5、カウンセラーのメモ

前編

日付…九月一日(木) 担当…服部

患者…桐野さん 年齢…十四歳

カウンセリング内容…

 一回目のカウンセリング。九月一日といえば、新学期が始まる日だ。だから、悩み事を抱えて相談に来る生徒は多い。特に中学生というのは多感な時期だから、人間関係の悩みを抱える子は多かった。なんでも、十代の自殺率が最も高いのも今日らしい。


 しかしそんな中、桐野さんは珍しいケースだった。というのも、彼女は医師からカウンセリングが必要だと診断されたのだ。その理由は全身に見られる打撲痕。それから、十四歳にしては華奢すぎる体。どうやら、虐待の疑いがあるらしかった。


 児童相談所には既に話が行っているらしいが、現段階ではまだ疑惑に過ぎず、対応はやはり慎重にならざるを得ないらしい。ということで、まずは彼女から話を聞くよう、今回のカウンセリングは計画された。


 彼女とのファーストコンタクトは上手くいったのかどうか、正直私にはよくわからない。なぜならば、彼女は終始明るい笑顔だったからだ。受け答えもはっきりとしていて、聡明な印象を受けた。こんなことを書いていいのかはわからないが、それはいっそ、不自然なくらいに元気そうに見えた。


 この挙動に心当たりがないわけではない。虐待を受けた子達の中には、周りに不快な思いをさせないよう、ピエロのような振る舞いをする子がいる。それはつまり、わざと明るく、おかしく振る舞おうとするということだ。初めは彼女の笑顔の不自然さの正体はそれだろうと思った。


 しかし、彼女と話をしているうちに、どうやらそういうわけでもないらしいことに気が付いた。彼女は私がそれとなく向けた、虐待の疑惑について、こう答えたのだ。


「ああ、あの人は外で生きることが楽しいみたいですね。私と家にいるよりは。けど、それをどうと思ったことはないです。たまに不機嫌なこともありますけど、でもそんなの誰にだってあることじゃないですか。それに、あの人は不幸ぶってるけど、私は別の人間です。あの人に振り回される筋合いはないので、自分なりに楽しく生きる工夫をしてます。皆さんはあの人を悪者に仕立て上げたいみたいですけど、あんまり意味のあることには思えませんよ? 先生もそう思いませんか?」


 彼女はそう言って、ニヤリと笑った。彼女はこのカウンセリングの意味も、大人たちの考えも全てお見通しのようだった。十四歳にしては達観し過ぎているようだが、それが彼女の生きてきた中で培われた考えのようだった。


 彼女は自身が虐待されているなどと微塵も思っていなかった。いや、正確にはそうかもしれないとは思っているかもしれないが、決して自身のことを悲観しているわけではないのだ。私は正直、呆気にとられた。


 この子は強い。環境の中でそうならざるを得なかったのかもしれないが、心が強い。そして、賢い。


 私の見解としては、彼女はまだ私に心を開いてくれている気はしない。しかし、心を病んでいるだとか、今すぐに自殺しそうだというような兆候はないように見える。とはいえ、まだ油断はできない。今後も彼女の経過は注意して、観察していく必要がある。



日付…十一月二十四日(金) 担当…服部

患者…桐野さん 年齢…十六歳

カウンセリング内容…

 十回目のカウンセリング。彼女に関わって、二年ちょっとが経った。高校生になった彼女の快活さは変わらない。相変わらず、他人を思いやることのできる心優しい少女だ。やはり精神的に弱っているということもなさそうに見える。


 しかしながら、状況は何も変わっていない。彼女は虐待されていないと言い張っており、児童相談所も彼女の話を鵜呑みにして、あんまり介入していないようだ。我々に仕事を投げて、解決もせず、そのままとは随分なお役所仕事だが、彼らも一つのことにこだわり続けることができるほどの余裕がないのだろう。


 それはさておき、最近彼女はずっとバイトをしているらしい。三回目の時からそれだけはわかっていたが、彼女はその内容をはぐらかし続けていた。しかし、今までの話の端々を統合し、推測した結果、どうやら、その仕事がちょっといかがわしいものなのではないかということがわかった。まだ確信には至っていないが、注視していかねばならないのは確かだ。彼女の家庭事情を鑑みると、そういう仕事に手を伸ばさざるを得ないという部分もあるが、流石に見過ごしていい事ではないだろう。下手をしたら、犯罪に巻き込まれることもあるし、これは早急に話し合わなくてはならない。


 それから、今回初めて聞いたことだが、どうやら彼女は男と一緒に住んでいるのだとか。彼は彼女の境遇を知っており、たまに母親の不機嫌から庇ってくれたり、食事に招いてくれたりしているらしい。それだけを聞くと、彼は彼女に同情的になって、助けているのかもしれないが、如何せん男である。弱みに付け込むような下心がないとも限らない。詳しい状況はわからない。彼の家に彼女が厄介になっているのか、彼が彼女の家居ついているのか。聞きたいことは山ほどあったが、彼女はようやくこの二年で心を少しずつ開いてきてくれたばかり。慎重に言葉を選んだ結果、わかるのは彼が一応は親切にしてくれているらしいということだけだった。これからも、彼女には注意深く接していく必要がある。



日付…四月二日(月) 担当…服部

患者…桐野さん 年齢…十六歳

カウンセリング内容…

 十一回目のカウンセリング。衝撃を受けた。変わり果てた彼女の姿に。あれだけ溌剌に笑っていた彼女が、まるで別人のように絶望した様子で目の前に座った。


 前回のカウンセリングから大分時間が空いた。前回の予定日に彼女は来なかったから。しかし、今回の彼女の様子を見るに、何か余程ショッキングな出来事があったのだろう。


 話をゆっくり聞いた。最初は怯えた様子だった。私のことを恐れるように……いや、男性を恐れているようにも見えて、私は女性カウンセラーに交代しようかと提案した。けれど、彼女は静かに首を振った。そして、ポツリと呟いた。


「もう誰も信用できないの」


 その瞳は昏く、淀んでいた。でも、その中でもはっきりとした声で告げた。


「でも、これ以上黙っているのも苦しい。先生、聞いて」


 せめて、知っている人が良いの、と彼女は言った。今まで強気だった、彼女の初めて聞く弱音とも取れる、懇願だった。私は腰を落ち着けて、辛抱強く彼女の話を聞いた。


 彼女が語り出すまでは随分と時間がかかった。思い出すだけでも恐怖するのか、時々身を震わせた。口を開いたり、閉じたり。しばらくはそんな時間が続いた。けれど、最後には一気に言い切った。


「先生、私ね、妊娠したの」


 衝撃的だった。彼女はまだ十六歳だ。今年高校二年生になろうかという年齢なのだ。そんな彼女が、妊娠している。私は驚きを隠せなかったが、一番動揺しているのは彼女だろう。努めて冷静に振る舞った。


「父親はね、私を匿ってくれてた人。ボランティアで行っていた保育園で働いていた先生」


 絞り出すように告げられた父親の正体は、同居していたという男だった。彼は彼女のバイトのことを知って激怒したのだという。彼女のバイト先は言ってしまえば、「風俗店」だったそうだ。恋人に近い関係にあった男はそれを知り、怒りに身を任せて、仕事帰りの彼女を襲った。もちろん、抵抗はしたそうだが、最終的には男の火事場の馬鹿力に勝てず。悲鳴すらあげることも叶わずに、彼女はそのまま身体を暴かれたのだ。


「でも、悪夢はそれで終わらなかったの」


 更に悲劇は続いた。暴力が過ぎ去り、なお茫然自失としたまま、涙を流す彼女を目にした男は、ようやく我に返った。やがて、自分のしたことに気がつくと、彼は狂った。しまいには、彼女に向けようとしていたナイフで自分の腹を刺し貫いて自殺した。震えて動けないでいる、彼女の目の前で。


 なんということだろう。聞いていただけの私でさえ、辛くなるような出来事だった。


「私ね、何にも出来なかった。あの男の前で私は無力だった」


 彼女は全てを話し終えて、力なく笑った。その姿はあまりにも哀れで、今彼女ここにいること自体、奇跡のように思えた。並大抵の精神力じゃここには来られない。ましてや、あった出来事を全て話すなど、普通は出来っこない。彼女は強く、その分その出来事は彼女を苦しめていた。


「ねぇ、先生。これからどうしよう」


 彼女は疲れ切ったように呟いた。私には返す言葉が見つからなかった。ありきたりな言葉では彼女を慰めることなどできないとわかっていた。だからと言って、現実的な言葉など、彼女に刃を向けるようなものだ。


 私がどう言葉を返すか、決めあぐねていると、彼女はため息をついた。私はそれを聞いて、己の無力さを呪う。カウンセラーとは名ばかりで、私は未熟だった。


「先生、こういう時、あなたはどうしたい? ってカウンセラーの先生なら聞くんでしょう?」


 普通ならそうだ。カウンセラーの仕事は、患者の問いかけに答えを出すことではない。自分で答えが出せるようになるまで、話を聞いて、心に寄り添うことだ。けれど、今の彼女にすぐ自分で答えを出せというのはあまりにも酷だった。だって、彼女はまだ若すぎるし、その凄惨な出来事を背負うにはあまりに華奢すぎる。


 だが、彼女はやはり私の想像の上を行った。


「私ね、一つもう決めていることがあるの」


 その瞳には僅かながら、光が宿っていた。小さく、今にも壊れてしまいそうな、けれども確かな光が。私はハッとした。彼女はまだ、前を見ているのだと、前を見ようとしているのだと、気がついたのだ。


「私、この子を。赤ちゃんを産む」


 それは宣言だった。


「もう、私は自分のためには生きられない。正直、そんな気力は二度と湧かない。でもね、この子のためになら、なんだか生きられるような気がしたの。この三ヶ月、考えれば、考えるほどにね。だって、この子はなんの穢れも、罪も背負ってないんだもの。私に、この子の命を、始まってもいない人生を、終わらせる権利なんてない。だから、産むの。そして、どんな手を使ってでも、この子を幸せにする。もし、私の存在が彼女の障壁となるのなら、死ぬことさえ厭わない」


 正直、現実的な話ではなかった。何しろ、彼女の家庭環境は複雑だ。彼女が生きていくだけでも精一杯の環境。そんな中で子育てなど、難しいに決まっている。それに、栄養失調気味の彼女が子供を産むのはそれだけでもリスクが高すぎる。普通に考えれば、反対しなければならない。


「先生、このことは誰にも秘密よ。でなきゃ、先生を殺すから」


 しかし、私を鋭く睨みつける彼女の意志の強さに、私は抗えなかった。ただ、こくりと頷いてしまった。


 ああ、誰にだって言うもんか。私はこの時点で、彼女の共犯者になってしまったのだから。



日付…一月五日(水) 担当…服部

患者…桐野さん 年齢…十九歳

カウンセリング内容…

 十二回目のカウンセリング。


 ああ、神様。あなたはとんでもなく、彼女に意地悪だ。子供を抱いて、幸せそうに笑った彼女を私はまだ忘れていないのに!


 もうここに来て欲しくなどなかった。いい加減に幸せになって欲しかった。


 なのに……ああ。君に死んでもらっちゃ困る。あの子のためにならない。だからお願いだ。もう少し、もう少しだけ。あの子が君にもう一度会うまでは生きていてくれ。


 それが私の願いだ。自己満足だ。だから、どうか、死なないでくれ。

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