陸話 口裂け女
東京都北区の王子で奇怪な噂が立つようになり、私に依頼がきた。
対象は、白いコートとブーツ姿の長髪女性で出現時刻は夜。
『その女の口は裂けていた』という目撃情報にも一貫性があり、通報された警察も無視できなかったようだ。
しかし警官が張り込んでみたものの、そういうときに限って出現しないのでアヤカシ専門の私が調査に参加する。
新宿の雑居ビルにある事務所のパソコンを使い、データベース化された過去のアヤカシ事件を掘り下げると全国的な騒動が検索で引っかかる。
発生時期は1979年(昭和54年)。
場所も王子の団地と被っており、今回の件と深く関係していそうだ。
私は以前に発生した事件現場の団地にタクシーで移動することにした。
「この住所までお願い」
運転手にプリントアウトした住所を見せると、タクシーは明治通りを北に向かって走りだし、王子の団地に到着した。
スマートフォンの時計を見ると午後二時半。
日没まで、時間はたっぷりある。
あたりの状況を確認するため、団地の中を歩いてみた。
老朽化が激しく、住人もすべて転居しているせいで生活感がない。
ここが昭和の高度成長期に建てられたのは、すでに調べてある。
建てられた当時はクジ引きで入居者を決めるほど、人気の団地だったようだ。
私の立っている通路では毎日のように子供たちが走りまわり、馴染みの主婦たちが立ち話しの華を咲かせる――そんな場面が昭和のころ、あったのではないか。
だが、今は違う。
表札のない部屋、腐食してボロボロになった手すり、誰とも会わない無人の通路。
ここには思い出しかない。
アヤカシは、そういう人々の思いが残る場所を好む。
階段を降りながら、白雲の広がってきた空を見た。
私には、笑っている父と母の顔が思い出せない。
思い出そうとしても、魂が空っぽになった人形のような母の顔ばかりが頭の中でちらつく。
私はそのせいで、昔の記憶に触れたくないのだ。
アヤカシが思い出を糧にしているのとは対極の自分に、皮肉さを感じずにはいられなかった。
児童たちの帰宅を促す、『夕焼け小焼け』の放送曲が聞こえてから二時間後。
団地前の通りは家路につく人たちの姿が目立つようになる。
私はその光景を団地敷地内の公園から、ブランコに乗って眺めていた。
こうしていると自分がアヤカシになった気分になる。
存在しているのに存在していない。
この二律背反こそがアヤカシを表現するにはふさわしかった。
それは人間でも起こりうる。
人はまったく関係がない者を気にしないものだ。
映画に出てくる名も無きエキストラみたいなもので、自分の人生に深く絡まない者は”その他大勢”として片付けられる。
だとしたらアヤカシと人間に差異などあるのだろうか――私がそんなことを考えていると、公園の入口で足音がした。
見ればそこには、白いトレンチコートにブーツを履いた長髪女性が立っている。
彼女がかけている大きなマスクが目を引く。
私は黙って彼女の様子を窺った。
私と彼女は、そうやって何秒か見つめ合う。
「――なにを、しているの?」
彼女に質問された。
どうやら会話できるようだ。
しかも、日本語を喋るだけの知性もある。
彼女はアヤカシのわりには実体の濃度が高く、肉声で会話してきた。
「ごめんなさい。マスクのせいでなにを言っているか、わからなかったでしょう」
彼女はマスクの紐に指を絡め、それを外した。
そこには耳のあたりまで裂けた口があった。
私はブランコに座ったまま、彼女を観察する。
口以外は至って普通ではある。
しかし、ファッションや髪型に古めかしさを感じた。
年齢は二十代中盤に見えるが、化粧のせいで正確な歳はわからない。
「マスクを外さなくても、あなたの声は聞こえている」
「……逃げないの?」
「何故、逃げないといけないの」
彼女は私の反応に困っているようだ。
「それとも私はポマードとでも、唱えればいいのかしら」
ポマードとは整髪料だが、その名称を三回唱えると彼女を退散させられるという噂が何十年も前に世間で流行った。
「懐かしい。それ、また聞けると思ってなかったわ。あと”わたし、綺麗?”なんて言ったことない。人間も勝手なものよね」
マスクを付け直した彼女の目が穏やかになる。
「隣、いいかしら?」
「別に構わない」
彼女は私の隣のブランコに腰を下ろす。
「もうすぐ大晦日だけど、今年はどんな一年だった?」
ブランコを漕ぎだした彼女は日常的な話題を振ってくる。
「今年は高校に入学した。それ以外は特になにも」
「本音を言うと、あなたが中学生か高校生かわからなかった」
このアヤカシの知性に私は驚いている。
思考が人と変わらない。
アヤカシはもっと大雑把な感情表現だったり、意志表示をする。
人の魂と同化していると、より人らしくなるが彼女からそういった雰囲気は感じない。
アヤカシ単体として、ここまで人らしさを形成しているのは貴重な事例である。
「わたしは気付くと、この格好で公園に立っていた。それから自分がどうしてここに居るのか、人間たちに聞いてみようとしたの。でも、みんなわたしの裂けた口を見て逃げ出した。わたしの真似をして逮捕される人まで出てきて、当時は呆れたものよ。本物なんて、わたしだけしか居ないのに……」
ブランコを漕ぐのをやめ、彼女は両足を地面につけた。
「この団地から離れようとしたけど、敷地からどうしても出られなくて。それから姿を消し、ここから人間たちを何十年も見てきたの。そうすれば自分がどうして存在しているかの意味がわかるんじゃないかって」
「その答えは出た?」
「ううん。それでもなんとなく答えに近いものは見つけたつもり。わたしは落ちている新聞や雑誌を読み、人間たちが自分を妖怪とか都市伝説と呼んでいるのを知った。そして少しだけ、わかったのよ。過去と未来の狭間から生まれた、
アヤカシが自己の存在意義を求めるのは、私の関わってきた案件の中では初めてだった。
しかも、私が考えるアヤカシの概念と見解が一致している。
「最近、また出現するようになった理由を聞かせて」
これは確認でしかない。
彼女が今になって現れた理由は、この地域の都市計画に由来しているのを察している。
「二日後から、この団地と公園で大きな工事が始まる。最後に誰かと話したかったの。何十年もここにいて、人間とまともに会話したのは今日が初めて。みんな、マスクを外すと逃げてしまう。でも、なぜかしら……あなたとは普通に話しができるんじゃないかと思ったの」
この周辺は再開発地区に指定され、この公園と団地の場所には高層マンションとショッピングモールが建設される予定になっていた。
彼女のようなアヤカシは地縛型とされ、特定の場所に残る記憶を頼りに存在している。
敷地内から彼女が出られなかったのはそういうことだ。
この土地での再開発は彼女にとって消滅を意味する。
最期の近づいたアヤカシが人前に出てくるケースは、以前にも何度か遭遇した。
「あなたは自分が消えることに気付いたわけね」
「私は思い出の中でしか生きられないから。あなたが生まれる、ずっと前の話し。ここの夜はこんなに明るくなかった。八十年代からコンビニや二十四時間営業の飲食店が出来て、街にはたくさんの灯りが点くようになったの。この公園には子どもたちがたくさんいて私は姿を消したままベンチに座り、その様子を眺めていた。でも、十年くらい前から子供が遊びに来ることもなくなったわ」
私の乗っている塗装の剥げたブランコが軋む。
このブランコが新品だったころ、公園は子供たちの笑顔で満ちていたのかしれなかった。
「わたしもあなたみたいな人間に生まれて、普通の家庭というものを持ってみたかった。どうして、こんな姿に生まれちゃったんだろう。神様というのが居たとしたら残酷よね」
彼女はブランコに揺られながらつぶやく。
暗がりの先に黒い墓標のような団地が見えた。
あそこには人々の記憶が埋まっているのかもしれない。
だとしたら、アヤカシの彼女は
そして誰も訪れなくなったここは彼女ごと消されようとしている。
変わりゆく景観に異議を唱えるつもりはなく、街並みは時代によって最適化されていくのは私も知っていたし、見てきた。
いつか私も何処かに埋められるほどの記憶を手に入れることができるのかしら。
思い出すことさえ苦痛な過去を捨て、大人というものになれるときが――。
「過去からは誰も逃げられない。あなたもそうよ」
「私の心を読んだの?」
「高校生の女の子が考えそうだなと思っただけ。もし仮に記憶を簡単に捨てられるほど人間が器用だったら、この街はここまで大きくならなかった。後悔と悲しみが、人を前に進ませることもあるってことよ」
彼女はここに発生してから、ずっと自分の存在意義を追ってきたはずだ。
――私はどうだろう。
『あなたが何者なのか、内調の特殊対策室にくればわかるかもしれない』
遡行者である先代の言葉が脳裏をよぎった。
無機質な白い病室で、ただ漠然と過ごしていたあの頃。
両親の死によって人生が滅茶苦茶になり、どう生きていけばいいのかと途方に暮れていたときに先代と出会った。
「私は何者なのかしら。夢も希望もなく、ずっと闇夜の中を彷徨うような生き方、人間を羨むあなたには奇異に映るでしょうね」
私は知りたかった。
この団地で何十年も存在意義を考えてきた彼女が、どのように答えるかを。
「自分が何者なのかを知っている人は、あまりに少ないわ。もし、それを知ることができたら、この世界をもっと別の角度から見られると思うの。でも残念ね、わたしには時間が無い」
彼女と私が求めているものは、どうやら一緒のようだと感じた。
「あなたに見せたい、お気に入りの場所がある」
彼女はブランコから立ち上がり、団地のほうに歩きだす。
着いたのは団地の最上階である五階通路の行き止まりだった。
「団地の公園で遊んでいた子供たちは大人になって、あのたくさんの灯りの何処かにいるのね」
彼女は南西で輝くサンシャイン60の灯りや、遠くのビル群を眺めながら言った。
私も彼女と同じように夜景を見る。
「此処にいながら向こうにも存在できる大人は、もしかしたら居るのかもしれない。一度もそんな人とは会っていないけど」
遡行者のほとんどは大人になると、その力を失う。
しかし遡行者の中には能力を失うのとは別の末路を辿る者もいる。
アヤカシに魅入られ、この世界から消失してしまう。
旧くは神隠しとさている現象だが、私の身近な人物――先代がそうだ。
先代は優れた遡行者だったが、それゆえにアヤカシのいる異界へと自ら足を踏み入れ、
先代が現世にいた最期の様子は内閣府の地下にある、最重要機密保管庫に動画データとして収蔵されている。
「私は大人になっても、あなたたちを見られる?」
「わからない。でも素質はあるようね」
「本当は人間よりも、あなたたちと話していたほうが楽なの」
それは誰にも話したことがない、私の本心だった。
以前に殺人という人間の狂気を目の当たりしたのが、その
その
「今まで、なにか辛いことがあったようね」
彼女はそれきり、なにも言わなかった。
――ごう、と空で風が鳴る。
大気が澄んでいるため、彼方の街明かりは一層、綺羅びやかに見えた。
「あなたたち人間とわたしたちには、大きな違いが一つだけある。未来があるかないか……これが人とアヤカシとの決定的な差。わたしには、未来なんて無い」
そう言った彼女は私のように無表情である。
私が生まれる前から存在するアヤカシが膨大な時間を費やして出したであろう、人間との違いはあまりにシンプルだ。
初対面のこのアヤカシに、心の
彼女は、私に似ているのだ。
でも彼女のほうが、私なんかより毅然としている。
そこには超えられないであろう、アヤカシとして生きてきた年月という壁が存在しているのかもしれなかった。
「あなたには未来がある。だからわたしの分まで、この街が変わっていくのを見届けて」
彼女の声には覚悟があった。
もっと早く出会っていれば良かったのに──奇妙にも、このアヤカシにそんな気持ちを
「一年後の今日、またくるわ。ここがどう変わったかを見にね」
「そのころには、あなたの背が伸びているかもしれない。高校生は成長期でしょうから」
私にはもう会えないのを知りつつ、彼女はそう言って微笑む。
お互い、さよならは最後まで言わなかった。
あれから一年が経った。
深夜のここには団地があった形跡などまったくない。
近くでは高層マンションとショッピングモールの基礎工事が始まり、大きな鉄板と鉄柵で中に入れないようになっている。
私は通りから、一年前に眺めたサンシャイン60を発見した。
「背が一センチ伸びたの。あなたが言ったとおりだった」
その言葉に答える者は、誰も居なかった。
そして私はアヤカシの彼女が思い出になっていることに言いようのない寂しさと、心の疼きを感じた。
しかし、振り返りたくない過去ではなかった。
むしろ、忘れたくないものだ。
こうやって人は前に進んでいくのかしら──吐いた息が白くなるのを見つめ、胸中でつぶやく。
団地が壊されてから一年、この付近で口裂け女が現れたという報告は一度も入ってきていなかった。
――了――
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