3. 昔の話(1)

「さみしい」という言葉と、「かなしい」という言葉の意味を、エセルは6歳の時に知った。



 あの頃、エセルは父と母を相次いで亡くしたばかりだった。

 使用人達は他の貴族の屋敷へつぎつぎと引き抜かれていった。

 大勢いるはずの親戚は、誰もエセルを引き取ろうとしなかった。

 だから、大きくて誰もいない空っぽの屋敷に、エセルは一人で住んでいた。

 いつも二階の部屋にいて、ことあるごとに椅子に登っては、窓から屋敷の門を眺めていた。

 門が開いて、馬車が入ってきて、屋敷にお客様がやってくるのをずっと待っていた。


 父も母もいた頃は、毎日のようにお客様があって、屋敷中がにぎやかだった。

 うつくしい貴婦人たちや、一分の隙もなく装った紳士たちが訪れて会話に花を咲かせていた。

 父も母も楽しそうに笑っていた。


(あの人たちは、どこに行ってしまったんだろう)


 父と母がいなくなってしまったから、もうここへは来ないのだろうか。

 エセルのことをいつも可愛いとほめてくれたおばさまもおじさまも、母のお葬式にさえ来てくれなかった。

 ほかにご用事があるのだろうか。

 それとも、エセルのことなど忘れてしまったのだろうか。


 両親を亡くしてしばらくの頃は、毎日毎日、ずっと泣いていた。

 それがある時から、泣くことにさえ飽きてしまって、そして、泣いても両親は戻ってこないのだと理解して、エセルは何をすればいいのかわからなくなってしまった。


 抜け殻のような状態で、ただただぼんやりと、何ヶ月も過ごした。

 そして、ある日のこと。長らく閉ざされたままだった屋敷の門が開いて、王家の紋の入ったきらびやかな馬車がやってきた。

 エセルはいてもたってもいられず、使用人の制止を振り切って玄関ホールを飛び出した。

 この世界に、エセルを忘れずにいてくれた人がいるのだと思うとうれしくて、待ちきれなかった。

 馬車から降りてきたのは父の甥のアレクで、物心ついた時からのエセルの遊び相手だった。

 彼の顔を見た途端、エセルはぼろぼろと泣き出してしまい、到着したばかりのアレクをびっくりさせてしまった。

 アレクはいつものように優しい声でエセルをなぐさめてくれて、そのことがなによりうれしくて、アレクだけは変わらずにいてくれたのだと思うとふしぎとまた涙がこぼれてしまった。


 いつまでも泣き続けているエセルのそばに、アレクはずっといてくれた。

 ぎこちない手つきでおずおずとエセルの髪を撫でながら、何度も優しく、約束をしてくれた。

『ずっといっしょにいるよ』

『ひとりにしないよ』

『エセルのお父さまとお母さまのかわりに、ぼくがエセルの家族になるから』

『大きくなったら、エセル、ぼくとけっこんしよう』

 その約束がどんな意味を持つものか、エセルはほとんど理解していなかった。

 ただ、ここでうなずけば、これから先も、ずっとアレクがそばにいてくれるのだということだけは理解できた。

 だからエセルはうなずいて、約束をした。

 もう二度と、一人ぼっちにはなりたくなかったから――――。


 *


 目が覚めてすぐ、夢を見ていたのだと気付いた。

 ひどく頭が痛かった。長く夢を見すぎたせいかもしれなかった。

「よりによって、あんな夢……」

 ため息を重く吐き出して、痛む額を押さえ、しばらくエセルは動き出すことができなかった。

 だが、いつまでもそうしている訳にはいかない。寝室の扉がノックされ、侍女たちが朝の身支度を手伝うために入ってくる。


 のそのそとエセルは起き上がって、顔を洗い、口をゆすぎ、午前用のゆったりしたドレスを身につけ、髪をとかしてもらう。

 身支度が整い、食堂へ移動するために立ち上がったついでにちらっと窓の外を見ると、太陽はだいぶ高い位置にある。そばにいた侍女に時刻をたずねると、朝というよりは昼に近いような時間帯だった。

 歩いて階下の食堂へ降り、大きなテーブルに用意された一人分の席へ座る。

 まだ頭が重く、食欲がなかったので、ちびちびと時間をかけて薄いトーストを一枚だけかじった。それから新鮮な果実を搾ったものをグラスに半分と、砂糖入りの甘い紅茶を飲みながら、家令から今日の予定を聞く。


「本日はアーガイル公爵家を訪問するお約束になっていますので、あと二時間ほどで当家を出発するおつもりでいてくださいまし。それから――」


 ふんふんと相槌を打ちながら話を聞き終えると、食堂を出て、なんとなく庭へと向かう。とくに目的もなくふらふらと庭園の植え込みに沿って歩き、噴水をぐるりと回ってから引き返すと、ちょうど向こうから侍女のジルがやってくるのが見えた。


「エセル様! お召替えのお時間でございます!」

「早いね。舞踏会でもない、ただの顔見知りとのお茶会なんだから、そう気合を入れて装わなくても」

「まあ、なんてことを。本日お会いなさるアーガイル公爵家のレディローズ嬢といえば、当世きってのファッションリーダーと言われるほどの方ですよ。エセル様がどれほど素材に恵まれた美少女であるとしても、生半可な装いではレディローズ様の及第点はいただけませんわ」

「いや、べつにファッションチェックをお願いしに行くわけではないのだけれど」

「さあさあ、ご希望は後でうかがいますわ、まずはお部屋へ戻りましょう」


 半ば追い立てられるようにして自室へ戻ると、その他の侍女たちも勢揃いしてエセルを待っていた。エセルは流行にもおしゃれにも疎いので、あらかじめ言いつけておいた通りにドレスは五枚程度にまでしぼりこまれている。

 どれになさいますか、と問われて、どれでもいいとは言えず、適当に一番右端のものを指差した。淡い紅色の生地に同色のレースをふんだんにあしらったドレスで、エセルの衣装にしてはずいぶんと可愛らしいデザインだ。

 こんなもの持っていたっけ、と言いかけて、思い出す。去年の誕生日にアレクから贈られた衣装のなかの一着だ。


 ドレスが決まれば、あとは手慣れた侍女たちが、人形の着せ替え遊びのようにしてエセルを見られる姿へ飾り立ててくれる。

 今身につけているドレスを脱がし、体型を整えるための下着をつけて、新しいドレスをまとう。そして、髪はどのように結いますかとか、アクセサリーはこれがいいだのそれはダメだの言い合いながら侍女たちが提案してくるものにただうなずく。

 身支度がすべて終わった後、エセルは姿見の前に立っておのれの姿を検分してみた。

 淡い金の髪は紫のリボンを編み込む形で一部分だけ結い上げている。アクセサリーはあまり目立たぬ大きさの水色の石の耳飾りだけをつけている。幾重にも重なった繊細なレースが胸元の印象を華やかにしてくれるおかげで、首飾りをつけなくとも物足りなさはなくてほっとした。エセルはイヤリングだのネックレスだの、ぶらぶら揺れてだらしなく垂れ下がる形状のアクセサリーが好きではないのだ。


 さて、着替えも終わったし一息つけるかと思っていたら、出発の時刻が迫っていると言われ、侍女たちに口々にせかされながら部屋を出て玄関ホールまで向かう。

 エセルは使用人たちに見送られながら、侍女のジルとともに馬車に乗り込んだ。その後、扉が閉められて馬車はゆっくり動き出す。

 結い髪をぶつけないように気をつけながらクッションにもたれて、エセルはほっと息をついた。


「なんだか大騒ぎだったね。皆、やけに気合が入っていなかった?」

「気合も入るというものです。あのアーガイル公爵家をお訪ねするんですもの! そうでなくとも、エセル様がご自分から、お出かけしたいとおっしゃるなんて何年振りか……私を含め、侍女たちも、使用人たちも、一同大喜びしております」

「はは」


 エセルは短く笑って、目を伏せた。

 屋敷の者たちは、知らないのだ。エセルがアレクとの婚約解消を望んでいることも。そのために半年前、アーガイル公爵令嬢レディローズのもとを訪れて、悪役令嬢の仲間入りをしたことも。

 知らずに、エセルの変化を喜んでくれている。そして、きっとこう思っているだろう。社交界から何年も遠ざかっていたエセルお嬢様が、ようやくもう一度、外の世界に出られるようになったのだと。おしゃれをして、王家主催の舞踏会にも出席して、普通の貴族の令嬢のように暮らし始めて。ああこれで、きっと、これからすべてがうまく行くようになる、と。


 本当のことを知ったら驚くだろうなと思うと、口元の笑みに苦いものが混ざる。

 彼らの期待に背くことを思うと、胸が苦しくなる。

 皆が、自分とアレクの結婚を待ち望んでいることは知っている。王子である彼と結婚さえすれば、国王陛下の冷遇も解けるだろうと考えていることも、知っている。


 でも、その道を、エセルは選ばないのだ。

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