4、保育士の日記

前編

五月二十六日(金)


 ああ、ようやく俺にとっての一週間が終わった。金曜日、こうして家に帰ってくる瞬間のことをどれだけ待ちわびていたか。この頃、早く週末にならないかとそればかり考えている。もはやそれだけが俺にとって生きがいになっていた。


 今日も、生きている。家にたどり着いて、ビールの缶をプシュリと開けた瞬間、それをようやく実感した。本当に今週も散々な一週間だった。


 四月。ずっと憧れていた職業に就いて、俺の悲願は叶ったはずだった。子供が好きで、世話を焼くことが好き、ピアノを弾くことだって得意。そんな俺にとって、保育士というこの仕事は天職だとずっと信じてきた。だから保育士になる為に精一杯勉強したし、何をしたら子供たちは喜んでくれるかってずっと考えてきた。なのに、なのに。今のこの有様はなんなのだろう。毎日が苦痛で仕方がない。


 子供たちはやっぱり可愛かった。もちろん、想像していたよりも仕事はずっと大変で、イヤイヤ期なんかで手のかかる子もいた。しかし、そんなことは保育士なると決意した時から承知していた。だから、大変だけど、そのことは大して苦にはしていない。けれど、問題が別のところで起こるなんて思いもしなかった。


 俺にとって、問題なのは同僚たちだ。これが見事に「女」しかいない。いや、女性が多いこと自体が嫌なのではない。これも大学で学んでいる時から知っていた。けど、彼女たちは俺が思っていた以上に「女」だったのだ。つまり、何が言いたいかっていうと、俺のことを職場の人間としてみているだけじゃなかったってこと。彼女たちは俺を「男」として、すなわち「色恋」の対象としてみているのだ。


 もちろん、俺にそんな感情を全く抱いていない先生だっている。けど、数人が俺のことをそういう目で見てくるのだ。俺にはそれが耐えられなかった。


 俺だって、一人の男だ。当然のことながら、モテて悪い気はしない。例え、それが男の少ない職場だからという理由だとしてもだ。ただ、彼女たちのアプローチは度を越している。子供たちにはどうせわかりやしないと大胆に近づいてきたり、子供たちに喧嘩するなと言った口で陰口を叩き合い、足の引っ張り合いをする。それで、この間なんかは一人、仕事を辞めてしまった。ただでさえ、人手不足で喘いでいる中で、大事な人材をそんな私的な理由で失ったのだ。


 俺はこのことに正直、ゾッとした。本当に何をやっているのだろうと思う。まだ、保育園と関係のないところでそういうことをやってくれるなら構わない。けど、子供たちに笑顔を向ける裏でそんなことをやっているのだと知ってしまえば、俺は無理だった。こんなの、普通じゃない。異常だ。


 保育士として、働き始めてまだ二ヶ月。たった二ヶ月なのに、こんなことが起きている。だが、まだやめるわけにはいかない。例え、今それを切り出しても優しい園長先生には絶対に引き止められるし、せっかく仲良くなった子供たちとも離れたくない。まだ実際に働いて学ぶことだって、たくさんある。それに、二ヶ月で辞めたとなれば親だって心配するし、俺の貯蓄だって心もとない。だから、初めのうちは慣れていくしかない。今が耐えるときだ。


 大丈夫。まだ大丈夫だ。なりたかった職業だったんだ。ようやく掴んだ夢なんだ。俺はまだ頑張れる。



九月三日(日)


 明日から、また本格的に保育園が始まる。そう考えると、体が重くて仕方がない。ずっとずっと、今日まで明日のことを考えて過ごしてきたと言っても過言ではない。何をしていてもこれから始まる二学期のことが頭の隅にこびりついていて、心が休まる時は一時もなかった。


 夏休みの間はまだ楽だった。この仕事だって、夏休みが完全な休みになるわけじゃない。夏休みでも子供を預かってほしい親はたくさんいる。子供たちが休みだとしても、親は仕事が休みになるわけじゃないからだ。子供の時は先生の夏休みは暇だろうななどと考えていたが、現実は違った。


 それに、夏の間はプール日だってある。その日は安全のことを考えて、普通の日よりも気を張っていなくてはならないから、なかなかに忙しい。これも少しは意識していたつもりだったが、想定以上の忙しさだった。


 だが、それでもだ。夏休みはよかった。夏休みに入る前よりは子供たちが少なくなっていたし、休暇を取る先生もいて、いつもよりは過ごしやすかったのが救いだった。だが、それも今日までで終わってしまう。明日からはまたあの地獄の中へ飛び込んでいかなきゃならない。


 今日、夜ご飯の味がしなかった。それどころか、以前食べていた量の半分を食べたところで吐き気がして、食べるのを止めてしまった。それほど自分はあの場所に行きたくないのだと、実感してしまった。


 ああ、明日など永遠に来なければいい。今日という夜が明けなければいい。俺は叶いもしない願いを口にしながら、これを書いている。



十月十五日(日)


 運動会がようやく終わった。その事実だけで俺は魂が抜けそうなくらい、ほっとしている。だけど、終わるまでには本当にいろんなことがあった。その愚痴を吐き出したい。


 モンスターペアレント。その言葉を俺はずっと他人事のように思っていた。でも、それが実在するのだと、ここ数週間で嫌という程に実感した。


 はじめは、ただの少し口うるさい人だった。あれは絶対にさせるな、目を離してくれるな、いつもうちではしているあれをしてくれと、本当に色々な注文をしてくれたが、それでも俺はそれだけでは嫌にはならなかった。だって、誰しも自分の子供は心配だし、可愛い。多少過保護なだけな母親なのだ、とそう思っていた。でも、たった一つ。とても些細なことであの人はモンスターペアレントと呼ぶに相応しい態度に出た。


 俺は彼女の息子に対して少し叱っただけだ。やんちゃをして、年下の女の子を泣かせてしまったから。何も、理不尽な怒り方はしていない。叩いたりはもちろんしていないし、声を荒らげることもしなかった。彼の目を見て、謝るべきだと諭しただけなのだ。


 なのに、あの女は最悪だ。それを自らの息子から聞きつけると、きゃんきゃんと俺を責め立てた。息子は悪いことをしていない。小さい子供がやんちゃをするのは当然のことなのだから、女の子が泣いたのはお前たちが止められなかったせいだ。なのに、偉そうに説教を垂れるだなんて何事だ、という風に。


 始めは俺だって大人しく頭を下げていた。こういう時は謝っていた方が、事は穏便にすむのだと学生の頃のバイトで学んでいたから。いくら理不尽なことだろうと、頭を下げて済むならそれに越した事はないのだ。でも、あの女はそんな俺の態度につけ上がった。むしろ、攻勢の手を強めたのだ。連日、こちらが忙しかろうと帰り際だろうと関係なく、保育園に電話をかけてくるようになった。そして、また怒鳴るのだ。お前のような人間が、保育士を務めているだなんて考えられないなどと。


 毎日のように繰り返される人格否定。最初の方は怒りもあった。けれど、人を憎む事は思いの外エネルギーを消費する。気がついたら、なんだか疲れていた。感じるのは無力感だけ。


 毎日疲れてベッドに入るのに、眠れない。頭の中で反響するのはあの女の声。気がついたら、朝になっている。体は重いけれど、俺はあの場所に向かわねばならないのだ。


 死にたい、最近それが簡単に口からつぶやきとして溢れる。本当にふとした瞬間にそんな衝動に駆られるのだ。死にたいと言える人間はまだ死なない。そう聞いたことがあるが、本当にそうなのだろうか。俺はこんなにも死んでしまいたいのに、死なないのだろうか。


 もう、朝か夜かもわからない。毎日が過ぎていく、それだけだ。


 ああ、誰か。


 その誰かに、俺は何を言いたいんだろう。もう、何もかもがわからない。



十月三十一日(火)


 今日、「大丈夫ですか」と声をかけられた。俺はよっぽどひどい顔をしていたのだろうか。秋の遠足にお芋掘り、ハロウィン。そんな目が回るような日々を機械のように捌ききった今日。大体の子供達を親元へと返した夕方。そこに、母親にしてはとても若い声が投げかけられたのだった。


 彼女は制服に身を包んでいた。近くにある高校のものだろうか。儚いほど華奢な体躯に、艶やかな髪。自分より年下のはずなのに、とても綺麗で大人びた人だった。俺は動きの鈍い頭をなんとか働かせて、彼女が時々やってくるボランティアの子だと思い出した。


 何が、ですか。俺ははじめ、意味がわからなくて、そう聞き返した。反射的に作られた笑顔を向けて、いつも通りに振舞っていた。


 しかし、彼女はそんな俺に悲しそうな顔をした。そして、俺の頬へとそっと手を伸ばしてきた。俺が驚きで固まっていると、彼女は呟くような小さな声で言った。


 先生、とても窶れてる。それに……。


 彼女はそこで一度、躊躇うように言葉を止めた。そして、その言葉の先を、彼女の代わりに未だ残っていた園児の一人が、俺を指差して無邪気に言った。


 先生、泣いてるー!


 俺はそこで初めて、俺は自分がいつの間にか泣いていたことに気がついた。そして、それを自覚した瞬間、涙がもっと溢れて止まらなくなった。俺は自分がどうして泣いているのかわからなくて、戸惑った。必死に涙を止めようとするのに、自分の意思とは無関係にただ涙が溢れる。わけがわからなかった。


 彼女はそんな俺を憐憫の目で見つめた。そして、俺を指差した園児にもう少しお友達と遊んでいるように言うと、俺を気遣ってか、二人きりの状況にしてくれる。彼女はそうして、俺に一歩近づいてきた。俺は、一反射的に歩下がろうとして……。


 気がつけば、彼女に抱きしめられていた。清潔な石鹸の匂いと、どこか色香の感じる仄かな花の香り。それに俺は包み込まれていた。


 だめだ、誰かに見られたら。


 理性はそう警鐘を鳴らしていた。けれど、俺は彼女を突きとばせなかった。そんな力がもう残っていなかった。


 彼女は立っているだけがやっとの俺の耳元で囁いた。


 大丈夫、無理しなくていいの。


 俺はそう囁かれて、ようやく気がついた。自分がずっと、何を言って欲しかったのか、ようやく心から理解した。


 俺は誰かに助けを求めていたんだ。ずっと、ずっと。誰にも相談できなかった、この辛さを吐き出してしまいたかったんだ。だから、俺は嬉しくて泣いている。ようやくわかってもらえて。ようやく、俺の無理を止めてくれて。


 本当はずっと辛かったんです。誰も信じられなくて。でも、ここへ来ることもやめられなくて。


 俺は年下の少女にそう吐露した。今思い返してみれば、情けないことこの上なかったが、涙を見せてしまった後で取り繕うのも今更だったはずだ。だから、俺は無様にも彼女にすがりついていた。彼女に救われていたくて、泣いていた。



十一月十七日(金)


 あれからずっと、彼女のことを考えている。以前は何をしていても、何かをしているという感覚がなかったのに、最近じゃ彼女のことが頭を占めてばかりで、何をするにしても注意していなくてはいけなくなったので、それはそれで大変だった。


 彼女は毎週火曜日にやってくる。このボランティアが学校での部活動らしく、主に共に過ごすのに体力の要する年長さんを担当しているようだった。俺の場合はずっと年少さんだったり、保育クラスを担当していたから、今まで彼女のことはあまりよく知らなかった。時々は見かけたことがあるかもしれない、というくらいだ。


 それが今はどうだろうか。毎週火曜日が楽しみで仕方がなくなっていた。我ながら高校生相手にこんな気持ちを抱くのは間違っているとわかっている。でも、彼女は今、高校一年生。つまり今は十六歳で、未成年とはいえど、もう結婚しても良い年なのだ。自分は正常だ、と思いたい。


 その彼女だが、今は保育園に来るたびに俺とお喋りをしてくれる。あれから、俺が無理をしていないか、わざわざ気遣ってくれるのだ。その性根と言ったら、なんと優しいことか。ますます彼女に心を奪われてしまいそうになる。


 仕事は相変わらず辛い。彼女以外の女たちは怖いし、モンスターペアレントは一時期よりはマシにはなったものの、未だに顔を合わせるたびに嫌味を投げかけてくる。でも、彼女が来る火曜日までは生きていようという気になるのだ。今や、彼女が生きがいだった。


 だが、彼女と話すうち、彼女も彼女で相当深刻な問題を抱えていることがわかった。どうやら、彼女は親からネグレクトを受けているようなのだ。なんでも、このボランティアを始めたのだって、園長先生からお礼として余ったお菓子がもらえるから、らしい。あとはどうやら給食で凌いでいるようなのだ。だから、あんな華奢だったのかと、俺は驚きを禁じ得なかった。


 だが同時に、今度は俺が彼女を助ける番だと思った。だって、こんなに辛い事情を抱えていながら、どうしてそのまま放っておけるだろうか。ましてや、彼女は俺の救世主と言っても過言ではない。だから、引かれることを覚悟した上で、彼女に提案をした。


 俺のうちに来ないかと。


 一つ間違えれば、誘拐犯扱いされる提案だ。それに、俺の薄給で彼女を養えるだけの力もない。けれど、俺は彼女を助けたい一心だった。今、俺の生きている唯一の希望が彼女だ。彼女が餓死、ないしは親に殺されてしまうことがあろうものなら、俺はその時こそこの世にいる意味がなくなってしまう。だから、俺はこの提案をした。


 彼女は俺の突飛な話にキョトンとした顔をした。けれども、即座に拒否することはなかった。それどころか、恐る恐るといった様子で「いいの?」と伺ってきた。


 俺はもちろんと答えた。だから、俺は今上機嫌なのだ。彼女がよく家にやってきてくれるようになったから。もう、首を長くして火曜日を待たなくてもいいのだ。


 ああ、俺は幸せです。神様。俺は彼女さえいれば、どんな地獄に落とされたって構わない。



十二月二十四日(日)


 この一ヶ月間彼女と共に過ごしてきた。彼女との関係は深まり、今や恋人だといっても過言ではないだろう。それくらい、俺はこの一ヶ月で彼女に全力のアプローチをかけたのだ。


 それはそうと、彼女の親は酷いものだった。彼女が俺の家に泊まった日だって、心配の素振りすら見せなかったというのだから。やっぱり、あんな親に彼女を預けたままにしておかなくて正解だった。


 今日はクリスマスイブ。恋人たちにとっては特別な日だ。俺は大学生になったあとは例年、悲しい日として過ごしてきたが、今年こそは楽しみにしていた。クリスマスプレゼントなどもらったことないという彼女に、プレゼントだってしっかりと用意をしていた。本当は子供達とのクリスマスパーティーなんかも忙しかったりしたのだが、この日が楽しみすぎて、そんなのはどうってことなかった。


 だが、しかし残念だ。本当に。彼女は今日、来られないのだという。俺は彼女に昨日そう言われて、本当に絶望した。何か用事でもあるのかと尋ねたが、彼女は曖昧に笑うばかりで何も教えてくれなかった。


 怪しい、と思った。実はよくあるのだ。時々、用事が出来たと言っていなくなってしまうときが。どうやら、彼女にはボランティアと学校以外にもどこか行かなくてはいけない場所があるらしい。


 もしかして、他にも男がいたりするのだろうか。いや、彼女に限ってそれはあり得ないとわかっている。彼女は清らかで、とても優しい。そんなことをする女じゃない。


 だが、最近妙に不安になるのだ。もし、彼女が俺を弄んでいたら、と。なにせ、彼女はとても魅力的だ。こんな俺を選ばなくたって、引く手数多だろう。少なくとも、俺ならあんな子放っておかない。


 一応、絶対にないとは思うが、もしも。もしもだ。彼女が俺以外の男と遊んでいたら? 俺の唯一がすでに誰かのもので、彼女にとっての唯一は俺じゃなかったら? そう考えると俺は想像だけでも、頭がおかしくなりそうになる。


 もし、彼女が俺を裏切るようなことがあったら、俺はきっと悪魔になる。だって、俺にはあの子しかいないのだから。この世にいる意味なんて。だから、彼女が誰かのものになったその時には、彼女をぐちゃぐちゃに引き裂いて、焼き尽くして、灰になってもまだ許せなくなるだろう。それくらい、俺は彼女を愛している。彼女のためだったらなんでもする。彼女が俺の腕の中にいてくれる限りは。


 だからお願いだ。俺を不安にさせないで。裏切らないで。ずっとそばにいて。他の男なんて見ないで。俺が狂わないうちに。君を正しく愛せるうちに。俺の唯一、戻ってきて。


 ああ、君を愛してる。



十二月二十五日(月)


 結局、君も。

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