伍話 迎法師




 渋谷区にある、なんの変哲もない昼間の路地に私は立っていた。

 背後にはコンビニがあり、奥には交通量の多い通りが見えている。

 距離にすれば全長30メートルほどの路地であった。

「ここが問題の通りでしてね」

 そう言った彼の名前はてらろうという。

 ここに来る前の東渋谷警察署で自己紹介された。

 年齢は五十あたりで頭髪が薄く、皺だらけの茶色いコート姿の冴えない風貌をしている。

警察そっちの事件報告書を読んだけど、失踪した人に多額の借金などは無かったそうね」

「こういった事件の場合、金銭トラブルの他には犯罪に巻き込まれたなんてのもありがちですなぁ。ですがいまのところ、そういったこともないようです」

「事件の目撃者はいるのかしら」

「目撃者というか……お会いになりますか?」

「今できるのは、それくらいしかなさそうだもの」

 寺田は車に乗りこんで運転を始め、右手で角張った顎を撫でる。

「それにしても、こんな行方不明事件になんで内調のあなたが出てくるんです?」

「一ヶ月間、同じ場所で三人も行方不明者が出ている。偶然で片付けるのが、難しくなってきたからよ」

「自分も三十年以上、刑事デカやってますがね、こんなこたぁ初めてです。最初の行方不明事件から、現場の巡回を強化してたんですよ。その矢先にこれだから、たまったもんじゃない。行方不明者の家族にも会いましたが、失踪の原因がさっぱりわからんのです。一人目は佐々木ささき洋輔ようすけという、いたって普通の勤め人でして。大手家電メーカ に勤める五十四歳の既婚男性。金関係を洗ってみましたが、どこにも借金はなく、金融関係のブラックリストにも載っていなかった。職場でも問題を起こしたことは一度もなく、なにかに悩んでいる様子も無かったようです。二人目は梶原かじわら美樹みきという二十二歳のキャバ嬢。そのも一人目の男性と同じように、職場でのトラブルはありませんでした。借金は数万程度で、収入のバランスからすればすぐにでも返せるような額です。三人目は清川きよかわひろしという三十四歳の新婚男性。これも特に問題なかったです。その三人に共通しているのは失踪の時刻が深夜で、あの通りで消えたってこと。いずれも行方不明になってから、五日から七日の間に警察へ届け出がありました」

 車のウィンカーを点灯させ、寺田は左の路地にハンドルをきった。

「三人目の行方不明者である、清川さんを最後に目撃していたのはコンビニ店員です」

「向かっているのは、その目撃者の自宅ということ?」

「いえ、詳しくは会ってみてください」

 寺田は歯切れ悪く言い、コインパーキングに車を停める。

 都内でも有数の高級住宅街の一角に、その家はあった。

 敷地沿いに続く土壁と武家屋敷のような門構えから、居住者の桁違いな資産家ぶりが見て取れる。

「東渋谷警察の寺田です」

 門に付けられたインターフォン越しに寺田が要件を説明すると、和装の四十代らしき女性が木製の引き戸玄関から現れた。

さくさんはご在宅ですか」

「今日は日曜で、特に用もないので家にいます。先日で事情聴取は終わったと、お聞きしましたが……」

 咲美という子の母親であろう女性の顔は不安そうだ。

「聴取は署にきて頂いたとき、終わっています。今回は軽いお話というか、そんなとこです」

「娘を呼んできますので、こちらでお待ち下さい」

 私と寺田が待たされたのは、屋内の広い和室だった。

 床の間には活けられた花があり、水墨による山水画の掛け軸が壁にさがっている。

 私たちの前には煎茶と羊羹が置かれ、咲美の母は部屋から出ていった。

 しばらくして、音もなく襖が開く。

「今日はどのような、ご用件ですか?」

 座布団に座った、和装のショートカット少女が言う。

 彼女の隣にはハーネスを付けたラブラドールの成犬が座り、こちらを見ている。

「今日は、わたしだけではないんです」

 そう言って寺田は、私に視線を向けた。

 その意味を理解する。

 咲美は盲人なのだ。

 彼女の側の犬は盲導犬ということになる。

「内閣情報調査室の遠見綾乃よ。はじめまして」

「はじめまして、遠見さん。それにしても初耳な組織ですね。声の感じからすると十代の方?」

「今年の春に高校三年生になった。あなたは?」

「盲学校の高校三年生です。同じ学年ですね」

 咲美の所作には品があった。

 それが先天的なものなのか、後天的なものなのかまでは洞察できないが、咲美の母親の影響が色濃く出ているのは間違いない。

 私は咲美と互いの私生活について語り、寺田がそれに端々で加わるという流れになった。

「三人目の行方不明者の近くにいたのが、この咲美さんなんだよ」

 会話が途切れがちになったころ、寺田はそう言って事件の話題を振った。

「足音を聞いたかもしれないんです」

 この家にくる前に、咲美が”目撃者”と寺田が断言しなかったのは、このことだったらしい。

 見てはいないが事件現場に居合わせており、最後に清川と接触したかもしれないのは盲人の彼女なのだ。

「路地の入り口の角にはコンビニがあり、深夜二時に行方不明者の清川さんがそこに寄っている。そして路地の出口の大通りでは、タクシー運転手がいた。なんでも、客が酔っ払いで料金を払ってもらえず、一時間もそこで立ち往生していたそうだ。しかし路地から清川さんが出てくるのを見ていない」

「その路地に脇道はなかったわね」

 菓子ように羊羹を刺し、口に運ぼうとする寺田に聞く。

「遠見さんも見たはずだが、左右がビルとマンションの壁面で塞がれている。事件当夜、咲美さんのことをタクシー運転手は見ているんだ。清川さんと咲美さんは、それぞれ路地の逆方向から入った。その真ん中で二人は会ったという話になる」

 二つの出入り口には目撃者がおり、咲美と清川は路地の中央付近ですれ違った。

 だが、路地から出てきたのは咲美だけだったのだ。

 事件の輪郭は見えてきたが、咲美の状況には不自然な点がある。

 しかも、根本的な部分に。

「――なぜ、そんな深夜に街をうろついていたの?」

 盲目の少女が深夜二時に街を徘徊するなど、私には想像もつかない。

 寺田は羊羹を食べているだけで、話しに入ってこなかった。

 知らぬ顔をしているが、寺田は咲美が深夜に出歩いていた理由を聞き出せていないのだ。

 それは彼女が、重く口を閉ざしたことでわかった。

「昨日、空き巣に入られた家に、これから事情聴取に行かにゃならんのです。遠見さんは、帰るときに電話ください。そいじゃ咲美さん、今日はお邪魔しました。お母様にも、よろしくお伝え下さい」

 挨拶もそこそこに座布団から立ち上がった寺田から、電話番号の書かれたメモを渡される。

 寺田が退室し、部屋は私を含めた二人と一匹になった。

「少し、外を歩きませんか?」

 咲美からの提案で私たちは家を出て、近所にある代々木公園の歩道を歩く。

「桜は散ってしまいましたか?」

「ほとんど散ってしまったわ」

「数日前まで、落ちてくる桜の花びらが頬にあたっていたんですけど。他にも匂いや気温でも季節を感じることがあります」

 咲美の連れている盲導犬は、しきりに周囲を見ている。

「この子の名前はミルト。小学生六年生のときから一緒にいて、オスの七歳になります」

 ミルトは賢いようで自分が紹介されたのを知ってか、『よろしく』といわんばかりに尻尾を激しく振った。

「立ち入ったことを聞くけど、いつから目は見えなくなったの?」

「生まれたときからです」

 十八年間、世界を一度も見たことがない――咲美の心はどのように、その暗闇を払ってきたのだろう。

「あなたは強いのね」

「それ、よく言われます。でも目が見えるから、恐ろしい現実もあるんじゃないですか」

 咲美の柔和な表情が消えた。

 そのことにミルトも反応したらしく、飼い主を心配そうに見つめている。

「あなたはさっき季節の感じ方は匂いや気温と言った。それ以外にも、周囲の変化を感じ取る方法がある。たとえば音。深夜に行方不明者の足音を聞いたらしいけど、他にも別の音を聞いたんじゃない? それから、どうして深夜の街中にいたの?」

「遠見さんて、さっきの刑事さんより押しが強いんですね。この世の地獄を見てきたようにくらく、温もりなんてない声をしているくせに」

「彼になにか訊かれたの?」

「なんで行方不明者のいた路地にいたのかって、刑事さんから遠回しに何度も訊かれました。わたし、わかってもらえそうにないから、別の話題ではぐらかしたんです」

「街中にいた理由を他人に話したくないの?」

 私は食い下がる。

 この事件は思った以上に根深い──私の調査員としての勘が、そう告げているからだ。

「どうして、そこまで聞きたがるんですかっ!」

 歩みを止めた咲美は、声を荒げて言う。

 私は立ち入ってはいけない領域に足を踏み込んでしまった。

 だからといって咲美の心の扉が閉ざされていくのを、なにもせずに見ているわけにはいかない。

 それは内調で二年を過ごした、私なりの意地だ。

 ここで引き下がるわけにはいかない。

 あの閉まりかけた心の扉を、なんとしてでもこじ開けたかった。

「あなたのご両親は、どう思ったんでしょうね。深夜に目の見えない女の子が一人で街を歩くなんて、とても心配したはずよ」

 口から飛び出した言葉は、私の率直な感想である。

 咲美は会話によって生じる微妙な声質やタイミングの違いで相手の性格や感情を読むという、常人では考えられない高難度の技術をとくしている。

 さっきも『この世の地獄を見てきたように昏く、温もりなんてない声をしているくせに』と、私の人物評を極自然に言ってのけた。

 出会って一時間もしないうち、私の過去を咲美に覗かれた気分になった。

 それは咲美が盲人になって獲得したものの、一つかもしれない。

 そんな子にえんな言葉は、逆効果でしかない。

 説得や情報を引き出す交渉術はアヤカシ調査の経験でつちかったが、所詮は数年の付け焼き刃である。

 咲美は”話す”ことの本質を捉えており、だからこそ何も考えずにさっきの言葉を放った。

「深夜の街がどういうものか体感してみたかった。普通の人には大したことはないでしょうけど、わたしにとって深夜は別世界だったんです。だから両親には内緒で、何度か深夜の街を歩いたんです。こないだそれがバレて玄関には警報センサーが取り付けられ、二度と深夜の外出は禁じられました。あなたが言うように、父と母には迷惑をかけたと思います」

 夜の街を歩いてみたいという渇望かつぼう――私にとっての日常は、咲美にとっての非日常だったのである。

 私は何故、咲美のこんな初歩的な欲求に気付けなかったのかと自分の調査能力の低さに落胆した。

 きっと刑事の寺田も盲点だったはず。

 咲美は深夜の街を歩いてみたかった。

 本当にそれだけの理由だったのだ。

「さっきの質問の続き。あなたはあの路地で被害者の足音とは別の音を聞いたんじゃないかしら」

 咲美は緊張した面持ちで、ミルトのハーネスを右手でぐっと握った。

 あの反応を、私はよく知っている。

 恐怖だ。

「これは刑事さんにも話していませんが、あの路地で足音とは別の音を聞きました。輪の鳴るような音です」

「それ以外に、なにか変わったことは?」

「……ありません」

 ここが引き際だった。

 私は咲美を家に送ってから、スマートフォンで寺田に連絡を取って合流する。

「あなた、私になら深夜に出歩いていた理由を咲美さんが話すと思っていたわね」

 寺田の運転する車の助手席に乗り、私はそう言った。

「女の子同士のよしみで話すんじゃないかと。俺には話してくれそうになかったもんで」

 この寺田という男、見た目は鈍くさそうだが抜目のないところがある。

 咲美と私を引き会わせたのも、事件現場に咲美が居合わせた理由を聞き出すためだったのだ。

「調書ってやつも面倒なもんで目撃者の目が見えなくても、現場に居た理由は書かなければならんのです。そこを空白にしてしまうと、上からいろいろと言われましてね。刑事といっても、お役所仕事なんですわ」

 咲美が何故、深夜に歩いていたかを喋らなかったのか少しだけ理解できた。

 それは密やかな楽しみだったからだ。

 盲目というハンデを背負った人にのみ許される、至福の時間だったのかもしれない。

 車の通りが少なくなる、静かな深夜の街。

 自分の姿が闇に溶け、外界との境目が薄くなる時間帯。

 深夜には、そうした不思議な魅力があるのも確かである。

「彼女は理由を喋ってくれたけど、あなたに教えたくない。内調にもプライバシーの守秘義務があるから、それを適用するわ」

 寺田は残念そうな顔でアクセルをゆっくりと踏みこむ。

「あの反応……咲美さんは見ている」

 私は夕焼け色に染まった空をフロントガラス越しに眺め、ぽつりと言った。

「見ている? そりゃ、おかしい。彼女の目は見えないのに」

「いいえ、見ているわ」

「一体、なにを見たっていうんだ?」

 寺田は混乱した様子で私にたずねる。

「――むかえほうよ」

 道路脇の歩行者信号の青色が点滅し、赤になるのを見つめて私はつぶやいた。



 咲美と会ってから五日が経った。

 ここまで、あの通りでの行方不明者は出ていない。

 連日、私は咲美の家の前で夜中に張り込みをしている。

 アヤカシは次の犠牲者を求める時期――私の見たところ、行方不明者が出るのには周期性があった。

 咲美がすでに迎法師と接触していたら、そろそろなんらかの動きがあるはずだ。

 空に浮かぶ上弦の月が雲に呑まれたとき、家から誰かが出てきた。

 ──咲美だ。

 今夜の咲美は盲導犬のミルトを連れておらず、盲人用の白杖を持っていた。

 咲美の両親にはあらかじめ、玄関のセンサーを切るように連絡してある。

 これは寺田から、言ってもらった。

『お宅の娘さんは良からぬ奴に脅されている。深夜に娘さんを尾行して、そいつを捕まえたい』

 刑事の寺田にそう説得され、咲美の両親は了解した。

 迎法師に狙われた咲美を救うには、危険な方法をこれから取らなければならない。

「なにか動きはあったか?」

 声をかけてきたのは寺田である。

 未成年だけを行かせるわけにはいかないと、私と共に張り込みを続けてきた。

「ちょうど家から出てきたとこよ」

 私と寺田の二人は一定の距離を保ち、咲美の後ろを歩く。

「いよいよ彼女は犯人と会うんだな」

「そうだけど、あなたが手錠をかけられるような犯罪者じゃないとだけ忠告しておく」

「なんだって?」

「犯人は人ではない。迎法師というアヤカシ」

「こないだも車の中で言ってたな、そのナントカホウシっての」

「迎法師は人に甘い言葉を囁き、異界に引きずりこむ。咲美さんも、なにかを囁かれてしまったようね」

「まるでどっかの妖怪みたいだな」

「みたい、じゃなくてそのものよ」

 小声でひそひそ話していると、咲美はコンビニ近くの行方不明者が多発している路地に入った。

 路地の中頃で、誰かと待ち合わせでもしているかのように立ち止まった咲美。

「様子を見ましょう」

 電柱の影に私と寺田は隠れた。

「急に冷えてきやがった」

 寺田は寒気を感じたようで、開いていたコートの前ボタンを閉じる。

「異界からの冷気はアヤカシが現れる前兆……迎法師がくる」

 ――しゃん。

 ――しゃん。

 ――しゃん。

 周囲で聞こえ始めた音。

 それは鈴の音に似ていた。

「なんだこの音と霧は!?」

 寺田は異変に気づく。

 あたりに立ちこめる濃霧のせいで、路地の奥にある大通りは見えなくなってしまう。

「あれは、人か?」

 寺田と私の視界の先から、誰かがやってくる。

 頭には網代笠をかぶり、黒袈裟を纏った者が白霧を抜けて咲美の前に立つ。

 さきほどから鳴っていた音は、あの黒袈裟姿の持つ錫杖の鉄輪が鳴る音だった。

 咲美が行方不明者と居合わせたときに聞いた音は、まさにこれだ。

「咲美さんが、あいつに連れていかれる!」

 寺田の言うように咲美は黒袈裟――迎法師の後をついていき、霧の奥へと歩きだす。

「この子のるべき場所は幽世かくりよではなく、現世うつしよよ。離れなさい!」

 咲美の手を引き、私は迎法師にそう言った。

 迎法師は自分の網代笠を左手で上げる。

 その双眸そうぼうは血のような朱色に染まっていた。

「なんで、あんたがここにっ!?」

 網代笠の下からのぞく迎法師の顔を見た寺田は叫ぶ。

「遠見さん、危ない!」

 迎法師が振り下ろした右手の錫杖が頭に当たる寸前、私は横から咲美に突き飛ばされた。

 咲美は声で私の位置をわかっていたのだろう。

 アスファルトの地面に錫杖の先端がめり込んでいる。

 迎法師の腕力は、もはや人間のそれではない。

 これで、はっきりした。

 私を助けてくれた咲美は一つの答えを示している。

 やはり咲美には、迎法師が見えていたのだ。

 より正しく表現するなら、迎法師だけが見えていたというべきか。

「逃げるわよ!」

 盲人用の白杖を落としてしまった咲美の手を引き、私は霧の中を走りだした。

 寺田も、その後を追ってくる。

 迎法師はその場から動かず、やがて異界の霧が晴れてきた。

 全力で走ったせいで、ここにいる全員が肩で息をしている。

「咲美さんを助けることに成功したようね」

「なにがなんだかわからん。なんであいつが咲美さんを狙ってたんだ!?」

 寺田は乱れた呼吸を整えながら言った。

「あれが迎法師というアヤカシ。彼の顔に見覚えがあったようね」

「まさか三人目の行方不明者だった清川さんとはな。行方不明者の名簿に載っている顔写真を毎日、署で見ていたからすぐにわかった」

「迎法師は連鎖する。異界から現れた迎法師が一人目の犠牲者を連れ去る。一人目の犠牲者は迎法師となって、二人目の犠牲者を異界に引き釣り込んでしまう。そして二人目の犠牲者が迎法師となり、三人目の犠牲者を異界に引き釣りこむ。そして三人目の犠牲者が迎法師となって、咲美さんを異界に引き釣りこもうとした。四国地方には七人ミサキというアヤカシがいる。彼等は七人で行動し、一人の犠牲者を取り込んでは一人が成仏して七人ミサキから抜ける。迎法師 はそういうたぐいのアヤカシ。迎法師の特徴として、犠牲者と二度会うことが挙げられる。一度目は相手を誘惑するため、二回目は異界に連れ去るため。三人の行方不明者たちは連れ去られる前に、咲美さんのように迎法師と一度会っている」

「二回目に迎法師と会うときは一回目に会ったときに催眠術みたいなもんを、かけられた状態なんだろ?」

 寺田なりに推理したであろう問いだった。

「催眠術のようなものなら日常生活になんらかの支障が出るけど、咲美さんにそれは見当たらなかった。どちらかというと、対象者の心の隙や暗部をくことにけたアヤカシというべきかしら」

「清川さんは借金もないし、新婚で幸せのはずだ。そんな奴が迎法師の誘いに乗って失踪するもんだろうか?」

 尋常でないこの事件に、寺田は合理的な回答を得たいらしい。

「幸せというけどそれは一般的なもので、当人にしかわからない不満もありそうなものだけど。全国で一年間に失踪する人数は約八万人。その中には、他人からは幸せに見えた人もいるんじゃないかしら。迎法師が失踪事件にどれくらい関与しているのか、内調こっちでも正確な数は出せていない」

 咲美が深夜の街を歩くという行為に幸福を感じていたなど、私には想像もつかなかった。

 それは他人から見れば幸福であっても、不満が存在するかもしれない裏返しでもある。

 私が咲美の表層しか見えていなかったように、寺田も清川の表層しか見えていなかったのかもしれない。

「咲美さん、あなたは迎法師が見えていたわね?」

 私は後ろで立ちすくんでいる咲美に声をかけた。

「どうしてわたしに、あの人が見えているってわかったんですか?」

「こないだの代々木公園での会話よ。咲美さんは輪の鳴るような音を聞いたと言っていた。咲美さんが見ていないなら”輪”という、具体的な表現はなかったはず。それに行方不明者と輪の音と聞いて、すぐに迎法師が持っている錫杖の鉄輪を連想したの」

「咲美さんの目は見えているのか。信じられんな……」

 咲美の目を見て、寺田はそう言った。

「遡行者としての能力が強いんだわ。遡行者はアヤカシを見る力を持っていて視覚ではなく脳内に直接、その姿を捉えることができる。盲目の遡行者は稀にいて、咲美さんは以前からアヤカシを見ていたのかもしれない」

「前から変な生きものが頭のなかにちらつくことがあって、その中でもさっきの迎法師というのは今までで一番はっきり見えました」

「二人目の行方不明者が迎法師となって、三人目の行方不明者とこの路地で接触した。その場に咲美さんは居合わせたのよ。あなたの嘘が完璧だったら、私は後悔していたでしょうね。四人目の行方不明者が、この路地で出ることになったでしょうから」

 迎法師に魅了された者は異界に連れ去られる直前に誰かが手を引き、現世へと導く必要があった。

 それが迎法師との”縁切り”となり、狙われないようになる。

「清川さんが迎法師になったとき、なにかを囁かれたわね。なにを囁かれたの?」

 私は事件の概要を語り終え、咲美に聞いてみた。

「――お前の目を見えるようにしてやる、と言われました」

 横にいた寺田は咲美になにか言おうとしたが、口が微かに動いただけで言葉は出てこなかった。

「一度でいいから父と母や、遠見さんや寺田さんをこの目で見てみたかったんです」

 消え入るような咲美の声を聞き、真夜中の闇が私の両肩に重くのしかかるのを感じる。

「囁きは嘘ではない。だけど迎法師に連れ去られ、あなたはきっと硝子球のような偽りの瞳を与えられる。目は見えるようになるけど、そこに映っているものに心は動かない。迎法師になったら、感情を一切なくす。次の犠牲者を求め、夜の街を永遠に歩きまわるだけの存在になるのよ」

「ご迷惑をおかけしてしまって、本当にごめんなさい」

 私と寺田に、彼女は深々と頭を下げた。

 その目には大粒の涙が光っている。

 私は彼女を強く抱きしめる。

「遠見さん、わたし……っ!!」

 やがて、暗い路地に咲美の泣き声が響く。

 この事件で咲美が必死に求めたものは、あまりにも儚すぎる願いだった。

「あなたのことを誰も責めたりしない」

 表情こそ変わっていないが、私の声は哀しさで震えている。

「ありがとう。遠見さん、わたしなんかのために泣いてくれているんですね」

 咲美は私の感情を声から読み取った。

「大丈夫よ、あなたの心の瞳は曇っていない。その瞳があるかぎり、心が闇に覆われることはないわ」

 私はそう言い、咲美の涙を指先でぬぐう。

 寺田はこの場を私に任せ、路地から去っていく。

 ――それは夜明けまでは遠く、いまだ蒼い月光が降りそそぐ深夜の出来事だった。



 迎法師の件が解決して二週間後、私は咲美と昼下がりの代々木公園で会っていた。

 行方不明者が多発した路地は宮内庁に所属する陰陽師の少女によって鎮められ、いまは安全なものになっている。

「ずいぶん暖かくなってきましたね」

 盲導犬ミルトと並んで歩いている咲美は言った。

「もう五月だから、肌寒い日も減ってきた」

 初めて咲美と会ったときよりも、日差しは強さを増している。

「あれから、あの刑事とは会ったの?」

「あの方は、私と同い年の娘さんがいて紹介してくれました。数日前に寺田さんと娘さんとわたしの三人で初めてファミレスに行ったんです。また今度、三人で行こうと約束しています」

 寺田の年齢を考えればおかしくないが、娘がいると聞いて意外に感じた。

 もしかしたら咲美の家を深夜に張り込んでいたときに寺田がきてくれたのは、心配症な親心にも似た気持ちのせいだったのかもしれない。

「わたしは迎法師を初めて見たあの夜、見えることの恐怖を感じました」

 そういえば咲美は以前に『目が見えるから恐ろしい現実がある』と、ここで言っていた。

「最初、遠見さんの声は感情のない冷たい声に感じました。絶対に見なければ良かった……そんな辛い過去を遠見さんの声に感じたんです」

「あなたにはかなわないわね」

 会話によって他人の感情や過去を読む能力をコールド・リーディングと呼ぶが、やはり咲美はその才能がずば抜けている。

「遠見さんになにがあったのか、わたしは聞くつもりはありません。ですけど心に深い傷を負っているのは声から伝わってきます」

 私は咲美の発言を否定しなかった。

 両親を目の前で殺されたせいで、表情と声を失った経緯があるからだ。

「わたしはこれから精神科医を目指すつもりです。難しい道のりなのは承知してます。でも遠見さんのような方の力に少しでもなりたいから」

 心は目に見えない。

 だからこそ目の見えない咲美には、他者の心が見えるのだ。

「目が見えようが見えまいが、未来は誰にも見えない。だけど一つだけ未来に影響するものがある。それは本人の”おもい”よ。あなたなら、きっとなれるわ」

「そう言ってもらえると嬉しいです」

 咲美の目には、この公園できらきらと輝く新緑は映っていない。

 だが、私と同じ景色を咲美も見ているという確信があった。

 青空のもと、心地よい初夏の陽光が私たちを照らし続けていた。



――了――

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