後編

 死にたいと、そう思ったことは一度や二度ではない。最早数え切れないほど、私はそんな昏い願望を抱いてきた。もうここには居たくなくて、生きるのには疲れてしまって。私は何度も死のうとした。高いところに登ってみたり、包丁を手首に押し付けたりするのは日常茶飯事だ。「死にたい」は口癖だ。それくらい、私は死というものを意識しながら生きてきた。けれど。


「臆病だな、私は」


 屋上のフェンスの先の最後の一歩だけがどうしても踏み出せなかった。手首にあてた刃の数センチだけが押し込めなかった。もう生きることを諦めてしまいたくてたまらなかったのに、死ぬことへの恐怖が何度も私をこの場所へ押しとどめた。今もまた、そうだ。


 片田舎の小さな繁華街、ビルの上。空には一番星が瞬き、藍色が空を染め上げ、茜色を塗り替えていく時間帯。眼下の通りではネオンが輝きを放ち、煌々と街を彩る。仕事終わりの機嫌のいいサラリーマンが闊歩し、その間を夜の蝶たちはひらひらと舞う。そこには建前と欲望が当たり前のように飛び交っていた。


 私はそれらを冷たい眼差しで見下ろして、フゥと白い息を吐き出した。最早見慣れてしまったこの光景。ここから飛び降りて、全てを赤に塗り潰してしまうことができたなら、どれほど気分がいいだろう。恐怖に歪んだ彼らの顔が眼に浮かぶようだ。きっと、一生私のことを忘れないでいてくれるに違いない。もちろん、そんな彼らをその時既に死んでしまった私が嘲笑うことはできないだろうけれど。


 私は馬鹿げた妄想に浸りながら、コホコホと咳き込んだ。最近、中々乾いた咳が止まらない。いや、昔からそうだった。疲れが溜まるとすぐに咳が出る。そして、苦しいほどの咳が一ヶ月ほど続くのだ。たまに声が出なくなることすらある。でも、いつも最終的にはいつもどうにかなるから放っておく。病院に行けば何か病名がつくのかもしれないけれど、そんな余裕はないのだ。ただ、困ったことにこれは夜になると余計に酷くなるので、あの人の眠りを妨げてしまう羽目になる。そうすれば追い出されかねないから、それだけがいつも心配だ。


「あと少し。お願いだから止まって」


 私は祈るような気持ちで胸元を抑えた。私の野望が叶うまで、あと少し。それまで持ってくれたら良かった。なにせ、この野望が私を生きるという絶望から救ってくれたのだ。


 確かに漠然とした死にたいという思いは今も残っている。けど、野望を持ってからは、具体的に死のうと考えることは無くなった。ただ、死ぬのはいつだって出来ると、今死ぬ積極的な理由もないと、そう思えるようになったのだ。もし、明日死ぬなら死んだっていい。けど、自分からはそうしない。野望は私に後ろ向きながらも、かろうじてここに縋り付く力を与えてくれていた。


「怜ちゃーん! もうすぐお客さん来ちゃうよ」


 私のことを呼ぶ声が背後から聞こえた。私は軋む胸から咳を出し切ると、今行くと返事をする。これからバイトの時間だ。この調子だと咳が邪魔になってしまうだろうが、働かないわけにはいかない。お金は必要だ。


 私はせり上がってくる血の味を飲み込むと、赤い派手なドレスの裾を翻して、店の中へと舞い戻った。





「麗香ちゃん、今日も綺麗だねぇ」


 彼は偽りの名で私のことを呼んで、ニヤニヤと嗤った。長い前髪の隙間からは欲望に滾った目が覗き、私の全身を舐め回すようにして眺める。私はそれにゾッとしながらも、笑顔という仮面を貼り付けて応対した。


「ありがとうございます。佐々木様」


 彼は最近足繁くこの店に通ってくれる大切なお客さんだ。大切なお客さん、そうわかっているのに私は内心で彼のことが恐ろしくてたまらなかった。酒のにおいが染み付いた呼気が私の首筋に吹き付けられるたびに、その場から逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。カサついた大きな手が二の腕に触れる度に鳥肌がたってしまう。お金を貰っている以上、サービスに差をつけてはいけない。そうわかっているのに、内心で私はどうしても彼を拒絶してしまっていた。こんな目を向けられるのも、酒のにおいも日常茶飯事だ。なのに、彼だけがどうにも受け入れがたく、苦手なのだ。なんというか、彼は他の人間と違っていた。


「本当に細い手足だ。触れただけでもポッキリ折れてしまいそうだよ」


 そう言って、彼は再び怪しげにニヒヒと嗤う。口元だけを動かした歪な笑い方。そこに私は底の見えぬ狂気を感じた。なんならたとえ、今ここで突然包丁を持ち出して、彼が私をバラバラにしだしたとしても私はきっと驚かないだろう。そんな風に思わせられるほどの危うさが彼にはあった。


「ねぇ、麗香ちゃん。僕のものにならないかい?」


 彼は瞳孔の開ききった目で私の顔を覗き込んだ。私は思わず上げそうになった悲鳴を必死にこらえて、咄嗟に首を横に振った。それから、辛うじて作り上げた笑顔でいつもの断り文句を並べた。


「ごめんなさい。私は誰のものにもならないって決めてるから」

「えぇー? 僕のものになれば、きっと幸せなのに」


 彼は心底不思議そうに首を傾げた。一体彼の指す「幸せ」がなんなのかわからない私にしてみれば、なぜ頷くと思ったのかの方が不思議だが、彼の思考は相変わらず読めない。


「でもまぁ、君が頷かないなら仕方がないよねぇ」


 彼は子供っぽい仕草で拗ねたように、口をすぼめた。ギラギラとした眼差しとはアンバランスなのがまた不気味ではあるが、私は苦笑いでその言葉をやり過ごす。後少しで私のシフトは終わる。それが私にとっての救いだった。


「佐々木さん、今日はありがとうねぇ」


 私が彼との時間を耐え忍んでいると、ようやく声がかかった。婀娜っぽい声でお礼を言うのはこの店の主人たる、アゲハさんだ。豊満な身体をラインのはっきりした黒いドレス魅せる彼女は、誰もが見惚れてしまうほどの妖艶な笑顔を浮かべて、私をさりげなく佐々木さんから引き離す。それはお客さんを不快にさせない見事な手腕だった。流石、都会の店でナンバーワンを取っていただけのことはある。


 私はアゲハさんに助けられて、佐々木さんに「今日はありがとうございました。また来てくださいね」と挨拶すると、バックへと逃げ帰った。佐々木さんのねっとりとした視線は扉を閉めるまで私を追いかけてきていた。


「はぁ、今日も終わった」


 更衣室に入ると、そんな思わずそんな呟きが口をついて出てきた。それから、コホコホと再び咳き込む。仕事中は幸いなことに、集中していたせいか苦しくなるほどは出てこなかった。しかし、こうして油断すると、やっぱり酷く咳が出る。そんな私を心配したのか、まだ店が忙しいはずのアゲハさんも更衣室に入ってきた。


「今日もお疲れ様。大丈夫? 最近やけに苦しそうに咳をするわね」

「大丈夫です。慣れてますから。心配をおかけして申し訳ありません」

「謝らなくていいのよ。ただ、無理しちゃダメよ。もう四十近い私とは違って、あなたはまだ若いんだから」


 アゲハさんは四十近いと自分をさもおばさんだというようにそう言うが、全くそうは見えないほど若々しく、綺麗だ。噂によると、都会の店を去る時もまだまだいてほしいと引き留められ、今でも片田舎まで当時のファンが追ってくるくらいだ。しかし、その美貌を彼女は顰めて、私を叱った。


「あなたの家庭事情が複雑なのはわかるけれど、人生、まだ長いんだから。今何かあったら余計に苦労するわよ。お金と休みなら出してあげるから、ちゃんと一度病院行きなさい」

「でも、アゲハさんにはお世話になってばかりで、これ以上迷惑はかけられません」


 そう。アゲハさんは私に野望を抱くきっかけを与えてくれた人だ。自分のようになって欲しくないと、私の野望に共感し、協力してくれた人なのだ。野望を叶えるには金がいる。だから、高校生には通常考えられないほどの給料を稼げるようにしてくれたアゲハさんは私にとっての恩人だ。未成年を雇うというリスクを背負ってまで、協力してくれている以上、これ以上の迷惑はかけられない。


「もう! おバカさんね。本当にバカ真面目だわ。まぁ、私はあなたのそんなところが気に入っているんだけれど」

「すみません」

「謝らなくていいのよ。じゃあ、こうしましょう。ほら、鏡見て」


 アゲハさんはそう言うと、私の肩をグイッと引いた。私はアゲハさんに言われるがままに鏡に向き合わされる。そこにはアゲハさんから学んだ化粧を施した、別人のような顔をした自分の顔が写っていた。


「ほら、これがあなたの顔よ。どう?」

「どうって……」

「ほら、とっても綺麗でしょ。あの人に似て、妬ましいほどに美人」

「似てる? 私が?」

「ええ。化粧した顔が特に瓜二つよ。双子を疑うくらい」

「でも私は」

「あの人のようにはならない。そうでしょ?」


 アゲハさんは私の言葉の先を引き取って、問いかけた。私はそれにこくんと頷く。アゲハさんは私を鏡越しにジッと見つめた。


「なら、野望はしっかり果たしなさい。その前に身体を壊して潰れようものなら、結局同じ道を辿るだけよ。それでもいいの?」

「……それは嫌です」

「でしょ。なら約束して。自分の身体は大切にするって。でなきゃ、私の投資が無駄になっちゃう」

「自分の身体」


 私はぽつりと呟いて、改めて鏡を覗き込んだ。そこには痩せぎすのつまらない顔をした自分がいる。お客さんやアゲハさんはこれを綺麗だと言う。自分ではそれがちっともわからない。見慣れすぎているし、家の中ではお前がいるだけで苛だたしいと罵られて生きてきた。この身なんて無ければいいとさえ思っていた。この身があるから、殴られて痛みを感じる。この世に縛り付けられている。この身は無力で卑小だ。だから、今更大切にしろと言われてもわからなかった。自分の身にそれほど執着できなかった。


「なんだか、納得できなさそうな顔してるわね」


 私がぼんやりと自分の姿を眺めていると、アゲハさんが呆れたように言った。私は図星を突かれて、引きつった笑顔もどきを浮かべることしかできなかった。


「あなた、相当拗らせてるわね。ならいいわ。じゃあ、こうしましょう。最近ね、この街に警察が目を光らせてるの」

「それじゃあ」

「そう。あなたが未成年だってバレると大変なことになるの。と言うか、なんならあなたの噂を聞いて、摘発が始まった可能性だってあるわ。だから、療養という名目で、一旦出勤を控えてほしいの。その場合、こっちの事情もあるから有給もあげるわ」


 その話が本当かはわからない。もし本当だとしたら、私は厄介者だ。けれど、ここまで言うということは、アゲハさんは私をどうしても休ませたいのだ。それに、もしバレたらその時こそ迷惑をかける羽目になるし、そう言われれば、迷惑をかけない一番の行動は休むことだ。


「わかりました。明日、病院行ってきます」

「そうしなさい。さて、私は店に戻るから。いつも通り、裏から出るのよ」

「はい。お疲れ様でした」

「お疲れ。帰り道、気を付けて」


 アゲハさんはそういうと、更衣室を出て行こうとした。私もアゲハさんが背を向けたのをキッカケに、衣装を脱ごうとドレスの裾に手をかける。


「あ、あの佐々木さんってお客だけど」


 しかし、アゲハさんはふと思い出したよう足を止めた。私は突然佐々木さんの名前を出されて、びくりと肩を震わせた。どうやら苦手意識が根付いてしまったみたいだ。アゲハさんは私のそれを見抜いたように、ニヤリと笑った。


「少しストーカーっぽいところあるから、出禁にしとくわね」

「いいですか? そんなことして?」

「あら、お店にだってお客を選ぶ権利はあるのよ? 私の店には佐々木さん以外のお客も来てくれるしね。それに」


 アゲハさんは苦々しい表情を浮かべた。


「たまにあなたが来ていないと騒ぐのよ。ちょっと厄介で、他のお客にも迷惑かけているし」

「……すみません」

「あら、あなたは悪くないわ。でも、だからそういう男もいるってことで、念のため気を付けて。店を出た後は明るい人通りの多いところを通って帰るのよ」

「はい、ありがとうございます」


 私がお礼を言うと、アゲハさんは綺麗に微笑んで、フロアへと戻っていった。私は誰もいなくなった更衣室で、ガンとロッカーに額を軽く打ち付けた。


「また、だ」


 私はいつもそうだ。いるだけで迷惑をかけてしまう。誰にも必要とされないのなら、せめて迷惑をかけない存在であろうと思うのに、こうして不器用なせいで物事を厄介なことにしてしまう。私がもっと佐々木さんを受け流せていたら、きっとこうはならなかったし、そもそも私がいなければ、アゲハさんが警察を気にする必要はなかった。家でも……あの人も、告白してきたクラスメイトだって、虎だってそうだ。みんな私がいなければもっといい人生を送れていたはずだ。私は本当に存在するだけで迷惑をかけている。


「もう嫌だ」


 いなくなりたい。そんな思いがフツフツと湧き上がってきた。でもどうやったらそれが実現できるのかわからなくて、乱暴にドレスを脱ぎ捨てる。叶うなら、自分を殴りつけてやりたかった。でも、それをすればあの人と同じことをしているだけだというプライドがかろうじてその暴力を抑え込む。私はギリギリと歯を食いしばりながら、帰る準備を進める。ここにいたら申し訳なさでどうにかなってしまいそうだった。コートのボタンを息苦しいくらいに一番上までしっかり止めると、私は足早に店を出た。


 外の空気は肺が悲鳴を上げるほど冷たかった。苛立ちまぎれに強く吸った冷気が傷ついた肺を刺激して、ひどい咳が出る。暗い路地裏。街灯が一つだけ強く光って、照らす中。私は自らの咳の勢いに耐えられずに蹲ってしまった。


 と、その時だった。不意に頭上を影が覆い、周囲が真っ暗になった。私は異変に気がついて、そっと顔を上げた。


「やあ」


 そこにはぽっかりと空いた穴がふたつ並んでいた。その下には歪んだ歪な三日月が一つ。それが「男の笑顔」だと気づくのには数秒の時間を要した。その数秒、私はその虚ろな眼と互いに見つめあっていた。


「やあ、迎えにきたよ。麗香ちゃん。一緒に帰ろう」


 何を言われているのかもわからなかった。ただ、強い恐怖と嫌悪が全身を支配していた。逃げなくては。強くそう思った。


「いっ、いやぁ」


 口からこぼれた悲鳴は自分のものとは思えないほどに、弱々しかった。逃げなくては、と理性が警鐘を鳴らすのに、身体は言うことを聞かない。腰が抜けて立ち上がれなかった。


「ん? 今、君『嫌』っていったかなぁ。そんなはずはないよねぇ、麗香ちゃん。だって、君は僕のものだもの。そんなこと言うはずないもんね」


 彼はケタケタと嗤った。そして、私へと手を伸ばしてくる。

 嫌だ。捕まりたくない。怖い、気持ち悪い。固まった私を動かしたのはそんな感情だった。


「嫌だ、嫌だ嫌だ!」


 私は思いっきり彼の手を払った。震えて使い物にならない足でどうにかもがいて、背後の店に通じるドアに縋り付く。ドアノブをひねる。ただそれだけなのに、手が冷や汗で滑って、うまくいかない。そうして足掻く数秒の間にも奴は近づいてきていた。


「あ? 今、嫌って言った? 麗香、聞き間違いじゃないよな?」

「嫌だ! 来ないで!」


 嫌だと言えば、相手を余計に怒らせる。それは分かっていたけれど、恐怖で本能ばかりが先走って、どうにもならなかった。


「よし。なら、僕にも考えがあるんだ」


 しかし、嫌だという言葉も遂には途絶えた。男が取り出したそれに言葉を失った。男の背後から街灯の光を受けて、鈍い輝きを放つそれ。いとも簡単に肉を引き裂くことが想像できる刃物は、今私へと向けられていた。


 殺されるのだ。私は不意にそれを悟った。


「じゃあ、一緒に死のう」


 男は嗤った。ぽっかりと穴の空いた瞳で。歪な形を描く唇で。全てがゆっくりと動く中で、刃の輝きが私に向かって振り下ろされる。


 ああ、これが待ち望んでいた死だ。死が私にやってくる。


 私はずっと消えたかった。生きるのが苦しかった。明日死んだって後悔しないって、そう思っていた。


 なのに、なのに。


 どうしてだろう。眼の前に迫り来るそれが恐ろしい。望んでいたはずのものが、姿を変えたように全く違う。死は救済じゃない。ただひたすらに恐ろしいものだった。


 死にたくない。


 死の恐怖に慄く中、ふとそう思った。そして、そのことに自分自身で驚く。もしかしたら今までもずっと、そうだったのだろうか。屋上のフェンスの先の一歩が踏み出せなかった時も、手首にあと数センチ刃を押し込むことができなかった時も。私はまだ生きるということに希望を捨てきれていなかったのだろうか。私は生きたかったのだろうか。だとしたら、私は何のために嘆いていたのだろう。


 でも、たとえ私の希死念慮が偽りだったのだとしても、もう終わりだ。それに気づいたところでもうどうにもならない。


 走馬灯が駆け巡る中、私は目を閉じた。そして、自嘲した。


 滑稽だな。今更、死にたくないなんて。


 それから襲いくる熱い痛み。それを最後に私は自分の肉体を手放した。

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