、自分のおぞましい本性の一端だ。でも、そうして自分を罵っていると、腕の痛みが少し和らいだ気がした。痛みの感覚が麻痺し、頭が冷静になってくる。涙が頬を伝い、こぼれ落ちた後で、ようやく視界が定まった。
「大丈夫かい?」
そして、側にいた人物を認識する。彼は柔和な顔立ちに心配そうな表情を乗せて、こちらを見ていた。私は一瞬、これまでずっと側に人がいたという事実に怯みながらも、目の前の白衣を纏った人物がよく知る人物であることを認識すると、途端に恥ずかしくなった。私はそれまでの醜態を誤魔化すように軽く咳払いをすると、彼から目をそらして、周囲を見回した。
「先生、ここは」
「病院だよ。君はしばらくの間、気を失っていたんだ」
病院。確かに、この真っ白で清潔そうな空間はそうとしか見えなかった。それならば、長年カウンセラーとして、また精神科医としてお世話になっている、服部先生がここにいるのも理解できる。激しく痛む腕にも包帯が巻かれていて、処置を受けた後であることは確かだった。窓の外はまだ暗かったが、時計を見れば、既に明け方だった。
そう、私は。あの男に。気味の悪い笑い方をする男にナイフで襲われたのだ。
徐々に状況を思い出すにつれ、すっと血の気が引いていった。あの歪な笑いが頭に浮かんで、離れない。
嫌だ、怖い。
記憶が実感を持って蘇る。暗い路地裏の光景がフラッシュバックする。痛みが再び激しくなって、意識が遠のきそうになる。体の震えが止まらなかった。
「怜ちゃん、怜ちゃん!」
先生が必死に呼びかけてくる。それで、ようやくどうにかハッと我に返った。鋭い痛みを発する右腕を除いて、全身が冷たくなっている。私は自分が今ここにいることが信じられなくなって、自分の頬に左手で触れた。そこには柔らかい肉の感触があった。
「先生、私は」
「ああ、言わなくてもわかっているよ。怖い思いをしたね。でも、もうここは安全だ。あの男は捕まったし、君を傷つけるものはここにはもう何もないよ。何も、ね」
先生は優しく笑って、私を落ち着けるように言った。それから、深呼吸してごらん、とアドバイスしてくれる。私は大人しく、その通りに大きく息を吸って、吐いた。心臓は未だドクドクとうるさいけれど、それでもどうにか「ここにいる」という感覚を取り戻せた。
「怜ちゃん、よく生きててくれたね」
先生の恐る恐る伸ばした手が私の頭をふわりと撫ぜる。その手は暖かく、どこか懐かしかった。もうずっと、こんなことはなかった。誰かに「生きててくれてよかった」と言われることも、頭を撫でられることも。私の眦から、涙がこぼれ落ちた。もう、何が何だか分からなかった。怖いのか、苦しいのか。嬉しいのか、安心したのかさえも。感情がぐちゃぐちゃだった。ただ、一気に緊張が解けた。
私はただ泣いていた。理由もわからないままに、ただ泣くことしかできなかった。先生はその様子をじっと優しく見守ってくれていた。
※
ケホリ、ケホリと乾いた咳が薄暗く、人通りの少ない廊下に響き渡る。思いの外大きく響いたそれに、私は眉をしかめながらも、どうにかそれを抑え込もうと胸元を抑える。咳をすると、その衝撃が怪我をした腕にも響いて痛かった。一歩先を歩く服部先生はそんな私を心配そうな眼差しで見ていた。
「ねぇ、怜ちゃん、身体は平気かい?」
「ええ、平気です。なんとか」
正直、腕だけじゃなく、咳のし過ぎで喉も胸元も痛かった。咳は思いの外、体力まで使うから、身体も少し重い。まぁ、身体が重いのは咳のせいだけではないのだろうけど。
でも、咳が酷いからといって、足を止めるほどではなかった。私には夜の闇が消えきってしまう前にやらなくてはならないことがあるのだ。その為にこうして今も、服部先生には協力してもらっている。しかし、服部先生は常日頃から病院という場にいるからか、そんな私の咳を見逃すことはできないらしい。
「怜ちゃん、まだちゃんと他の先生に咳のことは診てもらっていないから、何とも言えないけれど、おそらく気管支炎だよ。度々あるっていうなら、咳喘息ってことも考えられる。ちゃんと治療しないと、本格的な喘息移行することだってあるんだよ。だから、無理は禁物。落ち着いたら……いや、出来るだけすぐにきちんと診察を受けてね」
「ええ、ありがとうございます」
思いの外、詳しいアドバイスだった。先生は精神科医で、呼吸器系は専門外のはずで、私はそのことに驚く。振り返って、先生の様子を伺うと、彼は力なく笑った。
「最近色々勉強しているんだ。誰かを救う力がもっと欲しいって思って」
「すごいですね、先生は」
誰かを救う、そんなことの為に努力出来るなんて、本当にすごい人だ、と思った。強い人だ、とひたすら感心させられた。彼はまるで私とは対極にある人だった。奪うばかりの私、誰かに与え続ける先生。それは絶望的なまでの乖離だった。私は、途端に先生が遠くに行ってしまったような気がして、目を逸らす。前を見れば、目的地まであと少しだった。
重たい扉が目の前に立ちふさがった。常に鍵のかかった、鉄の扉だ。服部先生が壁に備え付けられたカードリーダに、自身の首から下がるカードをスキャンする。すると、扉が開き、目の前にさらに白い廊下が伸びた。しかし、そこには今まで通ってきた廊下にあったような病室の扉はない。小さな鉄格子のはめられた、一つ一つに厳重に鍵のかかった扉が並んでいた。時折聞こえるのは、意味もなさないような叫び声。あるいは何かに絶望したようなうめき声。まるで牢獄のようなところだ、と初めて来た時の抱いた感想をそのまま体現したような場所。ここは精神科の閉鎖病棟だった。そして。
「怜ちゃんのお母さんがいた病室は、奇遇なことに今は空いているみたいだ。元々入っていた患者さんは昨日、普通病棟に移ったらしい。でも、午後からは違う患者さんの部屋になるけどね」
ここがかつての「私の母の居場所」だった。私はゴクリと息を飲み込んだ。緊張していた。ここに来るのは三年ぶりだ。けれど、懐かしさは感じなかった。むしろ、三年前のあの日が昨日のことのように思い出される。今身に纏っている制服も、高校のものではなく、中学のセーラーであるような気がした。
「怜ちゃん」
呆然と立ち尽くす私に、服部先生が呼びかけてくる。私はそれでようやく我に返った。先生の不安げな視線を遮るようにして、母の病室だった部屋の前に立つ。そして、先生が鍵を開けてくれたドアを、ゆっくりと押した。
ベッドの上には人影があった。寂しそうな雰囲気を纏った女性だった。その生気の無い、全ての感情を失ったような、そんな顔がこちらを向く。私と視線が合い、彼女は少し目を見開いて。
「怜」
そう、呟いた。彼女は確かにそう呟いたのだ。
私は一瞬見えた幻に、思わず泣きそうになった。全ては幻だ。今ベッドの上にあるのは真っ白な枕と掛け布団だけだった。自殺防止のためにシーツすらかけられていない、そのベッドの上にはもう誰もいなかった。
「ママ」
トイレとベッドと鉄格子と。ガランとした部屋に私の声は空虚に響く。当然、返事はなく、それは白い壁の中に吸い込まれていった。私はふらりとよろめくようにして、部屋の中へと一歩踏み出す。
「ママ」
やはり、返事はない。外の街灯の明かりだけが、冷たく部屋を照らしている。どれだけこの狭い部屋の中を彷徨ってみても、永遠に彼女の元へはたどり着けなかった。
「ねえ」
かつて、伝えたかった言葉があった。全てに絶望して、明日すら信じられなかった中学生の私には言えなかった言葉だ。なのに、それを言葉にする前に、彼女はいってしまった。私の手も、声さえも届かない場所に、たった一人で。できることなら、連れていって欲しかったのに。
「ずるい、ずるいよ」
あの日の問いかけが私の耳元で蘇る。
「ねぇ、あなたは幸せ?」
そんな問いだけを残していってしまうだなんて。私には答えが見つからないこと、わかっていたでしょう。なのに、答えのわかりっこない質問だけしていなくなってしまうなんて、残酷じゃないか。そんなの、ずるい。
「私がそんなに邪魔だった?」
ママ、あなたは私をこの地獄に残していった。私と一緒に生きることも、一緒に死ぬことも選んでくれなかった。それは私があなたを不幸にしていたからなのか。私は本当の親であるあなたにさえ疎まれる疫病神だったのか。だとしたら、私は、私は。
「生まれてこなきゃよかった」
「怜ちゃん!」
ポツリと呟いた言葉が、先生の激昂した声に遮られた。私がハッとして顔を上げると、いつもは穏やかな表情をしている先生が今までに見たことのない形相で怒りを露わにしていた。私はそのことに驚いて、一歩先生から距離をとる。しかし、先生はあっという間にその間合いを詰めると、私の両肩をがっちりとつかんだ。その手は震えていた。
「そんなこと、そんなこと言わないでくれ」
先生の顔は怒りながらも、どこか怯えているようにも見えた。声音にも哀願の色が含まれていて、普段なら怒鳴り声に萎縮してしまう私も不思議と怖さを感じなかった。ただ、その勢いに圧倒されて、目の端から涙がポロリと零れおちる。先生は私の涙を見て、ようやく我に返ったのか、慌てて私の肩から手を離した。
「ごめん。いきなり怒鳴ったりして」
「いえ、ただ、驚いただけで」
私は自由になった手で涙を拭った。その頃には先生はいつもの柔和な雰囲気漂う顔に戻っていたが、バツが悪そうだった。
「ああ、いけないな。自分の感情に振り回されて怜ちゃんを怒鳴るなんて、カウンセラー失格だ」
「いえ、私も軽率でした。他人の命を救うことを仕事としている人の前で、生まれなきゃよかっただなんて、命を軽んじる言葉を発するべきではなかった」
「いや、違う。違うんだよ、怜ちゃん。私の仕事はむしろ、そういう思いを抱えた人たちの気持ちに耳を傾けることだ。だから、それ自体が悪いわけじゃない。これは私自身の、一個人としての問題だ。君は悪くない」
先生自身の、一個人の問題。それはどういうことなのだろうか。私はそれが気になったけれど、そこに踏み込んでいいものかわからずに口を閉ざす。人との距離感というやつは難しい。だから、下手なことを言って間違えたくなかった。
先生は私のそんな小賢しい、刹那の逡巡を見抜いたのだろうか。苦笑いを浮かべて、ポンポンと優しく私の頭を撫でた。
「怜ちゃん、君も私が君のお母さんの担当でもあったこと、知っているだろう?」
「はい、それはもちろん」
だから、先生とは長い付き合いなのだ。物心ついた時には既に先生とは関わりがあった。先生はとても優しかったから、こんな私にも良くしてくれた。それが申し訳なくて、よそよそしくしてしまう時もあったけれど、先生が態度を変えることは全くなかった。
「だからね、君のお母さんがどういう想いで君を産むことを決意したか、知っているんだ」
「本当、ですか」
私は先生の言葉に衝撃を受けた。先生は私の知らない答えを、知りたい答えを知っているかもしれない。その事実に、私は反射的に飛びつきたくなる。しかし、先生は迷うように、視線を宙に泳がせた。私にはそんな先生の躊躇いがもどかしかった。
「教えてください、母のこと」
「でも、それを私の口から伝えていいものか、わからないんだ。秘密主義にも反するしね。言葉と気持ちが必ずしも一致しているわけではないし、事実を湾曲してしまうかもしれない」
「でも」
「でもね、話してあげたい、と思う気持ちがあるのも事実だ。何しろ、私はもうとっくにカウンセラー失格なんだ。君に怒鳴ってしまったようにね。私は君に、君たち親子にあまりに入れ込んでしまった。客観視なんて、とっくの昔からもうできてないんだ。君のお母さんが、君を産むという決意をしたその日から、ずっとそうだ」
先生は苦しそうに言った。自分を責めている。それが自己嫌悪常習犯である私には、一目でわかった。私はもう、無邪気に母のことを知りたいとは言い出せなくなっていた。先生は私のことを考えて、迷っている。それがわかってしまったから。
「私は君に憎まれても仕方がないと思っている。私は君のお母さんを自殺させてしまった。救うことができなかったんだからね」
「そんな、先生は」
「いや、君にはその権利があるんだよ。そして、君のお母さんにも申し訳ないと思っている。彼女は私の『わがまま』で生きていてもらっていたんだ」
「わが、まま」
私は先生の言葉を復唱した。しかし、あまりピンとこなかった。けれど、母は死んでしまった。ということは、母はその「わがまま」の義理を果たしたと思ったから、いってしまったのだろうか。私はどこかぼんやりとした心地で先生の話を聞いていた。
先生は気を取り直すように小さく首を振った。
「いや、私が願った『わがまま』のことは、今はどうでもいい。それより、君を産むと決めた日の話だ」
私は再び話が戻ってきたことに気がついて、鋭く息を吸い込んだ。先生は誰もいないはずのベッドの上を見ていた。そこに母の姿を思い描いているようだった。
「彼女は言ったよ。『この子を幸せにする。それを阻むなら、何だってしてやる』って」
強い口調だった。もしかしたら、母は同じような口調で先生にそう言ったのかもしれない。
そして、それは私の心を穿った。湧き上がるこの気持ちの正体はわからない。母が何をそう思って言った言葉なのかもわからない。一つ言えるとすれば、そんな言葉、普段なら自分とは縁遠い言葉だと断じて、気にも留めなかっただろうということだ。ただ、今回に限ってはそれができなかった。母が言ったというその言葉は、私に確かな痛みをもたらした。目には見えないけれど、その言葉は私には暴力的すぎて、たまらなく痛かった。私は耐えきれずに、その痛みを言葉に出す。
「服部先生、私は母のことを憎しんでいるんです。ああはなりたくないと軽蔑しているんです。母は哀れで、馬鹿で、無力だった」
母は結局何もできなかった。幸せにすると言いながら、結局私には何もしてくれなかった。今にも壊れそうな心と共に、この場所に座っていただけだ。残したものだって、あのわけのわからない問いかけだけ。幸せ? 馬鹿馬鹿しい。そんなもの知るはずがない。あなただって、それを見出せなかったから自分勝手な死を選んだのだろうに。私には母の考えが理解できなかった。
「私は母みたいにはならない」
私は母の娘だ。それは間違いなく。母を知る人全員が、私と母は似ていると宣う。だけど、別の人間だ。同じ結末など迎えない。そのために私はどれだけ死にたくても生きてきた。自死だけは選ぶものかと、「野望」を支えに、日々を乗り越えてきた。
「だから先生、私はもう自分の病室には帰りません」
「待ってくれ、今の状態で? 無茶だよ、そんなの」
突然の私の宣言に、先生は慌てだした。しかし、私の決意は固かった。
「いえ、決めたんです。荷物だけとったら、私はここを、この街を出て行きます。ちょっと予定よりも早くなりましたが、どのみち同じことです。ずっと決めていたことですから」
高校を卒業し、街を出ること。それが、私が抱えていた「野望」の第一段階だった。もう既にこの街にいる意味はほとんどない。まだ引っ越し先の物件は見つけていないけれど、必要な書類はもう用意してあるし、アゲハさんのおかげで、お金だってある程度は集まった。高校卒業のための出席数だって、足りている。あとはいつこの街を出るか見計らっていた。これから周囲は事件のせいで騒がしくなるだろうし、今ならあの人も家に帰ってくるとは思ってもいないだろうから、ちょうど良い。そもそもこの病室に連れてきてもらったのだって、この街との最後の決別をつけるためだった。
「……どうやら、君の決意は固いみたいだ」
「はい。母共々、先生にはお世話になりました。今日もここまで付いてきてくださって、ありがとうございます」
「いや、当然のことだよ。でも、君に会えなくなるのは寂しいね。正直、心身のことを考えると、もう少し病院にいてほしいのが本音だけど」
「心配かけてすみません。その気持ちは嬉しいです。この街に戻ることはもう一生ないでしょうけど、先生のことは忘れません」
この街では辛い思い出が多すぎた。もちろん、全てが全てそうなわけではない。アゲハさんや先生に会えたことは、私の一生の財産だ。でも、自分の「野望」に対する決意をより強固なものにするためにも、この街に戻るつもりはなかった。
「絶対に無理はしないでね。病院にもちゃんと行くこと。それと、いざとなったら、辛いことからは逃げてもいいんだよ。君は真面目で、頑張り屋さんだから、これだけは言っておく」
先生は私の手を握って、念を押すように言った。声音は縋るようでもあった。それでも、引き留めようとする言葉はもうなかった。私は先生に向かって、強く頷いた。
「はい。本当に、ありがとうございました」
私はこの牢獄のような部屋から、足を踏み出した。背後からは先生と、もう一つ、幻のような視線を感じた。暖かくも、泣きそうな二つの気配。けれど、振り返りはしない。私はそう決めたのだ。
病室を出ると、ケホリとまた咳が出た。その音は朝日が差し込み始めた廊下によく響いた。急がなくては。夜が明けてしまう。私はその長い廊下を駆け出した。
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