肆話 鏡人




 東京地検の取調室に入って最初に見たのは、腰縄を椅子に結ばれて座っているヨレたワイシャツ姿の男だった。

 ワイシャツ男が逃走しないよう、側には留置係官が立って監視している。

「これはなんの冗談ですか。取り調べをセーラー服の女子高生が受け持つなんて聞いたことがない。東京地検も、よほど人材不足と見える」

 いかにも利発そうなワイシャツ男は言った。

「冗談ではありませんよ、斉藤さいとうさん。たった今から彼女が、あなたの担当官になります。挨拶が遅れました。警視庁捜査一課警部のさか暁仁あきひとです」

 後から室内に入ってきた久坂は床に黒いバッグを置きながら応える。

 三十二歳の彼は長身で整った顔立ちのせいか、ただ喋っているだけでもドラマに登場する俳優のようにえた。

「なぜ、警察がこの件に介入する? この手の事件は特捜とくそうが扱うと決まっているだろう」

「それについては後々のちのち、説明します。綾乃ちゃん、取り調べを」

 私は検察官の席に腰を下ろし、机の調書に目を移す。

斉藤さいとうしゅん、四十三歳。北海道帯広市出身。てい大学法学部を卒業。大学卒業と同時に政大せいだい党の村澤むらさわかず衆議院議員の秘書となる。理想の秘書として何度か雑誌取材やテレビ出演……あなたが、この斉藤俊二さん?」

 私は書かれている文章を適当なところで読むのを切り上げ、斉藤という男にいた。

「子供が検察官の真似事とはね。これは巷で流行ってる新しい遊びですか?」

 それが私に対する斉藤の皮肉なのは、久坂にも十分に伝わったようだ。

「お言葉ですが、この取り調べは政大党幹事長である稲辺いなべすすむ氏から、徹底的に事実を追求するように後押しされています」

「稲辺先生からだとっ!? 馬鹿なことを言うんじゃない。あの方は澤村先生と同郷で竹馬の友だ!」

 斉藤の表情筋が初めて大きく動いた。

「この女の子……失礼、女性は内閣情報調査室特殊対策室室長代理です。特例で本日の十時三十分より、臨時の検事総長となりました。正式な手続きどおり、内閣からの任命も受けています」

「君は法曹ほうそう界に疎いようだから言うが、検事総長は検事としての経験や裁判官としての経験などが必須なんだぞ!」

「先ほど言いましたが特例です。なんなら、他の方々のサインが入った書類を見ますか? これは検察の元締めである法務大臣の近永ちかながこう氏、こっちは内閣官房長官の井上いのうえ國一くにかず氏」

 斉藤は渡された封筒を鬼のような形相で確認した。

「これにどれだけの法的な根拠があるというんだ」

 私たちが準備した書類に法としての効力があるのかと嘲笑する。

「そうくると思ってたわ」

 私は言いながら、久坂に目配せした。

「どうせこの書類は、でっち上げなんだろう。検察ではよくある手だ。カマをかけ、相手を揺さぶろうとする。こんなことが法治国家である日本で通用するとでも――」

「通話状態です。是非、会話してください」

 斉藤の言葉はスマートフォンを持った久坂に遮られた。

「こんな物を渡されたところで……」

 渋々、スマートフォンを耳にあてた斉藤は顔面蒼白になる。

「まさか……いまは会談でアメリカなのでは…ええ……書類は本物!? はい…いえ、そんなことは決して! ……もう一度聞きますが書類は本物なのですか!? と、とんでもありません!」

 斉藤は頭を何度も下げ、電話向こうの相手に謝罪していた。

「君たちはなんなんだ!? 首脳会談で渡米しているぐち首相と直接、連絡を取るなど常軌を逸している!」

 現職の総理大臣との会話で疲労困憊したらしく、斉藤の容姿が十歳は老けこんだように見える。

「私が関係各省に念書を準備させるほど、異常なことが起きているのよ」

「澤村先生の収賄疑惑が、そこまでの大事とは思えない。何度も言うが僕はあの時間、赤坂の料亭で澤村先生と一緒にいた。これ以上なにも言うことはない」

「先月、九月十四日の二十一時、赤坂の料亭・けいちょうにあなたと澤村代議士はやってきた。そして翌日の零時すぎに二人は店を出た。一方、同日の二十二時半ごろ、六本木のバー・ソワレで広域指定暴力団の仁星会じんせいかい幹部と澤村代議士が目撃されている。その際、多額の不正献金が暴力団から澤村代議士に支払われたという容疑が浮上。しかし料亭にいたあなたは、澤村代議士のアリバイを主張している」

 私は調書の一部を読み上げたが、澤村代議士のアリバイを崩すことにしんしているわけではない。

 そんなものとは別件で、私はこの東京地検にきたのだ。

「澤村先生は僕と一緒にずっと料亭にいたんだ。六本木になんか行っていない」

「では、バーにいた人は誰かしら?」

「澤村先生によく似た人だろう。他人の空似なんて、よくあるじゃないか」

 斉藤は澤村代議士の賄賂疑惑重要参考人として、ここに勾留中であった。

 五十九歳の澤村和夫という男は利権の絡む荒事を専門に扱う、政界のハイエナとして近年では通っている。

 暴力団との癒着が噂されるのも初めてではなく、過去に何度かこうしたスキャンダルはあった。

 今回のように澤村代議士の身動きがとれないとき、斉藤は紙袋に数千万円の現金実弾を持ち歩き、関係者を買収してまわる。

 そのことから斉藤は澤村代議士の懐刀と呼ばれるまでになっていた。

「同じ人が別々の場所に現れるなんて、あるはずがないんだ」

「――いいえ、ある」

 私は机を挟んだ向こうにいる斉藤に言う。

「同一人物が二ヶ所同時に出現する言い方は様々だけど、代表的なのはドッペルゲンガー。日本では文豪のあくたがわりゅうすけが死の直前に見たとされている」

「最近の女子高生は、そんなデマを信じているのか。君は見た目が美しいんだ。僕みたいに賢い生き方をすべきだと思うが」

「ドッペルゲンガーを信じていないのね」

「澤村先生がバーにいたアリバイを証明するなら、やってみるがいい。もっとも、君らにそれができるはずはないがね」

「なにを言っているの? これからアリバイを証明しないといけないのは、あなたよ」

 斉藤は必死に、私の言葉の意味を考えているらしいが理解できなかったようだ。

「斉藤さんを勾留しているのは、澤村代議士のアリバイの他にもう一つあります。実は、あなた自身のアリバイなんです」

 会話を壁際で眺めていた久坂は床のバッグからタブレットPCを出し、そこに流れている映像を斉藤に見せた。

「これは名古屋にある病院の監視カメラ映像です。右下に表示されている日時は九月十四日の二十二時すぎ」

 タブレット画面に映ったのは、夜間のカメラ映像である。

 病院の受付入り口に備え付けられたカメラに男性が近づいてくる。

「この動画に出てくる人に見覚えは?」

 久坂はタブレット画面を見ている斉藤に質問した。

「これは――」

 幽霊でも見たように目を見開きながら、斉藤は言う。

「ここに映っているのは僕だ……」



 斉藤の混乱と昼食により、取り調べは二時間の休憩となる。

 私と久坂は取り調べ再開まで、東京地検のがらんとした会議室で過ごすことにした。

「まったく、綾乃ちゃんは人使いが荒いなぁ。いきなり呼び出して、大物議員たちの念書を取りにいかせるんだから」

「アヤカシやじゅぶつの絡む事件は人を選ぶ。一年前、あなたとは”ハコ”の事件で会ってるから、適役だと感じたの」

 久坂は紙コップに入ったパック緑茶を飲み干し、テーブル上にある茶請け皿の煎餅に手をのばした。

「あれも妙な事件だったがね……今回の事件の流れを教えてくれないか? 俺は君に言われるまま、念書集めで霞ヶ関や永田町を走り回ったんだ。そろそろ全体像くらいは把握しておきたい」

 立ったままで小気味よい音とともに煎餅をかじり、久坂は事件の説明を私に求めた。

「検察から内調うちに依頼がきたの。同じ男が同時刻、二ヶ所にいるって。さっき見た監視カメラの映像は、そのとき送られてきた。これは検察上層部のみしか知らない情報だから、マスコミもまだ嗅ぎつけてない」

「検察も訳がわからなかったはずだ。俺も一年前の事件を経験しなかったら、斉藤と同じように信じなかったよ」

「澤村代議士のアリバイ工作をしている斉藤、その男のかがみびとが事件を面倒にしてる」

「やっぱり、アヤカシってやつか?」

所謂いわゆる、二重存在よ。鏡に映ったように同じ人物だから鏡人。検察は頭を悩ませてるみたい。鏡人は法律を覆すような存在だし。二ヶ所同時に存在した人物を法で裁くなんて無理だわ。法律なんて所詮は人間に適用されるものだから、アヤカシは司法を扱う者には最悪の相手なのよ」

「どうりで、お偉方がすんなり念書を渡してくれるはずだ。法律そのものの、危機ってわけか」

 私は久坂の言葉に頷いた。

「澤村代議士のアリバイを主張する斉藤が東京から約350キロ離れた名古屋の病院に同時刻、現れたとする。赤坂の料亭にいたという彼のアリバイが崩れ、検察は賄賂容疑の本格的な捜査に乗りだす……とは、ならない。料亭従業員の話しではトイレに向かう斉藤が、その時間に目撃されている。名古屋と東京に二人の斉藤がいるかぎり、司法は手出しできない」

「もうアリバイ云々という話でもないな。迷信犯の類だ。君がなんで内閣情報調査室にいるのか納得したよ。要はのため、超法規的処置が取りやすい肩書が必要というわけだな」

「アヤカシは対象の社会的地位の高さなど関係なく出現する。だから斉藤秘書や澤村代議士のように政界の中心にいる人物さえも、首相や閣僚の圧力で強引に黙らせる力が必要。それが内調に属していることの意味なの」

「この事件はどうなる? 法律が効かないとはいえ、このままにしておくわけにもいかないだろ」

 久坂は東京地検に来てから初めて椅子に腰掛けた。

 斉藤の扱いが今後どうなるか、まるで展開が読めていないようだ。

「法律では裁けないといっても、別の方法で裁くことはできる。その切欠きっかけのため、刑事のあなたを呼んだ」

「澤村代議士の影響力のせいで、警察は手が出せなかったからな。綾乃ちゃんに頼まれて持ってきた念書は、すでに別の場所でも効果が現れ始めているはずだ」

 久坂は話しながら、嬉しさを隠せないでいた。

 それは大きな祭りが始まったのを、はしゃぐ少年のようだった。

「あと、そっちから預かってる名古屋の病院の証拠は、タイミングを見て出させてもらうからね」

「助かる。私は取り調べが専門じゃないから、あなたに任せたい」

「ああいうのは出しどきってものがあるんだよ」

 久坂のテンションの高さとは逆に、私は無表情で紙コップの中の薄いお茶を飲みつづけた。



 休憩後、私と久坂は取り調べを再開した。

「東京にいたはずの自分が名古屋の病院にいた。これで落ち着けなんてほうが、無理だと思わんかね。これはあからさまな捏造だ!」

 悔しいとか、怒りとか、そういったものとは別のものが斉藤の顔に浮かび上がっている。

 今の斉藤を表現するには、この言葉が適切かもしれない。

 ──困惑。

 なにかしら思い当たることはあるが、それを受け入れられないというような、あらゆるものがごちゃまぜになった心情。

 アヤカシは非常識な存在のため、普通の者は徹底的に拒絶する。

 道を歩いている野良猫が突然、人の言葉を喋ったとして、どれほどの人たちがその現実を認めることができるのか。

 言ってしまえばそういうことで、斉藤は至って正常である。

 この室内で異常なのは私と久坂のほうだ。

 一度でもアヤカシや呪物を体感してしまえば、この世界には未知なるモノがばっしていると自然に頭が理解してしまう。

「九月十四日の二十二時すぎ。あなたのスマートフォンに着信があった。これは認めるわね?」

 私は机の上にある調書に目を落とし、斉藤にたずねる。

「それは何度も聞かれている。連絡は妻のきょうからのものだ」

「どういう内容?」

「娘の理恵りえ喘息ぜんそくを患っていて、その発作のせいで名古屋の病院に担ぎ込まれた。恭子は動揺したんだろう」

「おかしいわね。あなたの自宅は世田谷区の成城のはずでしょ。何故、名古屋に奥さん……斉藤恭子さんがいるのかしら」

「それは……」

 私は、押し黙った斉藤の背後にいる久坂を見た。

「斉藤さんはそのことについて、勾留されてからずっと黙秘を続けているんだ」

 調書によると奥さんの実家が名古屋ということだが、別居しているわけではないらしい。

 世田谷区の自宅に報道陣が押しかけるのを嫌ってそうしているようだが、今回は異例なことが一つあるのだと休憩中に久坂は教えてくれた。

「澤村代議士のゴタゴタのたび、恭子さんと娘の理恵さんをマスコミから遠ざけるために名古屋の実家に連れて行くように指示しているそうね。いつもは二週間もすれば、世田谷の自宅に戻ってくるはずなのに一ヶ月半もその様子がない。これはどういうこと。娘さんも三週間前に退院しているんでしょう?」

「…………」

 私の問いに斉藤は黙秘を続ける。

 ――停滞した空気を破ったのは久坂だった。

「斉藤さん、これを見てください」

 久坂は小さなビニール袋に入った一枚のコピー用紙を斉藤に渡す。

 あれは私が前もって久坂に渡した、名古屋での証拠品だ。

 どうやらここを、取り調べの山場と踏んだらしい。

「それは娘さんが入院した名古屋にある大学附属病院の受付用紙です。あなたの指紋が採取され、筆跡鑑定でも極めて本人に近い結果が出ています。もう一人のあなたは間違いなく、喘息の発作を起こした娘さんのために病院へ駆けつけていた。東京の料亭にいたあなたと、病院にいたあなた。本当のあなたはどちらなんですか?」

 追い込まれたように斉藤の額には大量の汗が滲みはじめる。

「そ、それでは僕の作ったアリバイが崩れてしまう……!」

 取り調べのプロだけあって久坂は最高のタイミングで証拠品を出したらしく、斉藤の心をナイフのようにえぐったのは明らかだった。

「捏造に決まってる! 僕は赤坂の料亭にいたんだ!!」

 自分の知らないところで、もう一人の自分が動き回っていた――これを当人に認めさせるのは簡単なことではない。

 しかし斉藤の取り乱し方は、それだけでは説明できないものがある。

 澤村代議士への忠誠というには、あまりにも怯えが目立つ。

 アリバイ工作が崩れることよりも、別の何かに意識が向いているのではないか。

 椅子に座って小刻みに震える斉藤を観察していると、久坂のスマートフォンが鳴る。

「愛知県警からです。斉藤さん、名古屋で軟禁されていたご家族は無事に保護されました」

 斉藤は俯いていた顔を上げた。

「本当ですか!? 本当に恭子と理恵は無事なんですねッ!?」

 斉藤は立ち上がり、両手で久坂の体を揺する。

「これであなたは澤村代議士の二重存在という、下手な芝居に手を貸す必要はなくなったはずよ。真実を話すべきね」

 斉藤は足の力が抜けて椅子に座り、長い沈黙のあと、訥々とつとつと語り始めた。

「料亭に行く十日前、澤村先生からアリバイ工作するように言われていた。スキャンダルになるのを畏れ、名古屋にある恭子の実家に二人をすぐに逃がした。アリバイ工作の日、先生は夜の九時半ごろに料亭の裏口から、六本木のバーに移動したんだ」

「それは澤村代議士の犯罪幇助ほうじょについての自白と捉えていいですか?」

 久坂の発言に「ああ」と、斉藤は諦めたように答える。

「名古屋の実家に移って数日後、誰かから監視されていると恭子から電話があった。澤村先生に相談したらこう言われた。それは自分と繋がりのある暴力団だ、と。 今回の取り引きは重要なため、アリバイ工作でミスしたら恭子と理恵を海に沈めると言われたんだ。僕は名古屋で隠し撮りされた恭子と理恵の写真を見せられ、 澤村先生に”また二人に会いたいだろう?”と脅された。暴力団の組員は家を常に見張っていたため、安全なホテルに娘と移動しろと僕は恭子に電話で提案した。しかし彼らにそれを阻まれ、恭子は警察を呼んだそうだ。でも実害がないのを理由に、取り合ってもらえなかった。警察に澤村先生の力が、なんらかの形でかかっ ていたんだ」

 斉藤の自白を聞いても、私の表情は動かなかった。

 だが久坂の顔は二枚目な俳優然としたものから、残酷な事件現場に何度も立ち会ったであろう刑事になっていくのがわかる。

「澤村代議士に脅されていたから、アリバイ工作に加担したわけですね」

 警察手帳に斉藤の証言をボールペンで書き込み、久坂は言う。

「そうだ。それとは別に、先生を守りたかったというのもある。澤村先生のもとで何十年も秘書をやってきた恩がそうさせたのかな」

 斉藤はしわがれた声で呟いた。

 その言葉には澤村に対しての憎悪と畏敬が、混成されているように私には聞こえる。

「アリバイ工作の日、僕は澤村先生を守る覚悟をしていたんだ」

「その覚悟が名古屋からの電話でゆらいだ。あなたは娘の理恵さんが喘息発作を起こして入院したのを聞き、秘書からただの父親に戻ったんだわ。そしてあなたの強い想いが、名古屋の病院に鏡人となって現れた」

「あの電話によって、僕の心は二つに分かれたのかもしれない。本当は赤坂の料亭からすぐにでも、理恵が搬送された名古屋の病院に行きたかった。だからもう一 人の僕が名古屋に居たと聞いたとき、ほっとしたのが本音だ。僕には二重存在という現象が有るのか無いのか、まだ結論は出ていない」

「でも」と彼は言う。

「その、もう一人の僕っていうのが居てもいいんじゃないかと思い始めている。不思議なことだ」

「ここからは司法についてだけど。一人が二ヵ所同時に現れた処置は、その当事者がどちらに居たかを選択する権利がある。過去にも鏡人による、二重存在の判例があるの。こんなこと、裁判や取り調べの公式記録に残ってないけど。あなたは東京と名古屋のどっちに居たの? 今回の事件を裁くのは裁判官でも陪審員でもない、あなた自身よ」

 肩を落とし両手を膝についた斉藤は、心の中でなにかを決めたようだった。

「僕は、名古屋の病院にいたんだ。それが澤村先生と僕にとって、一番良い気がする。もしそうなったら料亭でのアリバイが無くなり、澤村先生は失脚するがね」

「さっきの愛知県警からの連絡で、澤村代議士も都内で確保されたと言ってました。その第一報では、秘書がやったことで自分は無関係だと供述したそうです」

 久坂が敢えて感情を殺したように告げたのは、彼なりのづかいだったのかもしれない。

「……僕が…澤村先生と初めて会ったとき……この国は…もっと良くなるって……それには…………君の力が必要だと…………澤村先生は理想の政治家で…澤村先生は…………ッ!!」

 そこから先、斉藤がなにを言ってるのか私には聞き取れなかった。

 しゃくりあげるようなえつをもらす斉藤の姿を、私と久坂はただ呆然と見守るだけだった。

 我が子のために鏡人を出現させた彼と信じていた者に裏切られた彼。

 その二つの事実は、まぎれもなく斉藤俊二という一人の身に起こったのであった。



 私が羽田空港の出発ロビーにたどりつくと、私服を着た斉藤がすでに待っていた。

「制服で来るなんて学校帰りかい?」

「いいえ。公務の合間に立ち寄ったの」

 斉藤は私の返答に頭を掻き、「そうなのか」と言う。

「あなたが実家に帰ると聞いてきてみたんだけど、見送りは私だけなのね」

 あたりを見渡した私は、そのことに気付く。

「どういう理由であれ、僕は第一秘書なのに澤村先生を守るのを放棄したからな。政界では裏切り者だ」

「その澤村代議士だけど、わざと発見されるように計画していたという供述が取れた。澤村代議士は六本木のバーにいたのをすぐ認めたの。あなたの指示に従って、六本木に向かったと言っていた。今までの収賄罪を、あなたにすべて被せたかったようね。赤坂の料亭にいたままだったら今頃、澤村代議士の罪をすべて押し付けられていたかもしれない」

「澤村先生が僕に罪を着せたかったのは知っていた。僕のことを脅したときから、そうではないかと疑っていたんだ。その手で秘書が罪を着せられて逮捕されるのは、よくある。政治家と言ってもピンキリでね。澤村先生はいつも閣僚入りしたいと言っていた。そのため、今までのダーティなイメージを秘書の僕のせいにして、クリーンなものに変えたかっ た……そのあたりが理由じゃないかな」

「あなたは二重存在である鏡人を信じることができたのかしら?」

「初めて聞いた時は信じなかった。でも、今は信じかけている」

 斉藤はズボンのポケットから古いお守りを出し、私に見せる。

「僕も子供の頃は体が弱く、それを見かねた祖母がこれをくれた。大人になってからも、これを鞄にいつも入れておいたんだ。でも奇妙なことに、これが名古屋の病院にあった。理恵がいた、集中IC療室Uのベッドに置かれているのを看護師が見つけたらしい」

 斉藤は、目を閉じた。 

 娘のように病床で過ごした時間を思い出しているのかもしれない。

「大学に入学したときは政治なんて興味なくてね。そんなころ、駅前で選挙演説していた澤村先生を見たんだ。国を変えるって、拡声器を持って大声で必死に叫んでいた。僕はあの人なら、本当にこの国を変えられるかもしれないと信じたんだ。昔の澤村先生は国民に信用される政治家でなければいけないとよく言っていた。……どこで澤村先生は変わってしまったんだろう。次第に事務所を出入りする者たちが、ガラの悪い連中になっていった。それでも僕は澤村先生のやり方を 信じていた。信じるしかなかったんだ」

 斉藤はロビーを歩く人々に目を向けた。

「澤村先生は変わってしまった。理想の政治家なんてどこにもいなかったんだな」

「これから、あなた自身が政治家になって、理想の政治というのををすればいいのに。簡単なことでしょ?」

 私は斉藤の目を見つめて言う。

 それが子供らしい、浅はかな考えなのは自覚している。

「僕も最初は君と同じように考えていた。しかし政界というのは、難しいところでね」

 斉藤は腕時計の時刻を確認し、搭乗時間まで少しの余裕があることに安堵したようだった。

「僕は理想を捨てたときから、君の言うカガミビトのように二つの存在になっていたのかもしれない。心では違うと思っても、現実は意にそぐわない流れに 従うしかない。僕は、もう一人の自分を怖くて見られなかった。理想から外れた自分を見る、もう一人の自分がもっと強かったら、澤村先生の罪を告発できたはずなんだ。僕は三流以下の秘書でしかなかった」

 私は滑走路の飛行機を眺め、なにも言わなかった。

 慰めが無力であることを、私はよく知っている。

 失ったなにかは、誰かの慰めで戻ってはこないのだから。

東京ここは、僕には大きすぎた。これからは喘息の理恵のため、僕の実家の帯広に住むことにしたんだ。あそこは空気が綺麗だからね」

 飛行機の搭乗時間になり、斉藤は近くのキャリーケースを掴んで自分の方に寄せる。

「理想の政治家になったら、アヤカシに手を焼く私に協力して。これは約束よ」

「いつになるかわからないけど、前向きに検討しておこう……こういう議員のような曖昧な言い回しってのは、昨日今日じゃ抜けないもんだな。君も元気で」

 斉藤はそう言って会釈し、家族の待つ北海道に帰っていった。



 ――三週間後。

 澤村代議士の賄賂事件を扱った写真週刊誌の一部が、東京と名古屋の二ヵ所同時に元第一秘書の斉藤が現れたと騒ぎ立てた。

 だが、そんな絵空事を誰も信じるわけがなく、凄まじい速度で事件は民衆から忘却されていく。

 アヤカシにとって都合の良い世の中は、これからも続いていくようだった。




 ――了――

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