2. 婚約解消の申し出
演奏されていた曲が終わり、続けて明るい調子の新たな曲が始まる。
そのタイミングで大勢の踊る男女のなかにエセルとアレクは紛れ込む。衆人環視の中、堂々と体を近付けて秘密の会話をするには、ダンス以外に方法がない。
ゆっくりと流れるリズムに合わせてステップを踏みながら、用件を切り出すための言葉を探して、いつまでもエセルは口を開くことができないでいた。
「ひさしぶりだね、エセル」
「……ええ、そうだね」
「ずっときみに会いたかった。会えてうれしいよ。――驚くくらい、きれいになった」
お世辞だとわかっていてもうれしかった。そんなことをエセルに言ってくれる人はアレクだけだ。
今までも、これから先も。
「ありがとう。アレク、きみも、大きくなったね」
「そうだよ。僕ももう子供じゃない」
ほんの少し、彼の声の調子が揺らいだ。
だが表情は変わることなく、瑠璃色の双眸にやさしい光をたたえてエセルを見つめている。
「本当は、もっと早く、エセルを迎えに行きたかった。遅くなって、ごめんね」
「アレク…………」
違う。この三年間、ずっとエセルがアレクから逃げていたのだ。
それなのに、アレクはまるで自分が悪かったかのように言う。彼はけして、エセルを非難する言葉は口にしない。
そうやってずっと彼に気遣われていたことに、かつてのエセルは気付くことができなかった。
幼馴染のアレクはいつもそばにいて、いつも優しくて、それが当然だと信じて疑いもしなかった。
自分がどれだけ得難いものを与えられているのか、どれほど恵まれているのかなんて考えたこともなかった――三年前に”ある人”の口から教えられるまでは。
ずっと彼の優しさに甘えていた。エセルの婚約者であり続けるために、アレクがどんなに多くのものを手放して、諦めてきたのか知りもせずに。ただ与えられるばかりで、何ひとつアレクに与えたことはなかった。
だから。
エセルは、自分がアレクから奪ったものをすべて返すために、ここへ来た。
エセルの婚約者であるせいでアレクが不幸になったのだから、エセルとの婚約を解消さえすれば、失ったものすべてをアレクは手にいれることができるはずだ。
アレクは本当ならば、宮中から冷遇されて良いような人ではないのだ。先王の第二王子で、聡明で、優しくて、剣の腕にもすぐれていて、臣下たちからの人望も厚いのだと――屋敷に引きこもっていたエセルのもとにまで噂が聞こえてくるほどに、彼は優秀だった。
エセルさえいなければ、アレクは今頃王族としてふさわしい爵位を得ていただろう。その血筋と能力にふさわしいだけの待遇を受けていただろう。美しくなんの汚点も持たない令嬢と婚約していただろう。もしかしたら、いまだ実子のいない現国王の後継にさえ選ばれていたかもしれない――それは、宮廷でまことしやかに囁かれている噂だった。
エセルはぎゅっとくちびるを噛み締めた。
すべて事実だ。エセルさえいなければすべてがうまく行く。
「アレク。今日は、きみに、言わなきゃならないことがあるんだ」
「それは、楽しい話?」
「文句なしに楽しい報せ、良い話だよ。きみにとっては」
「なんだろうな」
今流れている曲はもうじき終わる。短い曲だけれど、今はそのことがありがたかった。このままずっとアレクと一緒にいたら、固まったはずのエセルの決意が、ずるずるゆるんでしまいそうな気がしたから。
エセルはまっすぐアレクを見上げ、とびきりの笑顔で笑ってみせた。
迷いを振り切るように。心からアレクを祝福するように。
「おめでとう、アレク。きみはもうじき自由になれるよ」
「エセル……?」
「おととい、陛下に、きみとの婚約解消を申し出た。三ヶ月後に返答するとのことだ――この意味が、わかるよね、アレク」
彼は目を見開いた。そうすると、瑠璃色の瞳のなかに細かい金色が散っているのがよく見える。
「そんなことは――」
「いままでありがとう。そしてごめんなさい。わたしには、こんな形でしか伝えられないけれど。きみには幸せになってほしい」
エセルがそっと告げた瞬間、演奏されていた曲が、終わった。
握られていた手をするりと抜き取り、エセルはドレスの裾をつまんで一礼すると、踵を返して人混みの群れのなかへ紛れ込む。
体のあちこちをぶつけながら、なんとか大広間を抜け出して、静まり返った廊下を走った。必死に。アレクが追いかけて来たらどうしようと思いながら、慣れないつま先の尖った靴をカツカツ鳴らして走った。
そしてふと我に返った時には、エセルは馬車に揺られ、自分の屋敷へと戻るところだった。
向かいの席に座っている侍女のジルが心配そうにこちらを見つめている。
大丈夫だよ、と言ってやりたかったけれど、ひどく疲れ切っていて口を開くことさえ億劫だった。エセルはクッションのもたれて目を閉じ、つかの間、浅い眠りのなかをたゆたっていた。
屋敷に着いてすぐ、うんざりするほど窮屈なドレスも靴も脱がせてもらった。小冠を外し、軽く髪にブラシをかけた後、ふらふらと寝室へ移動してそのまま寝台へもぐりこんだ。
暗がりのなか、胎児のように体を丸めて、泣いてみようとしたけれど、涙は一滴も出なかった。
「はは……薄情だな、わたし。ほんと最低」
やっぱり婚約解消を申し出てよかった。こんな情の薄い女と結婚していたら、今まで以上にアレクは不幸になっていたはずだ。
エセルはぎゅっとおのれの膝を抱え込んで、目を閉じた。すぐさま眠気がやってきて、エセルの意識を底へ底へと引きずり込んでいった。
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