弐話 八尺様
「一週間前の午後五時あたり。二メートル以上は確実にあったな。とにかく、あり得ないくらい背の高い女がオフィスの窓からこっちを見てた。彼女は帽子に白いワンピース姿。オフィスにいた全員が見てね。オバケって、あんな場所にも現れるんだなって驚いたよ」
「報告そのままね」
「報告?」
彼は黒縁眼鏡のレンズを、おしぼりで拭いてかけ直す。
「あなたのオフィスの近くにいた通行人たちも、その大女を見たということ。異界化してない状態でアヤカシが出現すればSNSなどで噂が広がる」
「オフィス以外の他の人たちもあの大女を見て、ネット上で話題になっている。そういうこと?」
「そういうこと」
私はメロンソーダフロートに浮いたバニラアイスを、
今日は梅雨明けの猛暑日。
そのせいで店内は涼しさを求める客たちで混んでいた。
「これ、自己紹介」
セーラー服の胸ポケットから、名刺を出して渡す。
「内閣情報調査室……君は綺麗な女子高生にしか見えないけどなぁ。内閣ってくらいだから公務員なのか?」
「去年、高校に入学してから、この仕事を始めた。都市伝説や妖怪を専門に扱ってる。これ以上は守秘義務なのでノーコメント」
「俺以外にもあの大女を見た人は多いから、他をあたってみるのもいいだろう」
グラスのアイスコーヒーを薬指に指輪を嵌めた左手を使ってストローで飲み、彼は助言してくれた。
「大女の目撃者は複数いるけど情報提供で会ってくれる人は、あなたしかいなかった。他の人は気味悪がって話そうともしない」
「なるほど。遠見さん、いい気晴らしになったよ。俺は会社に戻る。昼休みが終わりそうなんでね」
レジで会計を済ませようとする彼の背に、私はこう言った。
「あなた、”彼女”と会ったのは二度目ね」
センサーが反応して自動ドアが開いたが彼は立ち止まり、喫茶店から出ていこうとしない。
「一度目は、たぶん小学生のころ。あなたは肝心なことを、まだ私に話していない」
「……まいったな。ただのオカルト好きな女子高生かと思ったけど本物のようだ」
私たちは駅前のショッピングモール屋上に場所を移した。
ぬいぐるみの入ったUFOキャッチャーなどが置かれているが、冷房の効いていない屋外のせいで人影ははまばらである。
「これは今年一番の暑さになるな。昨日は雲があって涼しかったのに……」
鉄柵の向こうに
「遠見さん、生まれは
私は「東京」と、短くこたえた。
「なにかの本で読んだが統計によると、東京の人たちの約半分が地方出身者らしい。俺は、その半分の方でね。子供のころ、山口県にいたんだ」
私は眼下の山手線を出来のいい鉄道模型のようだと思いつつ、話を聞いている。
「十歳のとき、父がギャンブルで大損した。初めは趣味と割り切っていたそうだ。それがいつの間にか闇金にまで手を出し、ギャンブルに突っこむようになった。気づいた時には手遅れ。父は借金取りだけでなく、俺たちからも逃げた」
話しをそこで区切り、人差し指で真上を指してから、迷ったように真下を指す。
「逃げた先は……天国、いや地獄か。学校から帰ってきたとき、自宅の居間で首を吊っていた。そういうときって、悲鳴なんて出ないもんだよ。それどころか冷静になる。すぐに警察を呼んだ。あのときの細かいことは、あまり覚えてないな」
記憶そのものを無かったことにしたがっているような、そんな乾いた声だった。
「俺と母は逃げるようにして埼玉県にやってきた。そこで一年が過ぎたときだ。母は最新の携帯ゲーム機を買ってくれた。嬉しかったなぁ。でも、 不安だった。家計が苦しいの、子供の俺にもわかっていたからね。不安は当たった。数日後、母は倒れた。末期
屋上の鉄柵に背を預けた彼は、コンクリートの地面に落ちた私の濃い影を俯き加減で見ている。
「両親を失ったその後は、お約束みたいなものだ。俺は神奈川の親戚に預けられ、ずいぶんと肩身の狭い思いをした。そんな小学六年生のとき、彼女と会った。場所は夕方の神社だ。彼女は白いワンピースを着て白い帽子を被った、髪の長い大女だった」
「彼女はアヤカシの
「そうそう、なんだか変な声だった。その……大女の八尺様とかいうのは、神社の階段に座っている俺の隣に座ったんだ。彼女は、まったく怖くなかった。 すぐにわかったよ。彼女も俺と似たようなもので、友達もおらず、両親もいないんだって。一人なのかって聞いたら、ぽぽぽって言って頷いた。あまりにも可哀 想だから、母に買ってもらった携帯ゲーム機を彼女にあげた。いつも持ち歩いてたけどソフトは一本しかないから、とっくに飽きちゃってたし。気づいた ら、彼女は消えていた。妙なこともあるもんだ。その二日後、俺は東京にいる別の親戚に預けられた。神奈川の親戚に鬱陶しく思われていたみたいで、それならと東京の親戚が引き取ったらしい。そんなわけで中学入学から、東京に住むことになった。その後も面倒は起きたが、両親がいなくなったことに比べれば大したことじゃない」
「八尺様と会話できたということは、遡行者としての素質があったようね」
「彼女と話ができたというか、なんとなく相手の感情がわかったんだ。あのさ、ソコウシャってなんだい?」
「アヤカシ……妖怪を見る感覚を備えた者。子供に多いけど、成長とともに遡行者の能力は薄れていく。目撃者を多く出してまで八尺様は実体としての濃度を高めた。よほど、あなたに会いたいらしい」
「俺に会いたいとして、用件はなんだろうね」
「それは彼女本人から、聞くしかない。あなたが見てから一週間も経っているのに接触してこないのは、会うのを自重しているのかも」
「あんなオバケが、気を遣うなんてことがあるのか?」
「彼等は人間の感情に敏感よ。八尺様は積極的なアヤカシではなく、人前に現れることが稀なの。それだけに私も気になっている。彼女が特定の個人に街中で会 おうとするのは、あまりないことだから。あなたがよければ今夜、彼女と会ってほしい。人通りが少なくて、静かで、暗いところ。それがアヤカシの発生しやすい条件の場所。手間を取らせないよう、その場をこの近くに用意する」
「会うのはいいが、そんな場所が
彼は時計回りに、ぐるりと周囲を見渡した。
どこもかしこも灰色のビルだらけのせいか、頭上にはクエスチョンマークが浮かんでいる。
「詳細は後ほど、連絡する」
「それはそれとして、わからないことがある。俺が彼女と会ったのが二度目だと、どうしてわかったのかということだ。いつから、わかっていたんだい?」
「勘よりは確かなものよ。八尺様と会うのが二度目だとわかったのは、目撃証言をしてくれると返事を貰ったときから。喫茶店で話したけど、あなたを除いた目撃者たちはアヤカシを見たことに怯え、私に証言するのを拒んだ。こういった証言者の半数以上は過去にアヤカシと接しているとか、どこか慣れた部分があって。アヤカシの耐性とでもいうか、そういうものを身につけている。だけど、それが確証のすべてではない。あなたが八尺様と会ったのが二度目だとはっきりわかったのは、会話の雰囲気。まるで
「小学生のときの俺は人付きあいが苦手なうえ、転校ばかりしていたから友人と呼べる者がいなかった。八尺様くらいだ、二十年も経ってから会いに来た友人は」
彼は眩しげな表情で空の白雲に目を移す。
二十年前に会ったアヤカシが自分と再会したがっている――私なら、なにを思うだろうか。
例えば彼のように人生の不幸な時期に会ったとしたら、昔の辛さを連想して陰鬱とした気分になるのかもしれない。
なんにせよ私は遡行者としての能力以外は普通の十七歳でしかなく、彼の複雑な過去をどうすることもできなかった。
――午前二時。
私が手配した黒塗りの乗用車から、彼が降りてきた。
「人通りが少なくて、静かで、暗い。確かにここは全部の条件をクリアしてる。関係ないけど君って、こんな時間でも制服なんだね」
「すでに使用許可は取っている。入りましょう」
私たちがいるのは廃校になった元小学校の校門前である。
少子化による生徒減少のため、昨年の春に閉校していた。
「夜の学校は不気味だな。君の言う遡行者じゃなくても、得体のしれないものを見てしまいそうだ」
「学校はアヤカシが現れやすい環境よ。人が集まれば集まるほど、目立ちたがり屋のアヤカシが発生しやすい。だけど、八尺様はそういうアヤカシではない」
私は人前に姿を現した八尺様に興味がある。
言うなれば、真夏に雪が降ったほどの超レアな現象なのだ。
「彼女を呼ぶために、お経や呪文を唱えたりしないのかい」
「そんなものはいらない。ただ待っているだけで彼女はきっと現れる」
校庭の真ん中で、私たちが八尺様を待っていると急に気温が低くなった。
深夜の蒸し風呂のような都内の暑さから、一気に早朝の高原のような涼しさ――これはアヤカシが出現するときの前兆である。
「来るわ」
彼も異変を感じ、顔が強張っていた。
『ぽっ……ぽぽぽぽ…ぽぽぽ……』
奇妙な声がしたかと思うと、真っ暗な校庭の奥から、白光をまとった人影が現れる。
それは白いワンピースに、白い帽子を被った八尺様だった。
音もなく、私たちの前にやってきた彼女を見上げる。
名前どおり、二メートル半ばに達するほどの大女だ。
「安心して。この八尺様は友好的だわ。会話が成立するくらい理性がある」
私は彼女の緑色の目を見ながら言った。
「俺になんの用だ?」
緊張した表情の彼が訊ねると、八尺様は大きな白い右手を差しだしてきた。
おずおずと手を伸ばし、彼はなにかを受け取る。
「こんな物を、わざわざ返しに来たっていうのか。二十年以上も前だぞ……」
彼の手に握られていたのは、古ぼけた携帯ゲーム機だった。
「彼女は、それを返しにきたようね。きっと携帯ゲーム機に残っていた、あなたと母親の思念を読み取り、大切な物だと思ったのよ」
『ぽぽ……ぽぽぽぽぽっ……ぽぽぽぽぽぽぽぽ』
八尺様は私と彼を見てから、ゆっくりと背を向けた。
最初の八尺様の後ろに数人の別の八尺様が現れ、彼女たちは列をなして遠ざかり、そのまま闇に溶けて消える。
「彼女には友だちの八尺様ができたのか。良かった。一人は退屈で詰まらないからな」
彼は子供のころを思い出したように呟いた。
「あんなに友好的な八尺様もいるのね」
「彼女って、もっと恐ろしいのか?」
「八尺様のほとんどは単独で行動して少年を
アヤカシのすべてを、私は理解できるわけではなかった。
しかし、さっき会った八尺様は別の八尺様を連れていたことから、寂しさを克服したのは確かなことだ。
「俺は半月後に結婚する。父親があんなだし、子供ができたら自分は父親としてちゃんとやっていけるんだろうかと、それだけが気がかりでね」
持っている古い携帯ゲーム機のボタンを懐かしそうに押して彼は言う。
「子と親は違う。八尺様のすべてが、人を傷つけるのとは違うように。それに、あなたはもう孤独じゃない。守るべき大切な人がいる」
「君って無表情なのに、そういうことをさらっと言うんだな。恐れ入ったよ。結婚式に呼びたいくらいだ」
「式には出れないかもだけど、子供の写真くらいは送ってきて。あとで新宿にある事務所の住所を教えるから」
私たちは八尺様が去った校庭の暗がりを、いつまでも見つめ続けた。
高校卒業を二ヶ月後に控えた、冬のある日。
新宿の事務所に一通の葉書が届いた。
差出人の名前は木原友康と書かれている。
葉書の裏面には”生後三ヶ月になりました”と書かれ、写真の赤ん坊の手には古ぼけた携帯ゲーム機が握られている。
そして遡行者の私にしか見えないが、白いワンピースの裾が写真の端に写っていた。
木原家には姿を消した八尺様が訪れているらしい。
きっと彼女は、あの家庭を見えざる災厄から守ることにしたのだろう。
それは二十年前に孤独を癒してくれたかつての少年に対する、アヤカシなりの感謝なのかもしれなかった。
――了――
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