後編

 冬は晴れた日が多い。少なくとも、私の住んでいる地域はそうだ。空気が乾いた、刺すような冷たさの晴れの日が多い。けれど、私の思い浮かべる冬というのは灰色をしていた。曇っていて、ぼんやりとしていて、生命の息が感じられない世界。それが私にとっての冬のイメージだった。


「全く、いつまでここにいるのかしら。このゴミは」


 硬い床の上で目が覚めた。頭がガンガンする。身体が寒さを思い出して震える。震えとともに襲い来るのは、全身が針で刺されたような痛みだった。


「ああ、目障り。図々しい」


 ヒステリックな声とともに、下腹に蹴りが入る。私は反射的に、身に纏っていた毛布にくるまった。薄汚れていて、毛が死んだそれは私に与えられた唯一の防具だ。しかし、そんな心許ないものではその衝撃を防ぎきることは当然できなかった。私はぐえっ、という無様な声をあげて、その場から逃げるように転がる。中途半端に覚醒していた意識が急激に浮上した。


 失敗した。


 目覚めと共に抱いた感情はそれだった。いつもなら、この人が目覚める前に家を出ていたはずだった。それが今日は寝坊してしまった。昨日は相当激しく殴られたから、疲れが溜まっていたのだろう。仕方のないことだとはいえ、失敗だった。


「お目汚ししてしまって、申し訳ございません」


 私は己の身から毛布を剥ぎ取ると、下着姿でその場に土下座をした。私の服は制服しかない。だから、制服をしわくちゃにしない為にも、寝るときはいつも下着姿だった。冬には毛布しかないので、寒さで眠れない日もある。でも、だからこそ雨風をしのげる場所というのは重要で、いくらここにいるのが苦痛でも欠かせないものだった。だから、私はとうに塵と化したプライドと引き換えに、この人の機嫌をとる。もう遅すぎる気もしなくはなかったが、リスク回避のためには必要なことだった。


「自覚があるなら、さっさと消えて。この愚図」


 本当はもう一発くらい何かしら食らうことを覚悟していた。しかし、彼女はそう言い残すと、二階の自室へと引っ込んでいった。それもご丁寧に、食パンまで投げつけてくれる。昨日、散々私を嬲れて満足したのか、今日はまだ機嫌がいいらしい。私はホッと息をつくと、リビングの床に落ちてしまった食パンを手に取った。ジャムもバターも何も塗られていない食パン。長いこと空気にさらされていたのか、パサパサと硬くて美味しいとはいえない。それでも、貴重な朝ごはんだった。


 私は口の水分を奪われながらも、急いでそれを食べると、制服を手早く着込んだ。足を上げたり、腕を伸ばすと、どこもかしこも鈍い痛みが走った。全身痣だらけで、最早どこが痛いのかさえわからない。首も硬いフローリングの床、しかも不自然な体勢で寝たせいか、寝違えてしまっている。こんな感覚にももう慣れっこだけれど、心に広がる虚しさは消えてくれはしなかった。


 私はふらふらとした足取りで歩き出すと、キッチンへと入った。そこで顔を洗って、水をがぶ飲みする。それから、ゴミ箱の下に隠された床下収納の扉を開けると、最近ようやく買って、そこにこっそりしまっておいたコートを取り出した。それから、今日昼ごはんに必要なお金もほんの少し。あの人は滅多に料理をしない。だから、ここはあの人の目を避けられる、私の少ない所有物の隠し場所だった。


 私は取り出したものを手早くカバンに押し込むと、ゴミ箱を元の場所に戻す。そして、あの人が再び階下に降りてくる前に、家を飛び出した。


 外には本格的な冬が訪れていた。木々は枯葉を落とし、冷たい風が私の頬を打ち付ける。弱々しい白い陽光はただ眩しいだけで、役立たずだった。季節はもうすでに十二月。学校に行ける日も残り少ない。私があの家に居られる日も、また。


 私は家が見えなくなると、コートを取り出して、身に纏った。そうすると、ようやく体の震えが治る。やっぱり寒いことには変わりはないけれど、ようやく生きている心地がした。私は乾いた空気を胸いっぱいに吸い込んで、咳き込んだ。





 家にいる時ほどではないけれど、最近学校の空気もどこか気まずい。二年生の時までは全く意識しなかったけれど、三年生の教室だけは空気の質量が違う。


 今日もガラリとドアを開けてみれば、座っている生徒のほとんどが参考書に向き合っていた。友人と話している子達も話の内容は問題の出し合いだったり、この間の模試の成績だったりする。かの手紙を受け取った秋の初めごろは朝早い時間に来ても、教室にいるのは圧倒的に少数だったのに、受験シーズンが間近に迫り、本格的な冬を迎えた現在は、その数を増やしていた。今日は少しいつもより遅い時間に来たせいか、格別に多い。


「おはよう、怜ちゃん。今日はいつもより少し遅いね」


 私が席に着くと、隣の席の畑山さんが声をかけてきた。彼女は先ほどまで鬼気迫る表情で問題集を睨みつけていたのに、私に気づくと、律儀に挨拶してくれた。私もそれに対して、「おはよう、大変そうね」と返す。彼女は勉強にうんざりとした様子で、伸びをした。


「本当だよー。毎日勉強勉強で嫌になっちゃう。早く受験終わんないかなー」

「皆、ピリピリしてるもんね」

「やっぱ皆緊張してるよね。私も毎日ため息出ちゃうし。はぁーあ、早く大学生になって遊びたいな」


 畑山さんはそう言って、大きなため息をついた。私はそんな彼女の様子に対して、苦笑いを浮かべる。受験勉強を憂鬱に思う気持ちは理解できる。しかし、大学生になって遊びたいと思うところは、彼女の恵まれた環境をうかがわせた。私にはそれが羨ましくて、綺麗な笑顔を浮かべることが出来なかった。彼女はそんな私の曖昧な態度に気づいたのだろうか。私をちらと見ると、不機嫌そうな顔をした。


「あー、怜ちゃん、私を馬鹿にしてるでしょー。自分が勉強できるからって」

「してないよ。それに、私だってまだまだだし」

「そんなこと言ってー。できる人の謙遜は真に受けちゃダメだって知ってるんだから。怜ちゃんなら、難関大学も楽々合格できるんだろうなぁ」


 ここで、高校を卒業したら、私は今の家を一文無しで追い出されると教えたら、彼女はどんな顔をするだろう。私の中で不意に、そんな意地悪な想像が鎌首をもたげた。


 きっと、気まずい顔をするんだろうな。聞いちゃダメなこと聞いちゃったって顔をするんだ。そして、私をどこか腫れ物扱いする。その眼に浮かぶのは憐憫で、戸惑いとわずかな見下しが私たちのただのクラスメイトという関係に更なる壁を作り上げる。きっと、そうだ。


 私は己の醜い嫉妬に染まった表情を見られたくなくて、窓の外に顔を向けた。わかってる。私がどれほど卑屈な人間か。彼女に対して偏見を持っているし、私のことを理解しろだなんてそれこそ私の独りよがりだ。彼女は何も悪くない。それが普通、ただそれだけのこと。


 私は自分の本性とも呼ぶべく歪んだ表情をなんとか押し込めると、再び彼女に視線をやった。彼女はこちらの葛藤など知る由もなく、再び問題集と向き合っている。それが正解だ。今の一分一秒は私ではなく、己の未来に投資するべきだ。他人を羨むことが建設的じゃないことは彼女も、私もわかっている。


 私は机の中でくしゃくしゃになっていた、志望校を書く紙を取り出した。ずっと提出できなくて、空欄だらけのその用紙。提出期限なんてとっくにすぎていた。


「おい、桐野」


 それを眺めていた私の前に大きな影がさした。聞き覚えのある声に顔をあげてみれば、そこには気難しい顔を作った担任教師がいた。彼は私の握りしめていた紙をサッと引き抜くと、そこに文字が並べられていることを期待して、紙の上に視線を走らせた。けれど、すぐに何も書かれていないことを悟って、私へと視線を移す。その視線は私の心のうちを探るようだった。私はそれを挑戦的に見返す。


「桐野、話がある」


 それまでやさぐれた気分だったからだろうか。もっと責められるのだと思っていた。だから、降ってきた言葉に存外、その棘が無かったことに拍子抜けした。彼は何も書いていない用紙を丁寧に畳むと、くるりと背を向けた。


「放課後、進路相談室に来い」


 そして、ひらひらと手を振って、教壇へと向かっていく。それからはいつも通りに出席をとりだした。


「ねぇ、怜ちゃん」


 私は空になった手の中をしばらく見つめていたけれど、畑山さんに声をかけられて、ハッと我に返った。彼女は私に怪訝な表情を向けていた。


「あれ、進路希望書だよね。まだ出してなかったの?」

「ああ、うん。自分のことで手一杯で忘れてたみたい」

「へぇ。だから、先生に呼び出されたんだ。怜ちゃんのことだから、怒られはしないだろうし、心配されてるだけだろうけど。怜ちゃんもうっかりすることあるんだね」


 しっかり者だと思ってたから、意外だなぁと彼女はカラカラと笑った。私はうん、と笑い返したけれど、その視線は先生の方を向いていた。


 意外だった。期限は一ヶ月以上前に来ていて、何も言われていなかったから、とっくに忘れ去られているものだと思っていた。私は目立つ生徒じゃない。よく言えば、手のかからない、率直に言えば、居てもいなくても大して変わらない、地味な生徒だと自負している。


 だが、彼は私の空欄の志望校記入欄を見ても何にも言わなかった。頭ごなしに叱ることもしなければ、その場で書くように催促もしなかった。私にとっては、そのどれもが予想外だった。


 忘れていたわけじゃない? もしかして私が出すのを待っていた? 不意にそんな考えが脳裏をよぎった。これは楽観的だろうか。私は彼に対して期待をしすぎだろうか。


「変なの」


 期待は心の痛みを広げるだけだ。していて良い事など何もない。私はそれを知っているはずだ。現にこの全身傷だらけの我が身がそれを痛みと共に語っている。


 だから、私はそれを気のせいにして、予防線を張った。





 夕暮れの学校は騒々しい。吹奏楽部の楽器の音、運動部の掛け声、帰宅部の笑い声、といたるところから、人の奏でる音が漏れ聞こえる。しかしながら、廊下を歩いてみると、実際にすれ違う人は想像以上に少ない。大抵は外にいるか、特別教室にいるせいか、教室や廊下にはまるで人がいない。茜色に染まる廊下で、喧騒を聴きながら。私は一人ぼっちで立っていた。目の前には「進路相談室」の文字。私は今日、ここに呼び出されていた。


 帰ってしまおうか。


 実はここに来るまで、そんな考えが幾度となく私を惑わせていた。だって、先生と話したところで、何も変わらないのは明白だから。私は私の決めた通りにするし、家を追い出される現実も今更捻じ曲げられることもない。だったら、いつものように図書室で勉強している方がよほどいいように思えたのだ。別に勉強はそれなりにできる方だと自負しているけれど、優等生であることに固執している訳でもないのだ。例え明日、お小言を頂戴したとしても、忘れてましたーと適当に流せば済む話。多少の罪悪感はあるものの、ここへ閉じ込められて、気まずい思いをすることの方がよっぽど私には苦痛なことに思えた。


 しかし、私は現状、ここに立っている。何故かなんて、私が一番不思議に思っている。そんなに私は真面目でありたかったのか、あるいはあの時の「期待」を捨てきれていないのか。


 そこまで考えて、私は自嘲した。期待? 一体何に対しての? 私が今まで散々隠してきた引け目を今更曝け出すなんて、臆病な自分にはどうせできっこない。なのに、私は彼に何を望むというのだ。


 やっぱり、図書室へ行こう。


 私はそれまでじっと見つめていた扉から目をそらした。その時だった。


「あら、どうしたの」


 進路相談室の隣にある職員室の扉が開いて、出てきた先生に声をかけられた。確か、彼女は二年の時の生物の先生だった。彼女はまだ比較的年若く、見目も悪くないとあって、生徒たちにも人気だ。彼女は私に見覚えがあったのだろう。私がずっと進路相談室の前で立ち尽くしていたとみるや、明るい笑顔を見せて、近づいてきた。


「あっ、いえ。なんでもありません」

「んー? ここにいるってことは進路相談室に用があったんじゃないの? 桐野さん、三年生だよね。もしかして、まだ担任の先生来てないの?」


 なんでもないと言ったのに。彼女は一方的に状況を理解したような顔をして、ペラペラと話し出す。そこにこちらの心情は一切加味されていない。正直、今まさに帰ろうとしていた私にとっては、いい迷惑だった。多分、人見知りで進路相談室に入るのを躊躇っているとでも思われたのだろう。彼女は中々私が開けられずにいた扉をいとも簡単にガチャリと開けると、中を覗き込んだ。


「失礼しまーす! 桐野さん、いらっしゃってますよー?」


 扉が開いた途端、部屋の中央に置かれていた机の向こう側の椅子に腰掛けていた担任教師と視線が交錯した。彼は私が他の教師といることに少し驚いた様子を見せながらも、私の姿を見て、ホッと安心したように息をついた。それを見て、この場からの逃走を図っていた私は、バツが悪くなって、視線を無機質な床へと落とす。そんな私を相変わらず空気を読まない生物教師は、グイグイと部屋の中へと押し込んだ。


「ほらほら、中に入って。お話があるんでしょう?」

「えっと、まぁ……」

「そんな緊張することないわよ。色々受験生には悩みがあるでしょう? それを思い切って、話しちゃいなさい。それで怒ったりなんてしないでしょうから。じゃあ、私はこれで」


 生物教師はそう言って、無邪気に笑うと、扉を閉めて、立ち去っていった。彼女はお節介というか、賑やかというか、苦手なタイプの人間だった。別に機械のように授業を受けていた時は気にならなかったけれど、こうして関わると、正直面倒だった。でも、同時にやはり彼女は人に好かれやすいタイプなのだろうとも思った。捻くれた私じゃなきゃ、彼女の明るさ、無垢さというのは貴重だし、好きになるはずだ。


「なんというか、よくきたな」


 私が立ち去っていった生物教師に思いを馳せていると、担任教師はどこか気まずそうに、そう切り出してきた。そこで、私はようやく我に返り、この進路相談室という大して広くもない空間に、二人取り残されたことを思い知った。それから、彼が私の抱えていた躊躇いを見透かしていたことも。


「そりゃあ、先生に呼ばれましたから」


 だから、私は精一杯強がった。普段なら、優等生ぶっているのだし、こんな不遜な態度なんて取らない。大抵、従順でいれば事は簡単に済むからだ。だから、彼もこれには意外だったのだろう。虚を突かれたような顔をした。


「それで? お話とは?」


 私はそこに言葉を差し込む事で、会話の主導権を握ろうとした。面倒くさい事はお断りだ。だから、彼の向かいに用意された椅子にも腰掛けず、ただ入り口の戸に背を預ける。余計なことを聞かれたら、すぐにでも出て行こうと思っていた。


 彼は私のそんな警戒を感じ取ったのか、表情を引き締めた。


「率直に言えば、さっきまで何を聞こうか、決めあぐねていた」


 やっぱり、彼は大人だった。すぐに主導権を取り返そうとしてきた。きっと、進路の話をすると私は考えていただろうから、それ以外の話を匂わせる事で、同じように驚かせようとしたのだろう。実際、私も内心驚いていた。しかし、そう簡単に主導権を明け渡す事は私のプライドだって、許さない。努めて冷静に振る舞った。「早く本題に入らないと、帰るぞ」という意味を込めて、時計に視線をやる。彼は、今度は動じる事なく、腕を組んだ。


「なぁ、桐野はどうしたい?」

「どうしたい、とは?」

「この先だ。何かやりたい事はないのか?」


 ない、と言えば嘘になる。けど、私のやりたい事、それをここで言ってなんになるだろうか。もしも、先生が神様でなんでも叶えてくれるっていうのなら、ここで言う価値だってあるだろう。けど、現実はそういうわけじゃない。大半の大人というやつは私のやり方に色々口だして、可能性を狭めて行くだけだ。こっちは手段なんて選んでいる余裕なんてないのに、綺麗事を押し付けて悦に浸る。そんなつまらないご高説を賜るくらいなら、私は仮面をかぶる事を選んだ。


「いえ、特に何も。なんとか生きていければと思っています」

「適当な答えだな。だが、俺はそうは思えない。何しろ、お前は頭がいい。ただ勉強ができるだけじゃなく、賢い頭がある。そんなお前が大学に進むのか、社会に出て働きたいのか、あるいは別の何かを考えているのか、そういう事を聞きたいんだ」

「買いかぶりです」

「そうかな? 俺にはお前に考えがあるように見えるんだがな」


 彼はそう言うと、じっとこちらを探るように見据えた。私は途端、居心地が悪くなって、目を伏せる。


 私には野望があった。ここ何年もじっくりと温め続けていた野望が。けれど、それを人に話したことはほとんどない。たった一人、話したことのある人はいるけれど、彼女の協力は野望の達成に必要だったのだ。それに、彼女は綺麗事を言わないと確信できる人だった。彼女自身もまた、綺麗なことばかりしていたわけではなかったから。


 では、果たして彼はどうだろうか。教師という、お堅い世界で生きてきた彼は、私の野望を聞いて何を思うのだろうか。正直、社会的信用の高い教師の力というやつを使うことができたのならば、便利なことこの上ない。彼がもし、私の道を邪魔しないでくれるのならば、こんなに頑なになる必要もなく、話すだけの価値があることも気づいていた。


「先生」


 だから、私は試すことにした。この質問にどう答えるかで、彼が野望の協力者になり得るか、それを判断しようと思った。彼は散々適当な返事をしていた私の纏う空気が、その一言で変わったのを察したのだろう。鋭く息を吸い込んだ。


「私、何にもないんです」


 私には何もない。愛も、金も、経歴も。何もかも持ち合わせていない、ただの女子高生だ。ほんの少し、勉強ができるというだけの、社会からすれば、全く無価値の存在。だから、私はそんな自分が大嫌いだった。


「私は何かが欲しい」


 自分にも何か誇れる物が欲しかった。いや、そんな大層なものじゃなくていい。ここにいていいのだと、それだけでも許されるものが私は欲しかった。でも、今の私にはそれができない。今は無力すぎて、生きるだけで精一杯だ。だから。


「先生、そのために私はいい子ではいられませんよ」


 優等生の皮は所詮表面的なものでしかないのだと、私はそう暗に告げる。世間一般の期待には応えられないのだと、先生としては許してはならないことを許せと、傲慢にもそう振る舞う。もしこれでわからないふりをするのなら、あるいは叱りつけるのなら、私は全てを冗談だと誤魔化してしまうつもりだった。


 彼は私の言葉を受けて、そのどちらの反応も示さなかった。代わりに目を閉じて、考え込むように顔を伏せる。私は息を飲んで、彼の答えを待った。


「そうか」


 数秒の間が空いて、重々しい空気の中、返ってきたのは短い言葉だった。私はその三文字をどう受け取っていいものかわからずに、困惑してしまう。彼はそんな私に弱々しく笑って、言葉を続けた。


「いいんじゃないか。それが、お前のしたいことだというのなら。見たところ、意思は堅そうだ。お前のすることなら、いくら無茶でも打算あってのことだろう。それを止める資格なんて、俺にはないよ。もしそれを止めて、一生それで憎まれちゃたまらないからな」


 彼の返答は私に負けないくらいに自分勝手だった。偽善よりも自己保身に走った。でも、だからこそ私は安心できた。彼はきっと、私の邪魔をしたりはしない。むしろ、私の憎しみを買うことを恐れているのなら、協力を取り付けることだってできる。私はそう企んで、彼に笑みを向けた。


「ありがとうございます」

「ただ、後悔だけはしてくれるなよ」

「後悔ならもう、何度だってしています。だから、次だけは挑戦したいんです」

「なるほどな。やっぱり、お前は賢いよ」


 彼は呆れたように首を振った。でも、それはこの生意気な小娘を対等な一人として捉えてくれているようで。いくら卑屈な私でも嫌な気分にならなかった。


 私は彼に小さく頭を下げると、ドアを振り返った。彼ももう満足しただろう。私も確認したいことは確認できた。あとは必死に自分のできることをするだけ。それだけだった。


「でも、何にもないなんて言うなよ。きっとお前は何かを持ってるさ。ただ、まだ気づけていないだけ。そうだろう?」


 ドアノブを捻った私の背に、最後に彼はそう言った。何かを祈るように、少し寂しげに問いかける。


 この人も、お人好しだ。本当に。


 私は唇を強く噛んだ。そうでもしなきゃ、散々汚いものを抱え込んできた自分が惨めに思えて、泣いてしまいそうだった。


「私は馬鹿ですよ。本当は」


 だから、私を賢いと褒めた先生に、私は謙虚にそう答えた。そして、小さな部屋を足早に立ち去ったのだった。

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