後編
「ねぇ、あなたは幸せ?」
それは優しい声だった。私を慈しむ、どこまでも懐かしい声。それでいて、寂しげな、そこはかとない不安を内包したような。震えるその声は私の中で反響し続けていた。
「ねぇ、あなたは幸せ?」
私は答えに窮した。
幸せなんかじゃない。そう恨み言を吐けたなら、いっそ楽だったのだろうか。
うん、幸せよ。そう無邪気に笑って答えるのが正解だったのだろうか。
わからないよ。結果的にそう答えた私はやっぱり間違っていたのだろうか。
あの人はただ、「そっか」と笑っただけだった。けれどもしかしたら、私の答えに傷ついたんじゃないだろうか。
「ねぇ、あなたは幸せだった?」
でもやっぱり、何度考えてみてもどう答えるのが正解だったのか、わからなかった。だから、きっと私にはそう答えるしか術がなかったのだ。私は自分をそうやって納得させていた。
フッと嘲笑が思わず零れた。ああ、こんなこと考えていたって仕方がない。幸せ? なんと馬鹿馬鹿しいのか。だって、私にとっては。
「あんた! 私を馬鹿にしたわね!」
乾いた破裂音。ジンと熱を持つ頬。耳を劈くヒステリックな叫び声。
この全てこそが私の現実だった。
私はそっと目を開く。リビングの白い蛍光灯の光の中で浮かび上がるのは、鬼のような形相をした女だ。彼女は私と目が合うと、怯えたように、もう一度手を振りかぶる。そして、私の頬に手を打ち下ろした。
「何度も言ったわよね。さっさと出て行けって。そんな簡単なことさえ出来ないの? この出来損ない!」
パチン、パチン。そんな音が一つ鳴るたび、目が眩んだ。脳がグラグラ揺れる。痛みは既に麻痺していた。悲鳴もとうの昔に枯れて、唇から出るのは小さなうめき声だけ。
抵抗は無駄だと知っていた。ただ、繰り返される衝撃に耐えて、時をすぎるのを待つ。それが、この家という名の牢獄での私の役割だった。
「あんたなんていなけりゃ良かった!」
ああ、そうだろう。本当に。私なんかがいたって、誰も幸せになんてなれない。それは確かに変えようがない真理だ。私自身、消えてしまいたいと、何度願ったかわからない。
「お前は愛されることを望んじゃいけない。本来は生きてちゃいけないんだ! 十分、わかっているだろう。ほら、頭を下げろ。謝れ! 私を不幸にしたことに!」
私はいつもそうしているように、硬いフローリングの床の上に額を擦り付けた。みっともなく、無様に。この人が求めた通りを形にする。
「すみませんでした。私が馬鹿でした」
「ああ? 聞こえない」
「申し訳ありませんでした。私が馬鹿でした。生きていて、すみません」
何度口にしても、己の言葉に心は削られて行く。他人の言葉なんかよりも自分の意思で紡がれる言葉は余計に精神を摩耗させていく。ひたすら惨めだった。自分がもっと嫌いになった。でも、それでも。
「なら、さっさと死んで詫びな」
私はスッと鋭く息を吸い込んだ。頭を地面に押し付けられながらも。声を震わせながらも、自分でも不思議なことに無駄とわかりきった反抗をする。
「どうか、それだけは許してください。死ぬのだけは」
生きていても仕方ない。そう結論づけているのに、それでも私は生きることに縋っていた。案の定、腹に蹴りを入れられる羽目になっても、死だけは覚悟できなくて、込み上がる吐き気を押さえ込んで、ごめんなさいを繰り返す。私はそれが自分でも不思議だった。すると自然と回帰するのだ。あの問いに。
「ねぇ、あなたは幸せ?」
幸せ。それは私に許されていないもの。だから、知らない。それがなんなのか。果たして、自分は幸せなのか、不幸せなのか、その尺度すら私は持ち合わせていないのだ。
やっぱり、わからないよ。
私は終わらない地獄の中で、優しい声にそう返した。そう、返すしかなかった。
視界の端で明滅するテレビから、他人の死を告げるニュースが聞こえる。私は痛みと悲しみを遠ざけるようにそっと目をつむった。
秋だ。そう明確に感じ取った朝は今年初めてだった。私は玄関から一歩出た瞬間、吹き付けた風に少しの冷たさを覚えて、小さく身震いした。咄嗟に昨晩出来た傷を隠すために羽織っていていたカーディガンの前を引き合わせる。それから、これから来たる寒い季節のことを考えて、ため息をついた。さて、今年もこのカーディガンで冬を乗り越えなくてはならない。私に与えられた防寒具はそれだけだからだ。二年半、なんとかもたせてきた制服とカーディガン。身長がほとんど伸びなかったのは幸いだった。
私はカーディガンのほつれた袖口から顔を上げると、歩みを進めた。高校へ向かう通学路はもはや見慣れたものだった。朝の少し薄暗いこの時間帯に登校する人は厳しい部活の朝練がある人くらい。それでも、私はこの時間帯が好きだった。初めは家の中に居たくない一心で、この時間に飛び出していた。今でもそれは大きな理由の一つではあるけれど、いつの間にか純粋にこの時間帯が好きになった。朝の空はどの季節も空気が澄んでいて綺麗だ。夏であれば陽の光が植物の朝露を輝かせる。冬であれば朝焼けが世界を赤く染めあげる。人がいない街並みも自分のものになってしまったようで、心が少し踊る。中途半端に田舎で、いいところなんて何もないように思えるこの場所が唯一好きになれる瞬間だった。
そうして足取り軽く歩いていれば、高校はいつの間にかすぐそこまで迫っていた。定期代なんて期待できなかったから、近いという理由で選んだこの学校。幸いなことに公立でもあったし、あの人も九十九パーセントが高校進学している現代において、私を中卒で野放しにするのは外聞が悪いと考えたのか、なんとか通うことを許してもらっていた。もちろん、高校を出れば追い出されるのは当たり前。大学に通わせてもらうなんて夢のまた夢だ。とはいえ、私は高校に通わせてもらえることに心底安堵していた。今時中卒の女なんて、雇ってくれるところが限られてくる。それに、そもそも中学生の頃の私は社会で働くだけの覚悟がまだ出来ていなかった。受験することができたこの学校は偏差値がそれなりに高いところだったが、それまで真面目に勉強していたことも功を奏し、なんとか無事に合格できた。
校門をくぐって、昇降口へと向かう。中は薄暗くはあるが、入り口の鍵は開いていた。私は底が薄くなっているローファーを脱いで、簀の上に上がると、自身の靴箱の戸を開ける。そして、いつも通り靴を入れようと、中を覗いた。すると、上履きと共に見慣れないものが中に入っていることに気がつく。封筒だ。私はそれを見て、どきりとした。もしかして、ほかの人の靴箱を間違えて開けてしまっただろうか。
その考えに至ると、私は途端に羞恥に襲われた。誰かが私の痴態を見て笑っているのではないかと不安になって、周囲を見渡す。幸い、周囲はしんと静まり返っていて、誰もいなかった。
私はそれを確認すると、ほっと息をついた。自身の火照った顔に手を当ててみれば、手のひらのひんやりとした冷たさが気持ちよかった。ああ、鏡で見なくたってわかる。今の私は真っ赤だ。
さて、ところで私の靴箱は隣だったか、と隣に目を向けたところで、それも私の間違いだったと気づいた。どうやら、さっき開けたのは私の靴箱で合っていたらしい。では、この封筒は誰かが入れ間違えてしまったのだろうか。私は再度周囲を確認しながらも、封筒を手に取ってみる。しかし、ちょうど昇降口に入ってきた日差しに照らされた宛名は飽きるほど見慣れたものだった。
「私に?」
驚きのあまり、自然と声が出てしまった。中身を確認して、それが手紙だとわかると、驚きはさらに加速する。というのも、私はお世辞にも社交的とは言えない人間だからだ。つまりは、手紙をくれる友達なんてものを私は持ち合わせていない。もちろん、学校生活の中で求められる最低限の会話くらいはこなすが、基本的には一人で過ごすのが私の常だ。だから、こんな風に手紙をもらうのだって初めてだっだ。
私はとりあえず靴を履き替えると、その手紙を手に教室へと向かった。中身の詳しい内容は教室についてから読めば良い。けれど、不思議だった。なんだって手紙なのだろう。伝えたいことがあるならば、こんな回りくどいことしなくても、直接言ってくれれば良いのだ。仮に言いにくいことだとしても、靴箱なんて手紙が汚れてしまうところなんかじゃなくて、机の上なりにおいてくれれば良い。もしかして、そんなに手紙を渡したという事実を知られるのが嫌な内容なのか。はたまた、私に関わるだけでいじめられるとかいうことが私の知らないところで横行していたりするのだろうか。流石に私だって、クラスメイトにそこまで嫌われていないと思いたいけれど。
私は次から次へと湧き出てくる疑問を抑えきれず、早足で教室へと向かった。いつもなら、家では集中してできない宿題を始めるところだが、今日はそれをしようとは思えなかった。まだ誰もいない教室の端の方にある自分の机にたどり着くと、私は便箋を封筒から取り出した。そして、文面に素早く目を通す。
「……なにこれ」
便箋を広げて数十秒。全て読み終えた私の口からこぼれ落ちた言葉は自分でも驚くほどに冷たいものだった。手紙への興味に沸き立っていた心は今やスッと静まり返り、脳は内容の理解をひたすら拒んでいた。
「馬鹿馬鹿しい」
クシャリと手の中で、便箋が音を立てた。綺麗に折りたたまれていたそれにくっきりとしたシワが刻まれる。私はそれを気にすることなく、それどころか更に強く握りこんだ。丁寧な文字もそこに乗せられた思いも全て、ただのゴミ屑になればいい。そんな思いだった。
「くだらない、くだらないくだらないくだらない」
ついには封筒ごと手の中に丸め込むと、私はそれをゴミ箱へと力一杯投げ捨てた。それはいくら「くだらない」と言葉で繰り返しても消えない苛立ちをぶつけるように。己のうちに湧き上がる暴力的な感情をゴミ箱の中へとぶつけた。
「ああ、最悪」
なのに、苛立ちはおさまらない。手紙に書かれていた丁寧な文字が頭の中をぐるぐると回り続ける。私は身体を投げ出すように椅子に座り込むと、頭を抱え込んだ。
綺麗だ。好きだ。付き合ってください。本当は私がさみしいと思っていることは知っている。悩みがあったら教えて。手紙に書いてあったのはそんなことだった。
絵に描いたように美麗な字句。私の全てを理解しているかのような身勝手な妄想。見せかけだけのハリボテの優しさ。
「最低」
ああ、気持ち悪い。吐き気がした。全部全部、その全てに。
もちろんわかっている。彼がいたって真剣に考えて、これを書いたのだということは。純粋に、他意なく、私を心配している。私に好意を持ってくれている。
「でも、無理だ。こんなの」
私には受け入れられなかった。私が悪いのだ。私が歪んでいるから。普通じゃないから。相手の好意の中に悪意を自然に探そうとしてしまうから。これを純粋な気持ちで受け入れられない。
だって、どうせ決まっているのだ。こんな欠陥だらけの私なんてすぐに見捨てられてしまうって。飽きられてしまうって。私は愛されるはずのない人間なのだから。
「お前は愛されることを望んではいけない」
あの人の声が頭の中で繰り返される。身の程を知れ、と私を戒める。私はいつものようにその声に従って、彼との最悪な未来を想像した。
例えば、私の事情を話したとして。やっぱり、彼は離れて行くだろう。ああ、面倒な人間に引っかかってしまったと。そうでなければ、私をただ哀れむのだろう。彼には私をどうすることもできない。私をあの家から、あの人の声から解き放ってなどくれないのだ。きっと慰めて、下手に希望を持たせようと躍起になって、それでおしまいだ。お互いに苦しむだけ苦しんで、なにも産まない。後悔だけがそこに残るだろう。
「でも、私は馬鹿だ」
こんなわかり切った未来を知ってなお、ここまで心をかき乱されている。彼の好意を受け入れまいと必死になっている。馬鹿みたいだ。初めから期待などなければ、無でいられるのに。上辺だけでもそれを感じなければ、ここまで自己嫌悪に陥ることはなかったのに。自分が嫌になるのは彼の想いを裏切る罪悪感のせいだ。
「死んでしまえ、死んでしまえ」
小さな声で己に対してありったけの呪詛を吐く。全身を掻き毟りたい衝動に襲われながら、強く唇を噛む。でなきゃ、頭がおかしくなってしまいそうだった。
「ねぇ、昨日のテレビ見た?」
不意に遠くで聞き覚えのある女の子の声が聞こえた。場違いに無邪気な声だ。私は顔をあげた。私が溶け込むべき現実が足音を立ててやってくる。そのカウントダウンが刻まれる度、少しずつ冷静さを取り戻す。
さぁ、顔を上げろ。鉛筆を取れ。ほら、いてもいなくても大して変わらない、教室の背景に早く溶け込むんだ。私はそう己に命じた。
「ああ、見た見た。あの人マジでカッコよかった」
「よねー。あー、私もあんなイケメンと付き合いたい!」
「私もー。どっかにいないかなぁ」
どこもかしこも、恋だの愛だの、馬鹿らしい。恋愛はそれほどまで大切で魅力的なモノなのだろうか? ましてや見かけで判断するなんて、自分勝手に思える。本当に馬鹿馬鹿しい。
ああそうだ。私は冷め切った感情を自覚した。
馬鹿にしてやればいい。全部、全部。卑屈だって言われたっていい。それで、このバラバラになりそうな心が形を保てるなら。ただ、そうするだけだ。
「怜ちゃん、今日も早いね。おはよう」
「おはよう」
私は笑顔で挨拶を返した。日常に溶け込んだ。自己嫌悪がどれだけ強く願ったところで消えなくても、それをひた隠して、笑った。
そう、私は。今この瞬間を乗り切るためだけにに、私は「愛」とかいうモノを馬鹿にしてやった。
※
雨が降っている。一粒の雨粒が窓を伝い、ゆっくりと落ちてゆく。他の雫と交わって、加速し、あっという間に流れる。そして遥か下の校庭の水たまりへと墜落していく。もう、どれが初めに見ていた雨粒なのか、わからなくなってしまった。私はその流れを見て、はぁと小さくため息をついた。
翻って、蛍光灯に照らされた真白い教室。そこでは退屈な授業が繰り広げられていた。この先生の話は退屈だ。教科書に書いてあることしか話さないから、何の実入りもない。これなら、さっさと教科書を読んでしまった方が効率的だ。なのに、周りのお利口さんな生徒たちは真剣な表情でノートをとっている。まぁ、私みたいに注意力散漫な生徒が全くいないとは言わないけれど。それでも、間近に迫り来る受験の圧をひしひしと感じているのか、真面目な態度が大半だった。私はそれを羨ましく思いながらも、不器用にもそれを真似できなかった。だから、再び窓の外を眺める。
秋雨が降りしきる世界は灰色だった。陽の光を雲に奪われた地上はまだ夕方だというのに薄暗い。それが面白いとも思えないけど、退屈な授業よりは動きの読めない雨粒の動きを眺めていることの方が私にはまだマシに見えた。
水たまりという大きな世界ではたった一つの雨粒なんて、大した意味も持たない。ましてや、彼らの故郷である大きな海とは比べるまでもない。ただ世界の理に従って、めぐりゆくモノのほんの一欠片。私はそれに目を留めていた。
「さて、今日の授業はここまで。次回はこの問題の解答からやっていく。今日のプリントを忘れないように」
ぼんやりとしていたら、チャイムが鳴った。退屈な授業はいつの間にか終わって、教室が慌ただしくなる。放課後だ。生徒たちの自由な時間が始まる。だから、彼らは少し浮かれているように見えた。担任でもある教師はそんな生徒たちの浮き足だった様子を横目に、先生らしい言葉を吐いて、退出していった。私もすでにしっかり空欄を埋めてあるプリントを無料で配られたファイルに綴じて、机の中へとしまい込んだ。
「さて」
今日もこれから図書室で勉強しようか、と私はカバンを手にして立ち上がった。しかし、立ち上がった拍子にふと、男子生徒の一人と目があった。彼は、私と視線がぶつかり合うと、慌てたように顔を伏せる。その耳の先は赤く染まっていて、伏せた横顔もどこか不安にこわばっていた。
私はその意味に気づかないほど、鈍感じゃなかった。今朝と同じ胸を締め付けるような強い痛みが私を襲う。
彼だ。私にあんな手紙を書いたのは。私を少しだけ期待させて、罪の意識を押し付けた犯人だ。
私は顔が熱くなった。怒りのせいだ、と思うけどきっとそれだけじゃない。それに気がついて、余計に自分にイライラする。
「最悪だ」
誰にも聞かれないように小さく呟いた。吐き出した感情を振り切るように、教室を早足で出る。足は自然と図書室の方ではなく、昇降口の方へと向かっていた。今すぐ、彼から出来るだけ遠いところへ逃げ出したかった。
己の靴箱の戸を乱暴に開けると、踵を潰しながらローファーに足を突っ込む。そして、そのまま外に飛び出そうとして、ようやく躊躇った。
雨が降っている。
私には傘がない。でも、忘れたわけじゃない。いつも家に持ち帰ると、勝手になくなってしまうのだ。誰のせいかなんて言うまでもない。
「大丈夫」
走って帰れば何とかなる。私は自分に言い聞かせた。一張羅である制服が明日までに乾いてくれる保証などないが、そう思い込むしかなかった。ここまでくれば、もうヤケだ。それくらいに振り向くことを恐れていた。
さぁ。
自分を叱咤する。雨の中を駆け出した。
「ねぇ、あの人」
驚いたように私を指差す後輩がいた。気にしなかった。
「おい、車に気をつけろよ!」
私に注意を呼びかける教師がいた。気にしなかった。
校門を出る。信号の点滅する横断歩道を駆け抜けた。それから。
「あれ、今の怜ちゃん?」
私の疾走に首をかしげるクラスメイトがいた。気にしなかった。
「あらまぁ、そんなに濡れて」
私を心配する近所のおばさんがいた。気にしなかった。
「桐野さん! 待って」
背後から私を呼び止める声がした。気にしなかった。
「桐野さんってば!」
走り続けたはずの私の手首を背後から掴む手があった。今度は気にせずにはいられなかった。
私は数歩、歩を進めてからようやく足を止めた。いや、止めざるを得なかった。それでも、最後の抵抗とばかりに振り向かずにいると、背後からため息が聞こえた。
「ねぇ、何でそんなに逃げるのさ」
その声音を聞く限りでは、怒っている訳ではなさそうだった。少し呆れたような、それでいて悲しそうな声に聞こえた。
だから、尚更辛かった。ぐっしょりと濡れた制服が酷く重く感じられた。
「あーあ、そんなに濡れて。風邪ひいちゃうよ。ほら、傘貸すからさ。手を離すけど、逃げないでくれる?」
私はコクリと頷いた。彼の目を見ることはできなかったけれど、振り返って、傘を受け取る。傘の持ち手は彼の体温が残っていて、少しだけ暖かかった。
「ありがとう」
一言、絞り出す。それに彼は軽く笑って、「どういたしまして」と返してくる。ようやく、彼の口元が視界に入ったところだった。そんな彼の唇は少し震えていた。
「ごめんね」
気づけば、考えるよりも先に言葉が出ていた。その瞬間、彼の口元がギュッと引き結ばれる。私は自分が言ってしまったことに、内心怯えた。間違ってしまったかもしれないと、身をすくめる。
けれど、彼は私を責めるわけじゃなかった。ただ、かすれた声で問い返してきた。
「それは……何に対して?」
彼もわかっているはずだ。私が彼に何も言わずに逃げたこと、それが何を意味しているかを。
残酷な問いだ。そう思った。けれど、それは私にとってより、彼にとっての方が大きな意味を持つ。だから、私は答える他なかった。
ゆっくりと視線を上げて、彼の目を見た。悲哀に満ちたその眼をしっかりと見返した。
「私は、あなたの想いには応えられない」
傷ついた。彼の心はきっと。そして、傲慢なことに私自身の心も。それでも、視線は外さなかった。それが、せめてもの贖罪だった。
彼はクシャリと顔を歪ませた。不恰好で、泣いてるのか、笑っているのかわからない表情だった。ただ、彼の目尻からは1つの粒が流れ落ちた。それは雨粒と混じり合って、加速していく。そして、水たまりへと落ちた。
「そっか、そっかそっか」
彼は頷いた。作ったとわかる、明るい声で大げさに何度も頷いた。だから、私の肩をポンポンと軽く叩いている手は、やっぱり震えている。
私はその手に触れたくなった。けれど、自身の手を少しのばしかけて、やめる。その資格がなかった。
「ありがとう。はっきり言ってくれて。これでちゃんと吹っ切るから」
何で、ありがとうなんて。嘘つき。押し殺した責苦。それは本当に自分勝手なものだった。でも、彼の気遣いを台無しにはできない。だから、どうしていいか分からずに立ち尽くしていた。
彼は濡れた頬を乱暴に拭うと、くるりと私に背を向けた。
「じゃあ、またね。桐野さん。また明日」
「また、明日」
今度は彼が駆け出す番だった。こっちを一度も振り向くことなく、雨に濡れながら走り去る。私はその背が見えなくなるまで、ずっとそれを見送っていた。
「ああ」
彼の背が見えなくなると、私は完全に一人だった。雨音が全てのノイズをかき消して、私を一層孤独にする。けれども、それが私の選んだ選択だった。私が一番望み、安心できるはずの静寂。しかし、それが今、どうしようもなく私を動揺させていた。
これで正しかったはずだった。私を好きになるなんて間違っている。彼を絶望させてしまうだけのそんな女、好きになる価値などないのだ。
なのに、私は今この選択が正しかったのか疑いかけていた。どれだけ、自分に「正しかった」と言い聞かせてみても、なぜだかしっくりとこない。まるで、心がバグを起こしてしまったかのようだった。
「おっかしいの」
私はそう呟いて、足元の小石を蹴っ飛ばした。小石と同時に足元にたまっていた雨水も蹴ったせいで、水しぶきがぴしゃりと跳ねる。靴下が濡れた。
「明日、学校行けるかな」
これだけ濡れていれば、あの人はカンカンに怒るだろう。もしかしたら、家に入れてもらえないかもしれない。たとえ、そうはならなくても、問題は山積している。まず、明日までに制服がちゃんと乾いてくれるかが怪しい。これが乾いてくれなかったら、明日から私はどうしたらいいのだろう。
「明日は晴れますように」
私は祈った。ただ、それだけを。そうすることしかできなかった。
私は残り半分となった帰路を歩き出した。傘をくるくると回して、出来るだけゆっくりと歩く。
雨が降っている。
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